第18話 ふたつの帳簿
カーラは、居間の椅子に浅く腰かけて、抱えてきた帳面を机の上にそっと置いた。
手がまだ震えていた。ハンスが温かいお茶を出すと、カーラは両手でカップを包みこんで、ようやく少しだけ息をついた。
「わたしは、ギルドで素材の買い取りの記録をつけています」
カーラはゆっくりと話しはじめた。
「冒険者の方が素材を持ってきたら、何をいくらで買い取ったかを毎日、この台帳に書きます。一日の終わりに台帳をギルドマスターの部屋へ持っていきます。そこまでがわたしの仕事です」
「それで?」
「三年前、ドレイクさまがギルドマスターになってから、翌朝、台帳が返ってくると、中身が変わっているようになりました」
カーラは帳面の表紙にそっと手を置いた。
「数字が書き換えられているんです。わたしが金貨十枚と書いたところが銀貨五十枚になっていたり。わたしが書いた買い取りがまるごと消えていたり。……最初は、わたしの書き間違いを直してくださったのだと思っていました。でも、あまりにも多くて」
「それで、写しを?」
「はい。一年前から毎日、台帳を持っていく前に自分で写しをとるようにしました。家に帰って、夜中にこっそり。……何かの役に立つかどうかも分からないまま」
カーラはうつむいた。
「本当はもっと早く、誰かに言うべきでした。でも、怖くて。ドレイクさまに逆らった職員はみんな辞めさせられています。わたしには、病気の母がいて、ギルドの仕事を失うわけには……」
声がかすれた。
「でも、今日。リリアさんが、キングを偽物だと言われて、泥棒扱いされて。わたしはあの角も、魔石も本物だと分かっていたんです。毎日、素材を見ているんですから。なのに、何も言えなかった」
カーラはリリアのほうを向いて、深く頭を下げた。
「ごめんなさい、リリアさん。この町に来てから、ずっとあなたが嫌がらせをされるのを、見て見ぬふりをしていました。本当にごめんなさい」
リリアはしばらく黙っていた。
それから、椅子から立ち上がって、カーラのそばまで行った。
「顔を上げてくださいカーラさん」
カーラがおそるおそる顔を上げた。
「あなたは今夜、ここに来てくださいました。怖いのに。それで、十分です」
リリアはそう言って、少しだけ笑った。
カーラの目から涙がこぼれた。
俺は机の上の帳面を開いた。
一年分の買い取りの記録だった。細かい几帳面な字で日付と、冒険者の名前と、素材の種類と金額がびっしりと並んでいる。
それから、ティコが書き写してきた三年分のギルドの収支報告。
それから、ハンスの店が払ってきた三年分の手数料の受け取り。
三つの紙の山を机の上に並べた。
その瞬間、頭の中で何かがかちりと切り替わった。
「……ティコ。紙とペンをたくさんください」
「え? う、うん」
「ハンスさん。明かりをもうひとつ、お借りできますか」
「は、はい」
「リリア。……すみません、お茶をもう一杯」
「……かしこまりました」
そこから先のことはよく覚えていない。
いや、覚えてはいるのだ。ただ、自分がやっていることがあまりにも自然で考えるより先に手が動いていた。
カーラの台帳の数字を月ごとに、素材の種類ごとに表にまとめる。ギルドの収支報告の「買い取り支出」と「素材売却収入」の欄を同じように表にする。ふたつを並べて、一行ずつ突き合わせていく。
合わない。
合わない。
ここも合わない。
ずれた数字に赤い印をつけていく。赤い印がどんどん増えていく。ずれ方にはくせがあった。高い素材ほど大きくずれる。そして、ずれた素材は、決まって翌月、王都の商会へ正規の値段で売られていた。
次にハンスの受け取りと収支報告の「手数料収入」を突き合わせる。ハンスの店ひとつが払った額だけで、報告に書かれた手数料収入の三分の一を超えていた。リンデンに商店が何十軒あるかを考えれば、どう見ても、数字が小さすぎる。
それから、「報奨金支出」。カーラの台帳には報奨金の支払い先も書かれていた。同じ名前が何度も出てくる。
――鉄の拳、ボリス。
この一年で鉄の拳が受け取った報奨金は、ほかのパーティの五倍を超えていた。そして、そのたびに、同じ日に同じような額がギルドの「雑費」として消えていた。
ペンを走らせる。紙をめくる。数字を足す。引く。書きこむ。
まわりで誰かが何かを言っているのが聞こえた。
「……お父さん。お兄さん、さっきから一回も顔上げてないよ」
「……ああ。まるで何かに取りつかれたようだ」
「レイ殿。お茶が冷めてしまいます」
「ありがとう、そこに置いといてください」
「……三杯目です、それ」
窓の外がいつの間にか、真っ暗になっていた。
