第14話 灰羽
暗がりの中の赤い目は動かなかった。
ただ、じっとこちらを見ている。獲物を見るような目ではなかった。何かを確かめるような観察するような目だった。
動いたのはゴブリンキングのほうだった。
骨の山を蹴って、巨体が跳んだ。大きな斧を頭上高く振りかぶる。
リリアは横に跳んだ。
斧がさっきまでリリアが立っていた地面に叩きつけられた。どごん、と洞窟全体が揺れる。岩の床が蜘蛛の巣のようにひび割れた。
リリアは着地と同時に踏みこんだ。キングの脇腹へ剣を突き入れる。
がきん、と硬い音がした。
剣はキングの肌に浅くしか刺さらなかった。岩のような筋肉が刃を押し返している。
「硬い……っ」
キングが腕を振り回した。リリアは剣を引き抜いて、転がるように後ろへ下がった。
また、斧が来る。横薙ぎ。リリアは身をかがめてかわす。すぐに振り下ろし。跳んでかわす。石突きでの突き。剣で受け流す。
キングはただの力任せではなかった。リリアの動きを読んで、逃げ道をふさぐように斧を振っている。知恵が回る、と鑑定に書いてあったとおりだ。
リリアの動きが少しずつ鈍っていった。
三十匹以上のゴブリンを倒したあとだ。息が上がっている。額から汗がしたたっている。
キングの斧がリリアの肩をかすめた。
鎧の肩当てが弾け飛んだ。
「っ……!」
リリアの体が横に吹き飛んだ。洞窟の壁に背中から叩きつけられる。
俺の足が勝手に一歩前に出ていた。
手のひらに魔力が集まる。ほんの少し。ほんの少し撃てば、あの巨体は消える。
「――レイ殿!」
リリアの声が洞窟に響いた。
壁にもたれたまま、リリアが俺をにらんでいた。口の端から血がひとすじ垂れていた。それでも、その目は少しも諦めていなかった。
「約束です」
「でも」
「私はまだ立てます」
リリアは剣を杖にして、立ち上がった。
膝が震えていた。それでも、立った。
俺は手のひらの魔力をゆっくりと散らした。
奥歯をかみしめた。
見ているだけというのはこんなにも苦しいものなのか。自分が戦うよりもずっと。
キングが勝ち誇ったように吠えた。斧を引きずりながら、リリアのほうへゆっくりと歩いていく。とどめを刺すつもりだ。
リリアは剣を構えた。
ただし、さっきまでとは構えが違った。
剣先を下に向けている。体の力をふっと抜いている。まるで風に揺れる草のようにゆらゆらと。
「……父上。お借りします」
リリアが小さくつぶやいた。
キングが斧を振り上げた。
リリアが動いた。
速くはなかった。むしろ、ゆっくりに見えた。リリアの剣がふわりと宙に浮いた。まるで一枚の羽根が風に乗って舞い落ちるように。
キングの目がその剣先を追った。
上から来る。誰もがそう思う軌道だった。キングは斧で頭上を守った。
その瞬間、舞い落ちる羽根が向きを変えた。
落ちるはずの剣先が途中でくるりとひるがえる。下から。キングの死角から。斧を掲げて、がら空きになった脇の下へ。
筋肉の鎧がいちばん薄いところへ。
すうっ、と。
音もなく、剣が吸いこまれた。
キングの動きが止まった。
斧が手から落ちた。がらん、と洞窟に音が響く。巨体がゆっくりと傾いて――地響きを立てて、倒れた。
動かなかった。
リリアは、剣を振り抜いた姿勢のまま、しばらく立っていた。
俺はその場から動けなかった。
リリアの勝利に驚いたからではない。
今の剣。舞い落ちる羽根のような、あの型。
俺はあれを知っていた。
――ずきん。
こめかみに痛みが走った。
視界が白くなる。
どこかの中庭だった。石畳の上に木剣が転がっている。目の前に大柄な男が汗まみれで膝をついていた。金色の髪。青い目。
その男に向かって、誰かが話しかけていた。
俺の声だった。
『違う、ユーグ。力で振るな。羽根は落ちるときに向きを変えるんだ。相手が上を見た瞬間に下から入れ』
『……簡単に言いやがる。お前、剣は素人だって言ってたじゃねえか』
『素人だよ。だから、ずるい手しか思いつかないんだ』
『ずるい手、ねえ』
大柄な男が豪快に笑った。
『いいぜ。この型、俺がもらう。名前は――そうだな。灰羽だ。お前のローブの色からとって』
『やめてくれ。恥ずかしい』
『決めた。灰羽だ。グランツの家に代々伝えてやるよ』
白い光が消えた。
俺は洞窟の中に立っていた。
心臓がうるさいほど鳴っていた。
今のは何だ。
ユーグ。あの肖像画の男。百年前のグランツ家の初代当主。その男に俺が剣を教えていた。
そんなはずはない。百年前だ。俺は二十代の――。
ポケットの中の手紙が氷のように冷たくなっていた。
――思い出すな。
俺は、ぎゅっと目を閉じて、頭の中の光景を無理やり押しこめた。
「……レイ殿?」
目を開けると、リリアが剣を支えにして、こちらを見ていた。
「どうか、なさいましたか。お顔が真っ青です」
「いえ……なんでもありません」
俺はどうにか息を整えた。
「それより、リリア。今の剣は」
「ああ、あれは」
リリアは少し誇らしげに剣を見下ろした。
「グランツ家に伝わる型です。灰羽、といいます。初代のユーグが編み出したと伝えられています。父から教わりましたが、実戦で使えたのは初めてです」
「灰羽……」
同じ名前だった。
ユーグが編み出した。そう、伝えられている。
百年のあいだに本当のことは消えていったのだろう。ずるい手しか思いつかない素人が考えた型だということは。
リリアは剣を鞘に納めた。それから、壁にもたれるようにずるずると座りこんだ。
「リリア!」
駆け寄ると、リリアは手で俺を制した。
「大丈夫です。少し、疲れただけです」
そして、俺を見上げて、笑った。
汗と、土と血で汚れた顔だった。それでも、それは、今まで見た中でいちばん晴れやかな笑顔だった。
「レイ殿。私は助けを求めませんでした」
「……はい」
「約束を守ってくださって、ありがとうございます」
俺は何も言えなかった。ただ、うなずいた。
治癒の魔法をリリアの肩にかける。今度は手を出してもいいはずだ。戦いはもう終わったのだから。
淡い緑色の光がリリアの傷をふさいでいく。
そのとき、腕の中のシラタマがまたうなり声を上げた。
さっきよりもずっと激しく。
はっとして、顔を上げる。
空洞の奥。暗がりの中。
赤い目が動いていた。
ゆっくりとこちらへ。
明かりの届く場所にそれが姿を現した。
狼だった。
ただし、ゴブリンキングよりもさらに大きい。体は、黒い煙のようなものでできていて、輪郭がゆらゆらと揺れていた。影そのものが狼の形をとっているような姿だった。
その額に黒い目の紋章が焼き印のように刻まれていた。
影の狼は倒れたゴブリンキングの体を見下ろした。
それから、赤い目をリリアに向けた。
座りこんで、剣を鞘に納めたばかりのリリアに。
第14話 了
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