第16話 ひと部屋しかない
「申し訳ございません。お部屋はひとつしか空いておりませんで」
ミルト村のたった一軒の宿屋のおかみさんが、心底すまなそうに頭を下げた。
宴のあと村長は今夜は泊まっていけと言ってくれた。夜道を半日かけてリンデンへ帰るのは危ない。ありがたく、その言葉に甘えることにした。
ところが、宿屋には、ちょうど旅の薬売りの一行が泊まっていて、空いている部屋がひとつしかなかったのだ。
「寝台もひとつきりでございます。……そのお二人はご夫婦では」
「違います」
「違います」
俺とリリアの声が見事にそろった。
おかみさんは「あらまあ」と言って、口もとを押さえた。その目がなぜか、少しだけ楽しそうだった。
結局、その部屋を借りることになった。ほかに泊まる場所がなかった。
部屋は狭かった。寝台がひとつ。小さな机がひとつ。窓がひとつ。それだけだった。窓の外には白い月と青い月が並んで浮かんでいた。
俺とリリアは、部屋の入り口に立ったまま、寝台を見つめていた。
「……俺は外で寝ます」
先に口を開いたのは俺だった。
「村の広場のたき火のそばなら、寒くないですし。野宿には慣れていますから」
「なりません」
リリアがきっぱりと言った。
「仲間を外で寝かせて、自分だけ寝台で眠る騎士はおりません。私が外で寝ます」
「それこそ、だめです。リリアは今日、キングと戦ったんですよ。いちばん休まなきゃいけないのはリリアです」
「レイ殿こそ、洞窟の中でずっと明かりをともしていらっしゃいました」
「あれは疲れませんから」
「では私も疲れておりません」
「さっき、座りこんでたじゃないですか」
「……あれはその」
リリアが言葉に詰まった。
俺たちの足もとでシラタマがあきれたようにふわあ、とあくびをした。
話し合いの結果、リリアが寝台で俺が床で寝ることになった。宿屋のおかみさんから厚手の毛布を二枚借りた。一枚を床に敷いて、もう一枚をかける。これなら、十分に温かい。
リリアは、最後まで納得していない顔をしていたが、「床のほうが、腰にいいんです」という俺の出まかせにしぶしぶうなずいた。
問題はもうひとつあった。
シラタマがどちらで寝るか、だった。
「シラタマ殿」
寝台に腰かけたリリアが両手を広げた。
「今夜はこちらへいらっしゃいませんか。寝台のほうが、やわらかいですよ」
シラタマは床の上で首をかしげた。
俺のほうを見る。リリアのほうを見る。俺のほうを見る。
「シラタマ。好きなほうで寝ていいぞ」
俺が言うと、シラタマは少し考えるように耳をぴこぴこと動かした。
それから、ぴょん、と寝台に飛び乗った。
リリアの膝の上にころんと転がる。
「……っ!」
リリアの顔がぱあっと明るくなった。
勝ち誇ったような顔でちらりと俺を見る。騎士らしくない顔だった。
「では、レイ殿。おやすみなさいませ」
「……おやすみなさい」
なぜか、少しだけ負けた気がした。
明かりを消すと、部屋の中は窓から差す月の光だけになった。
床の毛布にくるまって、天井を見上げる。木の梁が月の光に浮かんでいた。寝台のほうから、リリアがシラタマをなでているらしい、かすかな衣ずれの音が聞こえた。
しばらくして、リリアの声がした。
「……レイ殿。起きていらっしゃいますか」
「起きてます」
「ひとつ、お聞きしてもよろしいですか」
「どうぞ」
「レイ殿はどちらのご出身なのですか。あれほどの魔法を使える方が今まで、どこにも名を知られていなかったというのが不思議で」
俺は少し迷った。
それから、正直に話すことにした。仲間になったのだから。
「実は分からないんです」
「分からない?」
「記憶がないんです。ほんの十日ほど前に森の奥の石の部屋で目を覚ましました。覚えていたのはレイという名前だけで。どこで生まれたのか、何をしていたのか、どうしてあんな魔法が使えるのか、何も分からないんです」
寝台のほうが、静かになった。
衣ずれの音も止まっていた。
「……そうでしたか」
しばらくして、リリアが言った。
「すみません。軽々しく、お聞きしてしまいました」
「いいえ。聞いてもらえて、少し楽になりました」
本当だった。ハンスとティコには話していたが、自分の口からこうしてゆっくり話したのは初めてだった。
また、沈黙が落ちた。
窓の外で虫が鳴いていた。
「……私も同じかもしれません」
リリアがぽつりと言った。
「同じ?」