それから、いつの間にか、白みはじめていた。
「――出ました」
俺はようやくペンを置いて、顔を上げた。
居間の中は静かだった。
ハンスは椅子に座ったまま、腕を組んで舟をこいでいた。カーラは机の端で自分の腕を枕にして眠っていた。リリアは、長椅子の上でシラタマを胸に抱いたまま、すうすうと寝息を立てていた。
起きていたのはティコだけだった。俺のとなりで目の下にくまを作りながら、俺の書いた表を食い入るように見つめていた。
「……お兄さん」
「はい」
「これ、全部、一晩で作ったの?」
「はい。……作りました」
机の上には紙が何十枚も積み上がっていた。表。数字。赤い印。矢印。いちばん上の紙に俺はまとめを書いていた。
――素材買い取りの差額。確認できたもの(この一年分)、金貨四百十枚。
――手数料収入の過少報告。推定(この一年分)、金貨二百八十枚。
――鉄の拳への報奨金の水増しと同日の雑費支出。確認できたもの(この一年分)、金貨百三十枚。
――三年分の推定合計、金貨一千二百四十枚。
ティコがごくりと唾を飲んだ。
「金貨……千二百四十枚……」
「この一年分はカーラさんの台帳があります。だから、はっきりしています。残りの二年分は、ハンスさんの受け取りと収支報告の数字のくせから推し量ったものです」
「お兄さん、これ、どこで覚えたの?」
「……分かりません」
本当に分からなかった。
ただ、一晩じゅう、数字と向き合っているあいだ、不思議な感覚があった。
懐かしい、と思ったのだ。
夜中の明かり。積み上がった紙。冷めたお茶。数字が合わない。合わない理由を探す。朝になる。窓の外が白む。
俺はこの時間を知っていた。何百回も、何千回も繰り返してきた気がした。
そして、そのときの俺はいつもひとりだった。
ふと、長椅子で眠っているリリアを見た。机の端で眠っているカーラを見た。舟をこいでいるハンスを見た。となりで目をこすっているティコを見た。
今夜はひとりではなかった。
それがなんだか、胸にしみた。
「それと、もうひとつ」
俺は表のいちばん下を指さした。
「毎月、決まった日に金貨二十枚がギルドの外へ送られています。送り先は『東方巡礼会』という名前の団体です」
「東方巡礼会? 聞いたことないな」
「カーラさんの台帳にその送り状の写しが一枚だけ挟まっていました」
俺はその写しをティコに見せた。
送り状の隅に小さな印が押してあった。
まぶたの中に瞳がひとつ。
ティコの顔がこわばった。
「これ……盗賊が持ってた依頼書の……」
「はい。同じ印です」
俺はポケットの中の黒い金属の徽章に触れた。
ひやりと冷たかった。
そのとき、カーラが目を覚ました。
「……ん……わたし、眠って……」
ぼんやりと顔を上げたカーラに俺は聞いた。
「カーラさん。ギルドマスターの不正を正式に調べてもらう方法はありますか」
カーラは目をこすりながら、しばらく考えた。
「……あります。ギルドの規則に書いてあります。登録している冒険者が十人以上、連名で願い出れば、ギルドマスターに臨時の監査を求めることができます。監査の場には領主さまのお役人が立ち会います」
「十人」
俺とリリアで二人。
ハンスは商人としての登録だから、数に入らない。
「ハンスさんの商隊の護衛の方たちは?」
「三人ともギルドに登録しております」
いつの間にか目を覚ましていたハンスがうなずいた。
「これで五人」
あと五人。
リリアが長椅子の上でゆっくりと体を起こした。シラタマを抱いたまま、窓の外の朝日を見ていた。
「……あと五人。集めましょう」
その声は少しも眠そうではなかった。
「ドレイクに素材を買い叩かれた冒険者は、この町にたくさんいるはずです。みんな黙っているだけで」
「でも、グランツの娘の頼みを聞いてくれるでしょうか」
カーラが不安そうに言った。
リリアは少しだけ唇をかんだ。
それから、顔を上げた。
「聞いてもらえるまで頼みます」
その日、俺たちは町じゅうを歩き回った。
――その夜。
ギルドの二階のギルドマスターの部屋で、ドレイクは一枚の紙を見下ろしていた。
臨時監査の請求書だった。
十一人の署名が並んでいた。
いちばん上にリリア・グランツ。その下に、レイ。
ドレイクはしばらくその紙を見つめていた。それから、薄い唇の端をつり上げた。
「監査は明日の朝か」
ドレイクは部屋の隅の金庫を開けた。中から黒い革表紙の帳面を取り出す。
それを暖炉の前に立っていたボリスに放り投げた。
「燃やせ。灰も残すな」
第18話 了
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