9 中指、小指
余裕のない足音がしたかと思うと、扉の鍵がガチャガチャと乱暴に開けられる音が聴こえて、あわてて作業をやめてバターナイフをベッドの下に投げて隠した。
同時に乱暴にドアが開きアンディが入ってきた。端正な顔がひどく憤っている。
「な、何があったの?」
怖い。こんな彼を初めて見た。
アンディと目が合う。いつも優しげな灰色の瞳は苦しそうで、まるで助けを求めているかのようだ。
「アンディ?」
返事はない。かわりに彼は腕を伸ばしてあっというまに私の身体を包んだ。びっくりして彼の胸を押して逃れようともがいたけれど力が強くて抜け出せない。
先程とはまるで違う荒々しい抱擁だった。
「苦しいよ」
「……一分だけ。お願い」
「……?」
何がしたいのかさっぱりだ。抜け出すこともできずにただ時がすぎるのを待つしかない。
背中にきつく回されている両腕はぴくりとも動かない。先程聞こえた足音もそうだったけれど、余裕がないような、そんなふうに感じて仕方が無い。
何かを求めてる? それなら一体何を?
わからないことだらけだ。言葉で説明してほしい。彼の口から、彼の言葉で。
「あの、一分経ったような気がするんだけど……」
「……あと一分は?」
「駄目だよ! いきなりどうしたの? 急いでるみたいに入ってきて」
アンディはやっと我にかえったみたいで、渋々腕をほどいた。解放されてほっと息をつく。
「ごめん。乱暴なことした。びっくりしただろ……エレン」
いつになく切なそうな表情にどきりとする。伏せられたまつ毛が長くてまるでお人形みたいだ。
励まさないとーーそう思う自分が信じられなかったけれど。
「びっくりなんて、してないよ」
本当はした。それは胸の中にとどめておく。
「えっと、何かいやな事でもあったの……?」
訊いてどうするのだろう、そんなこと。口に出してから馬鹿みたいだとおもった。これじゃあ友達みたいだ。
アンディはようやく落ち着いたのか、穏やかな瞳に戻ってきた。
「いや、何でもない。ごめん」
「そんなに謝らなくてもいいのに」
明らかに彼は変だ。わかっていたけど何も言わないことにした。
「夕飯持ってくるよ」
彼はさっさと扉を開けて出て行った。
* * *
「アンディ! 来てくれたのねっ! 寂しかったわ、こんな寒いところでーー」
「それ、いい加減やめてくれ。殺したくなる」
「アンディ、ひどいっ! ……あのさ、ほんとに寒ぃんだけど。ここ。俺死ぬよー」
甲高い女の声から、いきなり少年の声に切り替えたアンディの目の前の人物は、すっぽりとかぶった長いカツラを指でくるくるといじりながらスコーンを齧っていた。
長い茶色の巻き毛、花をあしらった純白のドレス、そして足首に噛み付くランズウィック家の家紋が描かれた足枷ーー上から下まですっかり「エレン」に変装した少年がそこにいた。
「さっき、五本指に招集がかかったのは知ってるよな?」
アンディは汚いものでも見るような目で、しかし気心の知れた仲間と話す口調で訊いた。
「ったり前だろ。で、何だった? 小指のこと何か言ってたんじゃね?」
「ああ。大した事ない仕事が小指に言い渡されたけど、お前はいないことになってるから中指が代わりになった」
「ふーん」
エレンそっくりに変装した少年ーーカールは、興味なさそうに二つ目のスコーンに手を伸ばして、もぐもぐと食べはじめた。
「にしても、退屈。今死んだら寒さじゃなくて退屈が原因だぜ。俺動いてないとほんとに死ぬから。てか趣味悪りいよな、コレ」
カールが視線を落として不愉快そうに睨んだのは真っ黒な足枷だ。
「ああ」
「つけてるだけで痛えよー。あの子もコレつけてんだろ? この屋敷やっぱヤバすぎ」
カールの言葉を聞いてアンディはぎゅっと拳を握りしめた。憎悪が心の奥から這い出て来る。この屋敷に対する憎悪が。
「いいよなお前はあんなかわい子ちゃんの世話なんか焼けて。あ、俺の変装のほうがかわいいけどね。俺なんかあの"薬指"のおばさんが来るたびにうつむいて弱ったふりして女の声出してるんだぜ」
「その割には食べ物をねだってないか」
「だ、ま、れ! 育ち盛りだからいいだろ! エレンって子も俺と同じくらいなんだろ!」
「……そうだな」
エレンの名が出る度にアンディはおかしな表情になる。弾むような嬉げな表情と、痛みを思い出したような表情が混ざり合ったおかしな表情。
「あんまり大きい声出すなよ。エレンに聞こえる」
「へーへー」
地下への階段を下りると、右手と左手に一つずつ扉がついている。
右の扉はエレンがいる扉。
そして、左の扉がアンディとカールが今いる部屋ーー本来の生贄を幽閉する部屋だ。
出かけたことになっている"小指"のカールは本来エレンが閉じ込められるはずだったこの部屋で、エレンの代わりとして過ごしているのだ。
エレンのいる部屋は、三代前の当主が愛人を隠していた部屋だ。カールのいる生贄の部屋とほぼ同じ造りだが、幽閉されていた愛人が血を吐く思いで壁を削って削って作った小さな隠し扉がある。
生贄の世話係である"薬指"のメイド、ダイアナは右側の扉の向こうに本物の生贄エレンがいるとも知らずに、毎日やってくる。その手には毒入りの水の入ったコップを持っており、生贄を日ごとに弱らせるために無理矢理飲ませる。
本来なら一週間飲み続けただけで歩けなくなる毒だが、あいにくカールは幼い頃からあらゆる毒に対する耐性をつけさせられたため、けろりとしている。
"薬指"のダイアナは催眠術の使い手であり、同時に怪力の持ち主でもあった。エレンがいくら抵抗しても毒を飲ませられる。
「俺さ、早く外に出て走り回りたいけど我慢するよ。やっと復讐できるんだからな」
いつもは無邪気なカールの蜂蜜色の瞳は危険な炎でらんらんと燃えている。
「お前がここまで本気になるとは思わなかった」
「馬鹿言ってんじゃねえよ」
ひときわ低い声で。
ランプの炎がジジッと音を立てて燃えた。
「この計画のためなら俺は何でもする。ランズウィックを潰すためなら……そんでそのためにはあのエレンって子には弱ってもらっちゃ困るんだよな」