10 焦燥、安心
「まだ全然切れてない……!」
もう何度目かわからないため息をついて、ナイフを床にかしゃんと放り投げた。作業に使い過ぎて刃先はボロボロになってしまっている。これではバターさえ満足に切れないだろう。
ここに閉じ込められてからもう十二日が経った。ベッドの木枠に一日ごとに線を刻んでいるから間違いない。あと三週間もすれば私は儀式で殺される。それまでに、足枷を切って隠し扉から脱出しなければならないのに、唯一の希望であるこの作業の進み具合はひどいものだ。思いついた時にははっきりと見えた切れ込み線も、今はただの浅い傷にしか見えない。
「間に合わないのかな」
間に合わない、それはすなわち死だ。
「……」
こんな恐怖に襲われた時、先日からある男の顔が浮かぶようになった。
さらさらの淡い金髪に優しげで甘ったるい灰色の目。エレン、と呼ぶその声はあまりにも優しくて、穏やかで。
こんなひどい場所に閉じ込められた私を見張っている男なのに、いつの間にか頭も心も勝手に彼のことを考え出す。
「何日も外に出てないからおかしくなっちゃったんだ。そう、それしかないよ」
ああ、それとーー。
今までにされた抱擁を思い出して思わず頬が熱くなる。多分真っ赤になっているのだろう。誰もいないのに恥ずかしい。変だ。やっぱりおかしくなったんだ。
結構前にアンディが夕食を持って来てくれた。そろそろ寝る時間だ。このあたりの時間をきちんと守らないときっとここはどこなのか、朝なのか昼なのか夜なのか、そして自分が誰なのかさえ分からなくなってしまう気がする。
もう寝ようとベッドへ向かった。
「……もう今日は、アンディ来ないのかな」
最近独り言が増えた。何か喋りたいという衝動に動かされるのだ。
アンディはいつも私にたくさん話しかけてくれる。その場ではあまり受け答えができないけれど、一人になった途端あんなこととかこんなこととかもっと喋れば良かった、と後悔する。
施設にいた時はこんなこと一度もなかった。むしろあまり人と喋りたくなくて、会話は避けていた。周囲にも疎まれていたからどちらにしろ会話する機会は少なかったのだけれど。
「アンディは……」
どんなに私が愛想の良い返事ができなくても笑顔で話してくれる。ほんとうに楽しそうに。その顔をみていると、胸のあたりがきゅっと狭くなる感じがする。
窓の外で梟が鳴いている。ホーホー、ホーホーと子守唄のような鳴き声に眠りの中へ誘われた。
穏やかな寝つきだったけれど、見た夢は決して穏やかではなかった。
――身体が重い。足元を見ると足枷が四つもついていた。
「ひっ……!」
目に飛び込んで来たのは、巨大な鉄格子だ。
なんと鳥かごの中だった。人一人が入れるほどに巨大で、真っ黒な鳥かごの中。
嫌、私は鳥じゃない! 心を持った生きた人間なのに――! 生贄にされる覚えなんてないのに!
バサバサっと何十羽もの羽音がした。闇の向こうから、目だけがギラリと光る真っ黒な梟の群れが飛んでくる。ものすごい数だ。そして皆、鋭いくちばしで私の心臓を狙っている――!
「……夢、だ……」
脱力してはあっと息をつく。
ぶるぶると全身が震えている。怖くて仕方が無い。今にも部屋の隅の、あの暗闇のあたりから、何かが手を伸ばして心臓を掴み取るのではないかと想像してしまう。
「もう嫌……誰か」
誰かというのは一人しかいないとわかっている。でも都合良くいたりするだろうか。
時々見回りに来ているのは知っている。
もしかしたらいるかも。
「んっ、あと少し……」
ベッドを抜け出して床をずるずると這って進む。足枷が重いし食い込んで痛い。それでも、安らぎが欲しいから進んだ。
扉まであと二、三步のところで足枷の鎖がピンと張る。
それでもあきらめるのは嫌だった。誰かにすがりたい。
ちょうど横にほうきが立てかけてあった。迷わずそれを手にして、柄で扉をコンコンと叩いた。お願い。ここに来て。
そして、必死の思いが馬鹿らしくなるほど扉があっさり開いて、もう見慣れた顔が現れた。
「アンディ」
「エレン? 何でそんなところに」
床にだらしなく倒れている私を見て彼は心底驚いたに違いない。戸惑いながら肩を揺さぶって大丈夫かと訊いてくる。
ああ、来てくれた。そばに居てほしい。どこにも行かないで、今はそっとついていてほしい。
近くに迫ったアンディの身体に腕を回す。触れたとき、アンディは一瞬身体をこわばらせた。
なんて一方的なことをしているんだろう。アンディはどうしていいかわからなくて困っている。
でも、すぐに私は彼を甘く見ていたのだとわからされた。
「また悪い夢でも見た? 俺はずっとここにいるから。何も怖がらなくていい。まだまだ真夜中だから、落ち着いて目を閉じてまた寝るんだ」
「でも、寝たらまたあんな夢を見ちゃう。それは絶対に嫌なの」
「エレン。心配しなくていい……何も。ずっとついてるから。もしまた夢を見そうになったら、そうだな……言ってくれたら起こすよ?」
「……そんな器用なことできないって」
おかしなことを言うから頬がゆるんだ。笑い声が漏れる。
さっきまで悪夢が続いているようなどうしようもない恐怖に襲われていたのに、アンディが居てくれるだけでこんなに心が落ち着いた。
そんな自分は、もうかなり彼に心を許しているのかもしれない。
外で風がびゅう、と音を立てて唸った。




