第21話 名無しの魔導師の庵
「お兄さん、宿代、いくら払ってるか知ってる?」
ドレイクの騒ぎから三日たった朝、ハンスの店の帳場でティコが帳面を指でたたいた。
「一泊、銀貨八枚。ひと月で金貨二枚と銀貨四十枚。Cランクに上がったからって、このまま月見亭に住み続けたら、稼いだお金がどんどん宿に消えていくよ」
「……そんなにかかってたんですね」
「かかってたんです」
ティコは腰に手を当てた。すっかり、俺の財布係の顔だった。
「家を借りるか、買うかしたほうがいいよ。リンデンなら、町外れの小さい家で金貨三十枚くらいから」
家。
その言葉を聞いた瞬間、頭に浮かんだのは町の家ではなかった。
森の奥の屋根が半分崩れた、あの平屋だった。暖炉の前の体にぴったりの椅子。かまどの上の、「カレー食べたい」の落書き。かごの底に残っていた銀色の毛。
あの家で眠った夜、ひどく落ち着いたことを覚えている。
「ティコ。家なら、心当たりがあります」
「え?」
「俺が目を覚ました森の中に空き家があったんです。ずいぶん古くて、屋根も半分崩れていましたけど」
ティコは目をぱちくりさせた。
「森の中って……お兄さんが目を覚ましたの西の白霧の森でしょ? あそこ、ヴェステン辺境伯さまの領地だよ。勝手に住んだら、怒られるよ」
「じゃあ、領主さまに聞いてみます」
その日の午後、俺とリリアは領主の館を訪ねた。
ロザリンドは、ちょうど執務室で書類に目を通しているところだった。俺の話を聞くと、眼鏡の奥の灰色の目をわずかに細めた。
「白霧の森の中の空き家ですか」
「はい。石の部屋から少し歩いたところです」
「……オットー。領地の古い地図を持ってきなさい。いちばん古いものを」
しばらくして、オットーが筒に丸められた古い地図を持ってきた。ロザリンドが机の上に広げる。羊皮紙は黄ばんでいて、端がぼろぼろになっていた。
「これは百年ほど前の地図です。先々代の辺境伯、わたしの祖母の代に作られたものです」
地図の左半分はほとんどが森だった。細い線で木の絵が描きこまれている。その森の中ほどに小さな四角い印がひとつだけあった。
その横に細い字で何か書いてあった。
俺は身を乗り出して読んだ。
――名無しの魔導師の庵。
「名無しの……魔導師」
リリアがつぶやいた。
「今の地図にはこの印はありません」
オットーが新しい地図を広げて見せた。たしかに同じ場所には何も描かれていなかった。
「百年のあいだに誰も住まなくなり、忘れられたのでしょう。白霧の森は霧が深く、道に迷う者が多い。今では猟師もあまり奥までは入りません」
ロザリンドは、古い地図の上の小さな四角をじっと見つめていた。
「名無しの魔導師」
小さく、その言葉を繰り返す。
それから、ゆっくりと顔を上げて、俺を見た。
ロザリンドの目は、何かを確かめるように長いあいだ、俺の顔から離れなかった。灰色のローブ。黒い髪。どこにでもいる若い男の顔。
「……レイ殿」
「はい」
「あなたはその家で何か見つけましたか」
俺は少し迷った。
壁の落書き。銀色の毛。暖炉の前の椅子。
「……古い椅子と、かまどと壁の落書きくらいです」
嘘ではなかった。ただ、全部でもなかった。
ロザリンドはそれ以上、何も聞かなかった。
「分かりました。その庵とまわりの土地をあなたにお譲りしましょう」
「え……いいんですか」
「持ち主のいない土地です。百年も放っておかれた家に住もうという物好きは、あなたくらいのものでしょう。代金は……そうですね。金貨一枚でいかがですか」
「金貨一枚」
ティコの話では町外れの小さい家でも金貨三十枚だった。
「ドレイクの件のお礼もきちんとできておりませんでしたから。それに」
ロザリンドは古い地図を丁寧に丸めながら、ぽつりと言った。
「名無しの魔導師の庵には名無しの魔導師が住むのがふさわしい。……そんな気がしただけです。年寄りのたわごとですよ」
館を出てから、リリアが首をかしげた。
「領主さまは何をおっしゃりたかったのでしょう」
「さあ……」
俺にも分からなかった。
ただ、ロザリンドの最後の目つきがなぜか、頭から離れなかった。懐かしいものを見るような目。それでいて、どこか、痛みをこらえるような目。
