生の情熱(パッション)
フィアがフルートを唇に当てた。
吹き鳴らされたのは、天国のように清らかな、しかし聴く者の脳髄を直接かき乱すような**「残酷な子守唄」**だった。
その旋律が空気に触れた瞬間、周囲の石造りの建物にピキピキと亀裂が走り、まるで音楽そのものが物理的な重圧となってロゼアたちを押し潰し始める。
「あはっ、いい音でしょ? 聴いた人みんな、内側からバラバラに弾けちゃうんだ」
「ミリル、耳を貸さないで! あの音に心を預けちゃだめ!!」
ロゼアの切実な叫びが、旋律に呑み込まれそうになっていたミリルの意識を繋ぎ止める。ミリルはハッと目を見開き、自身の影のタクトを力強く一閃した。
「——消音!!」
足元から立ち上がった重厚な影の幕が、フィアの放つ狂気的なメロディーを「沈黙」へと変換していく。音の刃が影に吸い込まれ、波紋のように消えていく。
「へぇ、僕のメロディーを無視するんだ。……じゃあ、テンポを上げてあげる!」
フィアの指がフルートの上で踊る。ゆったりとした子守唄は、一転して激しい**「死の舞踏」**へと変貌した。音の振動が全方位から牙を剥き、ミリルの影の防壁さえも粉々に砕こうと震わせる。
「——加速!!」
ロゼアの鋭い指揮が飛ぶ。ミリルは自身の鼓動をそのテンポに合わせ、音の爆撃が着弾する寸前、影の隙間を縫うようにしてノエルの懐へと肉薄した。
「チッ……小癪な真似を……」
バルドが静かにバイオリンの弓を引く。
「……では、私からも一曲。君が一番会いたい人に捧げる、再会の葬送歌を」
バルドのバイオリンが、泣き叫ぶような高音を奏でる。その瞬間、ロゼアの視界から戦場の光景が消え、懐かしい木漏れ日の中へと引き込まれた。
(……ママ……?)
目の前には、あの日と同じようにフルートを構えるステラの姿。だが、その顔は次第に土色に汚れ、瞳からは黒い涙が溢れ出す。
『ロゼア、どうして助けてくれなかったの? あなたの音は、私を救えなかった。……そんな音で、一体誰を幸せにするつもり?』
「……っ、違う……あたしは……!」
母の亡霊が紡ぐ偽りの言葉と、ステラの葬送歌がロゼアの鼓動を締め上げる。彼女の指先から力が抜け、タクトが地面に落ちそうになったその時。
——ガンッ!
背後から、それを打ち砕くような力強いヴィクターのピアノが響いた。
「ロゼア! 迷うな! ステラが愛したのは、お前のその『迷いのない音』だ!」
「……っ、そうだ。ママは……そんなこと、絶対に言わない!」
ロゼアは唇を噛み切り、その鉄の味と手のひらに突き立てたタクトの激痛で、母の亡霊を真っ向から睨み据えた。
「……あたしたちが奏でるのは、死者に縛られる歌じゃない! ママが大好きだった……この世界を守るための、生きた音だよ!!」
幻覚がガラスのように砕け散る。ロゼアは力強くタクトを握り直し、ミリルと視線を交わした。
「ミリル、ベースを貸して! 奴らの絶望を、全部希望の響きで塗りつぶす!」
「わかった! 心の底まで響かせてあげる!!」
ミリルが影のタクトで、地鳴りのような猛烈なビートを刻み始める。その闇の波動を土台にして、ロゼアが全霊を込めてタクトを振り下ろした。
「——情熱を込めて(コン・アニマ)!!」
二人の音が重なり合い、一つの巨大な共鳴波となって放たれた。それは物理的な衝撃波を超え、不協和音を完璧な協和音へと強制的に書き換えていく「浄化の響き」だ。
「——っ、僕のメロディーが……勝手に書き換えられる……!?」
フィアのフルートが不協和音を上げて激しく震え、バルドのバイオリンの弦は耐えきれず、一本、また一本とパチンと弾け飛んだ。
静まり返る広場。
自分たちの「演奏」を完全に上書きされたフィアとバルドが、信じられないものを見るかのようにロゼアたちを凝視する。
その時、バルコニーからゆっくりと拍手の音が響いた。
「……素晴らしい。ステラの面影を追いながらも、それを超える『生命』の響きだ」
漆黒の軍服を纏った男、レオンが静かにバルコニーの縁に立つ。
「だが、指揮者が私に代われば……その希望も、容易く『静寂』へと堕ちる。……やめろフィア、バルド。これ以上は私の耳が汚れる」
「……っ、でも、レオン様……!」
食い下がるフィアを冷たい眼差しで制し、レオンは重力そのものが変化したかのような威圧感を放ちながら、広場へと降り立った。