「我が家の昔のことを私は何も知りません。なぜユーグが聖王国を裏切ったのか。名もなき友とは誰なのか。どんな約束なのか。自分の家のことなのに、いちばん大事なところがすっぽりと抜け落ちているのです」
リリアの声は静かだった。
「だから、少しだけ分かる気がします。分からないことを抱えて生きるのがどういうことか」
俺は天井を見上げたまま、目を閉じた。
昼間、洞窟の中で見た光景がまぶたの裏によみがえった。中庭。木剣。汗まみれのユーグ。灰羽という名前。
今、それを話したら、リリアはどんな顔をするだろう。
――思い出すな。
ポケットの中の手紙がひやりと冷たかった。
俺は何も言わなかった。
「……いつか、分かるといいですね。お互いに」
それだけ、言った。
「はい」
リリアの声が少しだけやわらかくなった。
「おやすみなさいませ、レイ殿」
「おやすみなさい、リリア」
そのあといつ眠ったのか、覚えていない。
夜中に一度だけ目が覚めた。
胸の上に何か温かいものが乗っていた。
シラタマだった。いつの間にか、寝台から降りてきて、俺の胸の上で丸くなって眠っていた。小さな寝息があごの下をくすぐる。
俺は半分眠ったまま、その背中をなでた。やわらかかった。温かかった。
そのまま、また眠りに落ちた。
夢は見なかった。
朝、目が覚めた。
窓から明るい光が差していた。
ずいぶん、よく眠った気がした。体が軽い。頭もすっきりしている。目が覚めてから、しばらくのあいだ、ぼんやりと天井を眺めていられるほどに。こんな朝は初めてのような気がした。
胸の上にはまだシラタマが乗っていた。
そして、左腕がなぜか、重かった。
首をそっと横に向ける。
リリアがいた。
床の上に。俺の毛布のすぐとなりに。寝台から引きずり下ろしてきたらしい自分の毛布にくるまって、丸くなって、眠っていた。その手がシラタマの尻尾をしっかりと握っていた。その腕が俺の左腕の上に乗っていた。
「……」
俺は動けなくなった。
どうして、こうなった。
考えられることはひとつしかなかった。夜中にシラタマが寝台から降りた。リリアがそれを追いかけて、寝ぼけたまま、床まで来た。そして、そのまま、ここで眠った。
リリアの寝顔は昼間の騎士の顔とはまるで違っていた。眉がゆるんで、口が少しだけ開いていて、なんだか、年相応に幼かった。
どうしよう。
起こすべきか。起こさないべきか。そっと腕を抜くべきか。
迷っているうちに、リリアのまつげがぴくりと動いた。
青い目がゆっくりと開いた。
俺と目が合った。
リリアはしばらくぼんやりと俺を見ていた。それから、自分の手を見た。シラタマの尻尾を握っている手。俺の腕の上に乗っている腕。床の毛布。
リリアの顔が下から順番に真っ赤になっていった。
「――っ!?」
リリアが跳ね起きた。
ものすごい速さで部屋の反対側の壁まで下がった。背中を壁にぴったりとつけて、毛布を胸の前で握りしめている。
「ち、ちちち、違います! これは、そのシラタマ殿が夜中に寝台からいなくなって、それであの護衛です! 騎士として、シラタマ殿の護衛を……っ!」
「は、はい。分かってます」
「わ、分かっていらっしゃるなら、いいのです!」
リリアは、耳まで真っ赤にして、窓のほうを向いてしまった。
胸の上でシラタマが目を覚ました。大きく伸びをして、あくびをして、それから何事もなかったかのように俺の顔をぺろりとなめた。
「……お前のせいだぞ」
「きゅう?」
シラタマはとぼけた顔で首をかしげた。
そのとき、目の前に半透明の板が浮かんだ。
【休息のスキルが上がりました】
【休息Lv2→Lv3】
【効果:眠りが深くなる】
俺はその板をじっと見つめた。
眠りが深くなる。
たしかに昨夜はよく眠れた。夢も見なかった。こんなに体が軽い朝は、記憶にあるかぎり――といっても、十日分しかないが――初めてだった。
ひとりでではなかったからだろうか。
窓のほうを向いたまま、まだ耳を赤くしているリリアの背中を見た。胸の上の温かい毛玉を見た。
俺は、なんだか笑えてきて、毛布の中で声を殺して笑った。
「……な、何を笑っていらっしゃるのですか」
「いえ。いい朝だなと思って」
「……っ、からかわないでください!」
リリアが枕を投げてきた。
枕は俺の顔に命中した。
シラタマがうれしそうにきゅうきゅうと鳴いた。
第16話 了
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