第24話 雨の日の拾いもの
森の家で暮らしはじめて、十日がたった。
朝は畑の水やりから始まる。リリアがまいた種はもう小さな芽を出していた。それから、朝めし。マルタとふたりで台所に立つのがいつの間にか決まりになっていた。マルタは、俺の包丁さばきを見て、「殿方にしておくのがもったいない」と毎朝言った。
昼は、転移の陣でリンデンへ行き、リリアとギルドの依頼を受ける。夕方には帰ってきて、露天風呂に入る。シラタマは、今では、桶の湯が沸くのを湯船の縁で待っているようになった。
ティコは宣言どおり、週に三日やってきた。家の横にハンスの商会の荷物置き場ができた。森の中の林道をハンスの荷車がときどき通るようになった。
にぎやかで穏やかな毎日だった。
休息のスキルは、Lv5のまま止まっていたが、それでも、朝、目を覚ましたときに体が軽いと感じる日が増えていた。
その日は朝から雨だった。
細かい霧のような雨だった。白霧の森は雨の日にはいっそう霧が深くなる。
俺はひとりで結界の端のあたりを歩いていた。雨の日にだけ生える、白い茸を探していたのだ。マルタに煮込みに入れるとおいしいと教わった。
結界のちょうど外側。大きな木の根もとで茸の群れを見つけた。
しゃがんで、手を伸ばした。
そのとき、木の根の向こうに何かが見えた。
人の手だった。
白い細い手が濡れた落ち葉の上に力なく投げ出されていた。
俺は茸を放り出して、木の根を回りこんだ。
女の子が倒れていた。
十六歳くらいだろうか。黒い衣を着ていて、それが雨にぐっしょりと濡れて、体に張りついていた。紫色の髪が泥にまみれて、顔にかかっていた。
その額の片側から一本の黒い角が伸びていた。
魔族だ。
ティコが北の国に住んでいると言っていた。
俺は女の子のそばに膝をついた。
息はしていた。浅くて、弱い息だった。体に触れると、氷のように冷たかった。腕と足に切り傷がいくつもあった。どれも浅いが、血が雨に流されて、にじんでいた。
「……しっかり」
声をかけても、目を開けなかった。
迷っている暇はなかった。俺は女の子を抱き上げた。驚くほど、軽かった。
結界の膜を越えるとき、ほんの一瞬、膜がぴりりと震えた気がした。
けれど、すぐに静かになった。
結界は家の主が招き入れた者を拒まない。俺が抱いて運んだから、通したのだろう。
そのときはそれ以上、気にしなかった。
家に戻ると、マルタが悲鳴を上げた。
「まあまあまあ! レイさま、その子は!」
「森で倒れていました。体が冷えています。お湯を」
「は、はいっ!」
マルタが台所へ走った。
居間にいたリリアが立ち上がった。女の子の角を見て、一瞬、その目が鋭くなった。
「……魔族、ですか」
「はい。でも、けがをしています」
リリアはしばらく女の子を見つめていた。それから、小さく息をついて、うなずいた。
「寝室を空けます。私とばあやの部屋を使ってください」
寝台に女の子を寝かせて、治癒の魔法をかけた。切り傷がすうっと消えていく。マルタが濡れた衣を着替えさせてくれた。温かい湯で体を拭いた。
そのあいだシラタマはずっと寝室の入り口に座っていた。
中に入ってこなかった。
女の子のほうをじっと見ていた。耳をぴんと立てて。尻尾をぴくりとも動かさずに。
女の子が目を覚ましたのは夕方になってからだった。
紫色の髪の下でまぶたが、ゆっくりと開いた。
目の色は夕暮れの空のような深い紫だった。
その目が天井を見て、窓を見て、それから寝台のそばの椅子に座っていた俺を見た。
「……ここは」
かすれた声だった。感情のほとんどこもっていない声だった。
「森の中の俺の家です。あなたは森で倒れていました。けがは治しました」
女の子は何も言わなかった。
じっと俺の顔を見ていた。
長いあいだ、見ていた。まるで何かを確かめるように。
「あなたのお名前は?」
俺が聞くと、女の子は少しだけ目を伏せた。
