第25話 塩むすび
アズはよく眠る子だった。
そして、ほとんど笑わない子だった。
アズには、そのまま、リリアとマルタの寝室を使ってもらうことになった。リリアとマルタは、夜になると転移の陣でリンデンの屋敷に帰り、朝になるとまたやってくる。
森の家に来て三日。アズの傷はすっかり治ったが、記憶は戻る気配がなかった。本人も戻そうとするそぶりを見せなかった。朝、起きてくると、居間の隅の椅子に座って、じっと窓の外を見ている。話しかけると、短く答える。それだけだった。
「アズちゃん、お豆のすじ取り、手伝ってくれる?」
「……はい」
「アズさん、畑の草、一緒に抜きませんか」
「……はい」
頼めば、何でもした。黙々と手早く、きれいに。マルタが教えた豆のすじ取りは、三回目にはマルタより速くなっていた。
けれど、自分から何かをしようとはしなかった。
食事のときもそうだった。出されたものを黙って、きれいに食べる。おいしいともまずいとも言わない。表情も変わらない。
「……なんだか、人形みたいな子でございますねえ」
台所でマルタがぽつりと言った。心配そうな声だった。
「あの年ごろの娘なら、もっとはしゃいだり、すねたりするものでございますのに」
「記憶がないと何が好きだったかも分からないのかもしれません」
俺は自分のことを思い出しながら言った。
目を覚ましてから、俺が「好きだ」と分かったものは、全部、この世界に来てから、あらためて出会ったものだ。唐揚げ。シラタマの毛並み。湯船。夕暮れの縁台。
アズにも何か、そういうものが見つかればいいと思った。
シラタマはあいかわらずだった。
アズが居間に入ってくると、丸い敷物の上からじっと見る。アズが近づくと、耳を伏せて、小さくうなる。アズは、そのたびに、足を止めて、少し離れた椅子に座った。
不思議なことにアズのほうもシラタマから目を離さなかった。
怖がっているようには見えなかった。かといって、触りたがっているようにも見えなかった。ただ、じっと見ていた。何かを確かめるように。
リリアはアズと距離を置いていた。
廊下の見張りは三日目の夜でやめた。俺がやめてくれと頼んだからだ。それでも、アズが家の中を歩くときはさりげなく、目で追っていた。
一度だけ、朝の剣の稽古のとき、リリアがアズに声をかけた。
「アズさん。あなたは何か武芸の心得がありますか」
「……分かりません」
「手を見せてください」
アズは黙って、両手を差し出した。
リリアはその手のひらをじっと見た。細い指。白い肌。けれど、指の付け根と親指の腹に薄い硬いたこがあった。
「……短剣ですね」
「……分かりません」
アズの声は少しも揺れなかった。
リリアはそれ以上、何も聞かなかった。
その日の昼、ティコが転移の陣から大きな麻袋を担いでやってきた。
「お兄さん! 面白いもの仕入れてきたよ!」
ティコは袋をどさりと居間の床に下ろした。
「南の港町から来た商人がね、売れ残りだって、すっごく安く譲ってくれたの。南の国では牛や鶏の餌にしてる穀物なんだって。こっちの人は食べないから、全然売れないって」
袋の口を開ける。
中身が目に入った。
白くて、小さくて、細長い粒。
俺は息を止めた。
「……ティコ」
「ん?」
「これ、なんていう名前ですか」
「えっとコメ、だったかな」
コメ。
米。
俺は袋の前にがくりと膝をついた。
「お、お兄さん!?」
両手で粒をすくった。さらさらと指のあいだからこぼれる。乾いた、懐かしいにおいがした。
体の奥のずっと深いところから何かがせり上がってきた。
炊きたての湯気。
ふっくらとした白い粒。
塩を振った手でぎゅっと握って。
「……ティコ」
「な、なに?」
「これ、あるだけ全部、買います」
「え、ええっ!?」
「あと南の港町のその商人に次もあるだけ全部、持ってきてもらってください」
ティコは目を丸くして、俺の顔を見た。