翌朝、俺は、リリアとシラタマと一緒に白霧の森へ向かった。
問題は距離だった。
ハンスの商隊と出会った街道からリンデンまで馬車で四日。そこからさらに森の奥まで。普通に歩けば、五日はかかる。
「……五日」
リリアがうなった。
「毎回、行き来するたびに五日ではギルドの依頼を受けるのも難しいですね」
「それなんですけど」
俺はリンデンの城門を出たところで立ち止まった。
「リリア、高いところは平気ですか」
「……はい?」
俺はリリアの手を取った。リリアがびくりと肩を揺らした。
「な、何を――」
「しっかり、つかまっていてください」
足もとに風をまとわせる。今度は落ちる速さをゆるめるためではない。持ち上げるために。
ふわり、と体が浮いた。
リリアの足も地面から離れた。
「ひゃっ――!?」
騎士らしくない声がリリアの口から飛び出した。
そのまま、空へ。城壁の高さを越え、塔の高さを越え、リンデンの町が足もとで小さくなっていく。フードの中でシラタマが「きゅうううっ」と楽しそうに鳴いた。
「れ、れれれ、レイ殿っ! と、飛んで、飛んでいます!」
「はい。飛んでます」
「なぜ、そんなに落ち着いていらっしゃるのですか!」
「……なんとなく慣れている気がして」
本当だった。空の上は怖くなかった。むしろ、体がこの感覚を覚えていた。風を足もとに敷いて、空を渡る。何度も、何度もこうしてきたような気がした。
西へ飛ぶ。
麦畑が緑の布のように広がっている。街道が細い糸のように見える。やがて、その先に白い霧に包まれた、深い森が見えてきた。
リリアは、最初こそ俺の腕にしがみついて目をつぶっていたが、しばらくすると、そっと目を開けて、下を見た。
「……きれい」
小さな声だった。
青い目にどこまでも続く緑と白い霧が映っていた。
森の上をしばらく飛ぶ。霧の切れ間にまっすぐな一本の線が見えた。俺が薪を作ろうとして切り開いてしまった、あの林道だ。上から見ると、森にナイフで一本、線を引いたようだった。
「あれは……?」
「……道です。俺が作った」
「道を作った」
「薪を割ろうとしたら、ああなりました」
リリアはしばらく黙っていた。
それから、小さくふき出した。
林道に沿って、下りていく。
やがて、茂みの奥にあの家が見えた。
屋根は半分崩れたままだった。壁には蔦が絡みついたままだった。扉は蝶番がひとつ外れて、傾いたままだった。
俺たちは家の前にそっと降り立った。
リリアは地面に足がつくと、少しよろけた。俺が支えると、あわてて手を離して、咳払いをした。
「……リンデンから半刻もかかりませんでした」
「毎日は無理ですけど、これなら、行き来できます」
「毎日は私の心臓が無理です」
リリアはまだ少し赤い顔で家を見上げた。
「ここが名無しの魔導師の庵」
「はい」
俺も家を見上げた。
半月ほど前、ひとりで見つけたときと何も変わっていなかった。
けれど、今はとなりにリリアがいる。フードの中にはシラタマがいる。
フードからシラタマが飛び出した。
家の前の草の上に着地すると、ぴたりと動きを止めた。鼻をひくひくと動かす。それから、ゆっくりと家のほうへ歩いていった。
傾いた扉の前でシラタマは立ち止まった。
そして、扉の下の隙間に鼻を押しつけて、長いあいだ、においをかいでいた。
尻尾がゆっくりと左右に揺れていた。
うれしそうに。
それでいて、どこか、寂しそうに。
「……シラタマ殿はこの家を知っているのでしょうか」
リリアが小さな声で言った。
「分かりません」
俺はポケットの中の銀色の毛に触れた。
かごの底に残っていた一本の毛。シラタマの毛と同じ色の。
「でも、たぶん」
シラタマが振り返った。
金色の目で俺を見た。
早く入ろう、と言っているようだった。
俺は扉に手をかけた。
「ただいま」
口から勝手にその言葉がこぼれた。
リリアが不思議そうに俺を見た。
俺自身もなぜそう言ったのか、分からなかった。
第21話 了
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