「……アズ」
「アズさん。どこから来たんですか。家族は?」
アズはゆっくりと首を横に振った。
「……分かりません」
「分からない?」
「名前しか、覚えていません。どこから来たのか。なぜ、あそこにいたのか。何も」
平らな声だった。
部屋の入り口でリリアがわずかに眉を寄せた。
俺は少しのあいだ、何も言えなかった。
名前しか、覚えていない。
石室で目を覚ました朝を思い出した。冷たい石の感触。何も分からない怖さ。自分が誰なのか、どこにいるのか、何ひとつ手がかりのない、あの心細さ。
気がつくと、口から言葉がこぼれていた。
「そうか。……実は俺もなんだ」
アズの目がわずかに動いた。
「俺も記憶がない。ひと月くらい前にこの森の奥で目を覚ました。覚えていたのはレイっていう名前だけだった」
いつもの丁寧な言葉づかいが、どこかへ行っていた。自分でも、気づかなかった。
「だから、少しは分かるよ。何も分からないのがどれだけ怖いか」
俺はアズに笑いかけた。
「仲間だな」
アズの目が揺れた。
ほんのわずかに。
紫色の目の奥で何かがぐらりと傾いたように見えた。
けれど、それは一瞬のことだった。アズはすぐに目を伏せて、布団をぎゅっと握った。
「……はい」
小さな声だった。
部屋の外でマルタが湯気の立つ椀を持って待っていた。
「さあさあ、お話はあとにして。まずは温かいものを召し上がれ」
マルタがアズの手に椀を持たせた。野菜と茸を煮こんだ、とろとろのスープだった。
アズは椀の中をじっと見つめていた。
それから、おそるおそる、ひと口すすった。
また目が少しだけ揺れた。
俺は部屋を出た。
廊下でリリアが腕を組んで待っていた。
「レイ殿」
「はい」
「あの子の言うこと信じるのですか」
リリアの声は低かった。
「魔族の娘がひとりでこの森の結界のすぐ外に倒れていた。偶然にしてはできすぎています」
「……そうですね」
「それにシラタマ殿が部屋に入ろうとしません」
廊下の先でシラタマが寝室の入り口に座ったまま、まだ動かずにいた。
リリアの言うことはもっともだった。
それでも。
「リリア。俺がこの世界で最初に会った人たちは、記憶のない俺を何も聞かずに馬車に乗せてくれました」
ハンスとティコ。
「それから、逆賊の家の娘だと罵られていた人は俺の話を黙って聞いてくれました」
リリアが少しだけ目を見開いた。
「疑うのはあとでもできます。今夜は、温かいスープと寝台があればいいと思うんです」
リリアはしばらく黙っていた。
やがて、ため息をついて、腕をほどいた。
「……分かりました。ただし、今夜は私が廊下で見張ります」
「ありがとう、リリア」
「お礼を言われることではありません」
リリアはぷいと顔をそむけた。
――その夜。
寝台の上でアズは目を開けていた。
窓の外で雨がまだ降り続いていた。廊下の向こうに剣を抱いて座っている騎士の気配があった。部屋の入り口には銀色の小さな獣がまだこちらを見ていた。
アズはゆっくりと手のひらを見た。
腕と足の傷は自分でつけたものだった。森で倒れていれば、あの人は必ず拾う。司教さまはそう言った。
そのとおりになった。
アズは枕の下にそっと手を入れた。
指先に小さな冷たいものが触れた。黒い石のかけらだった。まぶたの中に瞳がひとつ。黒い目の紋章が刻まれていた。
結界の内側にこれを置くこと。それが最初の命令だった。
森で拾われた瞬間にもうその命令は果たされていた。
アズは石のかけらを握りしめた。
命令を果たしたのだから、何も感じるはずはなかった。
なのに。
――仲間だな。
あの声が耳の奥から離れなかった。
アズは目を閉じた。
胸の奥がなぜか、少しだけ痛かった。
それが何なのか、アズには分からなかった。
第24話 了
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