慈愛福音の深淵(ミゼリコルディア)
ヴィクターとロゼアが「家族」としての絆を確かめ合う姿を、ミリルは部屋の隅でじっと見つめていた。その安堵と、自分だけが「闇」という異物を抱えているという疎外感が、彼女のタクトを鈍らせる。
「……練習を止めてください」
特訓が始まって数刻。ミリルが、絞り出すような声でタクトを下げた。
「私の振るタクトが……まだ、あの時のレオンの音を覚えているんです。絶望の、冷たい感触を。こんな『濁った音』を混ぜたら、お二人の綺麗な絆を汚してしまう……」
ヴィクターはピアノの椅子に座ったまま、ミリルを射貫くような視線で見つめた。
「ミリル。貴様は、その『影』を消そうとしているのか」
「……消さなきゃいけないんです。そうしないと、綺麗な音にならないから」
「傲慢だな」
ヴィクターの冷徹な一言に、ミリルは息を呑んだ。
「この世に、濁りのない音など存在しない。私の指も、ロゼアの未熟さも、姉さんの死も……すべては人生のノイズだ。だが、そのノイズを受け入れ、一つの旋律として編み込むのが『指揮者』だろう。逃げるな。闇を消すのではなく、その闇を『深み』として鳴らせ」
(……そうだ。私は、綺麗になりたいんじゃない。この人たちの隣で、一緒に響きたいんだ)
ミリルは胸元で握りしめていたタクトを、ゆっくりと前へ構えた。
それは、深い夜の底で静かに燃える灯火のように、聴く者の魂を震わせる「慈愛」の響きを帯びていた。
「ロゼアちゃん……ヴィクター様…私、もう怖くないよ。この闇も、私の音の一部だから」
ミリルがタクトを一閃させる。
紡ぎ出された音は、決して明るいものではなかった。けれど、その「濁り」は、苦しみを知る者だけが奏でられる、深淵のような慈愛の響きとなってロゼアの旋律を支えた。
「――っ、これだ……! 行くよ、ミリル!」
ロゼアの「純白」と、ミリルの「深淵」。
二人の少女の音が、ヴィクターのピアノに鼓舞され、一つの巨大な「希望の不協和音」となって部屋を満たした。
「……いい音だ。合格だ、ミリル」
ヴィクターの口角が、わずかに上がる。
最強の三重奏が、ついに覚醒した。




