29 誘惑
ベラは大人の魅力たっぷりな女性だった。はっきりした印象の強い顔立ちで、たっぷり塗られた赤い口紅が何とも色っぽい。
「かーわいい! くるくるしてて、撫でたくなっちゃう!」
「そ、そんな」
ここまでの美人に言われても嫌味としか受け取れない。
「オーケー、ベラ。いくよ」
もう始まるの?
何かの冗談だ、こんなの。大勢の前で踊るなんて自分にできるはずもない。
(この綺麗な人の横ででくのぼうになって、つまらないと思われて終わるんだ。しかも、アンディも見てる。最悪だ)
見物人たちはもう一人の少女の登場に、明らかに期待している。
ああ、逃げたい!
とうとう笛の音がした。
「手を出して」
混乱状態だったけれどなんとかベラの言う通りにした。
するとどうだろう。私の手をとった彼女は流れるような動作で舞いはじめた。つられて自然に自分の足も動き出す。
「左手も」
そうして両手を取られーーそこから先は幻を見ているようだった。手品かもしれない。とにかく信じられないほど身体がなめらかに動いて、私は踊っていた。
正確に言えば私が踊ったのではなくて、ベラが私を踊らせてくれたのだけれど。
笛の音が止み、ベラが私の左手を離してお辞儀をした。大きな拍手に包まれて、やっと踊りが終わったのだと理解した。
「ごめんね、勝手に付き合わせて」
「いえ、なんだか……夢みたいでした。絶対に恥をかくと思ったのに」
「そう? とにかくありがとう! 楽しかった。また会えたら踊ってね!」
「う、それは、きついかも……」
ベラは二、三回私に抱きついたりキスをしたりしてから、用事があると言って帰った。
(とにかく、終わった……よかった、へましなくて)
ものすごく疲れた。こんなことは人生で最初で最後だろう。
はやくアンディのところに戻ろう。
「一人? どこから来た? へへ」
ーー酔っ払いだ。
酒臭い。
にやにやした目がぞっとする。
「もう暗いし、送ってこうか? 聞いてくれよお」
「えっと、人と来てますから。大丈夫です」
「いやいや、はぐれてるんだろ? 遠慮しなくていいから!」
遠慮じゃない!
しかしアンディの姿は見当たらない。
もし本当にはぐれていたら。気持ちが焦り出した。
「やっと見つけた。行こう」
その声を聞いてどれほど安心したか。
酔っ払いはアンディを見ると口をへの字に曲げて、どこかに行ってしまった。酒臭さが去って呼吸も楽だ。
「悪い虫が寄って来ないうちに静かなところに行こう」
「悪い虫?」
彼は冷たい表情をしている。怒っているみたいだ。
と思ったら、いきなり微笑んでこちらを見た。彼に微笑まれると、何回目でもどきっとする。
「良かったよ。さっきの」
「う……恥ずかしい……。あれは、全部あの女の人のおかげなの。私だけだったら立ち尽くしてたんだよ? すごく疲れた……」
顔が真っ赤になっているのが自分でもわかる。
顔も髪もマフラーも手袋も真っ赤。自分は今りんごみたいになっているだろう。
「疲れた? じゃあ帰る?」
帰る。
その言葉を耳にした途端、一気に身体が冷えた。
嫌だ、絶対に嫌だ。
これほど強く思ったのは初めてと言ってもいい。それぐらい帰りたくない。
「嫌だ。今日が終わったら帰らないといけないのは、わかってる。でも、それならーーそれなら、明日なんかこなくていい。ずっとこのままでいたいの。私にはもう、今日しかいらないの」
かなり変なことを言っている自覚はある。
でも本心だ。だって本当にすごく楽しかった。
今日が終わって欲しくない。もう一度あの屋敷に戻りたくない。
いっそアンディと逃げてしまいたい。今なら可能だ。そう考えてカールのことを思い出し、だめだと思う。裏切ってはいけない、戦えと。
だが、その声はどこか弱い。
そして、今隣にいる男を連れて逃げろという声は、頭の中で反響するかのように強い。
いろんな感情が押し寄せて混ざり合い、どうかしてしまいそうだ。
「俺も、同じことを思ってる。だから」
言葉の続きは聞かなくてもわかった。
安心しろ、落ち着けということだろう。
この人はいつだって温かい。
無言の抱擁は、ざわめいていた心の中をぴたりと静止させた。
「……あのね、私いま、最低なこと考えてるの。あなたと、逃げようって……カールがいるのに。それでも裏切りを選んでしまいそうなの」
「うん」
彼はしきりに私の頭を撫でている。
「すごく楽しかった。外に出たから、街でいろんなことをしたからじゃない。アンディと一緒だったから楽しかったの。だから……二人で逃げてしまえたらなんて考えちゃう」
「わかった……それ以上言わなくていい」
胸がずきりと痛んだ。
失望された。こんなこと言ったから、気分を悪くしたんだ。
「ごめんなさい。私、すごく嫌なこと言った。アンディがどんな気持ちになるか考えもしなかった。忘れてくれなんて都合のいいことは言わない……けど、嫌いになって置いて行ったりしないでほしい」
「全然違う」
私は彼の胸から顔を上げて、顔をまっすぐ見た。
何かを必死に堪えている顔をしている。
(まさか、同じ気持ちなの)
「エレンに一緒に逃げようなんて言われたら、今すぐにでもそうしそうになる。だから、それ以上言わないでほしいんだ」
彼の気持ちは、痛いほど伝わってきた。
細い道には人一人歩いていない。もう夜遅い時間だ。屋敷に帰らなければ、アンディが怪しまれる。
ここが分かれ道だ。
自分だけ逃げるか、アンディと二人で逃げるか、屋敷に帰るか。
「……アンディ」