それから、にやりと笑った。
「……お兄さん。それ、また何かすごいもの作るんでしょ」
その日の夕方、台所で俺は土鍋を作った。
土の魔法で厚手の鍋を焼き上げる。ふたもぴったりと合うように。米を井戸の水でとぎ、水に浸して、しばらく置く。それから、火にかける。
はじめちょろちょろ、なかぱっぱ。
その言葉が頭の中で勝手に鳴っていた。どこで聞いたのかは分からない。けれど、手は迷わなかった。
鍋のふたの隙間から湯気が噴き出す。ぐつぐつという音がぷつぷつという音に変わる。火を弱める。音がしずかになる。甘い香ばしいにおいが、台所じゅうに広がっていく。
マルタが鼻をひくひくさせながら、のぞきに来た。
「レイさま。餌の穀物がどうして、こんなによい匂いに……?」
「もうすぐです」
火を止めて、しばらく蒸らす。
ふたを開けた。
真っ白な湯気がぶわっと立ちのぼった。
湯気の向こうにつやつやと光る白い粒がぎっしりと並んでいた。一粒一粒がふっくらと立っていた。
ああ、と思った。
声にはならなかった。
手を水で濡らして、塩をなじませる。炊きたての米を手のひらに乗せる。熱い。けれど、それがいい。三角にぎゅっ、ぎゅっと握る。強すぎず、弱すぎず。
皿の上に白い三角がひとつ、またひとつと、並んでいった。
塩むすび。
それから、いくつかは、表面に魚醤を塗って、かまどの火でこんがりと焼いた。焼きおにぎり。焦げた魚醤のにおいが、たまらなかった。
その夜の夕食は、おにぎりと、野菜の汁物と畑でとれた菜っ葉のおひたしだった。
リリアも、ティコも、マルタも最初は白い三角をふしぎそうに眺めていた。
ひと口、食べた。
三人ともそろって、動かなくなった。
「……ほのかに甘い……」
「塩だけなのに……なんで……」
「ばあやは……ばあやは長生きしてよかったと今、思っております……」
シラタマは、焼きおにぎりを前足で押さえて、夢中でかじっていた。
アズは、居間の隅の椅子で皿の上の塩むすびをじっと見つめていた。
まだ、手をつけていなかった。
俺はアズのとなりに座った。
「アズ。食べてみて。熱いうちがおいしいから」
アズは俺の顔を見た。
それから、両手で塩むすびを持った。小さな口で端をそっとかじった。
もぐ、もぐ、と口が動いた。
アズの手が止まった。
紫色の目が手の中の白い三角を見下ろしていた。
しばらく、そのままだった。
やがて、アズの唇がかすかに動いた。
「……おいしい」
小さな、小さな声だった。
居間がしんとなった。
リリアも、ティコも、マルタも手を止めて、アズを見ていた。
アズは、自分の口から出た言葉に自分で驚いたように少しだけ目を見開いていた。
それから、もうひと口、かじった。
今度はさっきより大きなひと口だった。
「……おいしい、です」
アズはうつむいたまま、塩むすびを最後まで食べた。
俺は、何も言わずに、皿の上にもうひとつ、塩むすびを置いた。
アズはそれも食べた。
マルタがエプロンの端でそっと目元をぬぐっていた。
――その夜更け。
寝台の上でアズは窓から差しこむ月の光を背にして、座っていた。
月の光が床にアズの影を落としていた。
その影がゆらりと揺れた。
風もないのに。
影の中から声がした。
『――報告をアズ』
穏やかな男の声だった。
アズは影に向かって、頭を下げた。
「……楔は打ちました。結界の内側に」
『よくやった。あの方の様子は』
「……畑を耕しています。風呂を作りました。料理をしています」
『料理』
影の中の声がほんの少しだけ揺れた気がした。
『……あの方らしい。昔からそうだった』
短い沈黙があった。
『では次の命令だアズ』
アズは膝の上で手を握りしめた。
その手にまだ塩の味がかすかに残っていた。
第25話 了
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