第15話 月の光
影の狼が跳んだ。
音がなかった。黒い煙の体が地面を蹴ることもなく、滑るように宙を走る。大きく開いた口の中にも牙の形をした影がぎらぎらと並んでいた。
狙いはリリアだった。
「――っ」
リリアが剣の柄に手をかけた。けれど、抜くのが間に合わない。疲れ切った体がついてこない。
俺は、リリアの肩に治癒の光を当てたまま、もう片方の手を上げようとした。
今度は約束は関係ない。戦いは終わっていた。これは新しい敵だ。
手のひらに魔力を――。
その前に俺の腕の中から銀色のものが飛び出した。
「シラタマ!?」
シラタマはリリアの前に着地した。
両手に乗るくらいの小さな体。ふわふわの毛。その毛が全身、ぶわっと逆立っていた。四本の足でしっかりと岩の床を踏みしめて、迫ってくる影の狼をまっすぐに見上げている。
小さい。あまりにも小さい。
影の狼の口ひとつで丸ごと飲みこまれてしまうほどに。
「シラタマ殿、だめです、逃げて……!」
リリアが手を伸ばした。
そのとき、シラタマの体が光った。
銀色の光だった。
毛の一本一本が内側から輝きはじめる。昼間の日の光とは違う。冷たくて、静かで澄みきった光。夜空の白い月の光。
洞窟の中が月夜のように銀色に染まった。
影の狼の動きが空中でほんの一瞬だけ鈍った。
シラタマが口を開けた。
「きゅ――」
小さな口の奥に光が集まっていく。
「――うううううっ!」
光が放たれた。
細い一本の光の筋だった。月の光を一本の糸に撚り合わせたような銀色の光。
それが影の狼の開いた口の中に飛びこんだ。
影の狼が悲鳴を上げた。
声ではなかった。黒い煙がぶるぶると震えて、きしむような音を立てた。光に触れたところから影がほどけていく。煙が霧になり、霧が消えていく。
額の紋章が最後まで抵抗するように黒く光っていたが、やがてそれも銀色の光に呑みこまれた。
影の狼は跡形もなく消えた。
けれど、光は止まらなかった。
影の狼がいた場所を突き抜けて、光の筋はそのまま洞窟の奥へまっすぐに伸びていった。骨の山を消し、岩の壁に当たり――岩の壁も消した。
音もなく、ただ、消した。
その奥の岩も。そのまた奥の岩も。
光が消えたとき、洞窟の奥の壁にはぽっかりと穴が空いていた。
大きな丸い穴だった。穴の向こうに夕暮れの空が見えた。丘を向こう側までまっすぐに貫いていた。
冷たい風が穴から吹きこんできた。
静かだった。
シラタマは光の消えた体でちょこんと座っていた。それから、こてん、と横に倒れた。
「シラタマ!」
俺はあわてて駆け寄って、抱き上げた。
シラタマは目を閉じていた。
すうすうと寝息を立てていた。
口の端からよだれが垂れていた。
「……寝てる」
体を調べる。けがはない。魔力を使い果たして、眠ってしまっただけらしい。俺はへなへなとその場に座りこんだ。
となりでリリアも呆然と座っていた。
二人で洞窟の奥の丸い穴を見た。
穴の向こうの夕焼け空を見た。
腕の中のよだれを垂らして眠る、小さな毛玉を見た。
「……えっ」
「……えっ」
声がそろった。
しばらく二人とも何も言えなかった。
やがて、リリアがぽつりとつぶやいた。
「レイ殿」
「はい」
「月銀狐というのは皆、こうなのですか」
「……俺にも分かりません」
「そうですか」
「はい」
また沈黙。
穴の向こうでカラスのような鳥がかあ、と鳴いた。
リリアが突然、ふき出した。
「ふ、ふふ……っ、ふふふ」
肩を震わせて、笑っている。
「リリア?」
「す、すみません。でも……っ。私、レイ殿に守られるのが悔しいと昨日、あれほど言ったのに……」
リリアは、目尻の涙をぬぐいながら、眠っているシラタマを見た。
「シラタマ殿に守られてしまいました」
その顔があまりにも楽しそうで俺もつられて笑ってしまった。
笑いながら、胸の奥がじんわりと温かくなった。シラタマはリリアを守ったのだ。こんなに小さな体であんなに大きな影の前に迷わず飛び出して。
――今度こそ、守ってやれ。
手紙の二行目が頭に浮かんだ。
守ってやらなければならないはずの子狐に守られた。それがなんだか、おかしくて、うれしかった。
ひとしきり笑ったあと俺は影の狼が消えた場所を調べた。
岩の床に小さなものがひとつ、落ちていた。
黒い金属の円盤だった。手のひらに乗るくらいの大きさ。表面に黒い目の紋章が刻まれている。影の狼の額にあった、あの焼き印と同じ形だった。これだけはシラタマの光でも消えなかったらしい。
拾い上げると、板が浮かんだ。
【黒眼の徽章】
【種別】魔道具
【効果】影の獣を呼び出し、命令に従わせる
【備考】■■の■■の所有物。現在の持ち主――閲覧不可
「……影の獣を呼び出す」
リリアが俺の手もとをのぞきこんだ。
「では、あの狼は誰かに呼び出されて、ここにいたのですか」
「そうみたいです。……たぶん、村の牛を運んだのもあの狼です。村長さんが言っていた大きな足跡も」
「ゴブリンたちに家畜を与えて、群れを大きくさせていた……?」
「分かりません。でも、誰かが何かのために、ここに置いていった」
俺は徽章をじっと見つめた。
盗賊が持っていた依頼書。密猟者の腕に巻かれた布。そして、この徽章。
同じ紋章が俺のまわりに少しずつ増えていく。
徽章をポケットにしまった。手紙と、銀色の毛と並べて。
ミルト村に戻ったのはすっかり日が暮れてからだった。
ゴブリンキングの角と魔石を見せると、村長は腰を抜かしそうになった。村の人たちが次々と家から出てきて、俺たちを囲んだ。子どもたちがリリアの鎧に触ろうとして、母親に叱られていた。
「キングを……お嬢さんが、お一人で?」
「はい。私が倒しました」
リリアは胸を張って言った。
それから、少しだけ声を落として、付け加えた。
「最後の大きな狼はこの子が」
リリアの腕の中でシラタマがまだ眠っていた。帰り道、ずっとリリアが抱いて歩いてきたのだ。俺が代わろうとしても、「いえ、私が」と言って譲らなかった。
村の人たちはその小さな毛玉を見て、首をかしげていた。無理もない。
その夜、村ではささやかな宴が開かれた。
村の広場で大鍋の煮込みがふるまわれた。俺も少しだけ手伝った。鍋に村の畑で採れた香草を足して、隠し味に干した茸を砕いて入れた。村の人たちはひと口食べて、目を丸くした。
煮込みのにおいで、シラタマが目を覚ました。
リリアの腕の中でぱちりと目を開けて、鼻をひくひくさせて、それから自分の皿を探して、きょろきょろと首を回した。
広場じゅうが、笑いに包まれた。
リリアが煮込みの肉をひとかけら、指でつまんで差し出した。シラタマはそれをはぐっとくわえた。
「……シラタマ殿。ありがとうございました」
リリアが小さな声で言った。
シラタマは、もぐもぐと口を動かしながら、リリアの指をぺろりとなめた。
たき火の明かりの中でリリアの顔がとろけるようにゆるんでいた。
第15話 了
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