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29/40

29 誘惑

 ベラは大人の魅力たっぷりな女性だった。はっきりした印象の強い顔立ちで、たっぷり塗られた赤い口紅が何とも色っぽい。

「かーわいい! くるくるしてて、撫でたくなっちゃう!」

「そ、そんな」

 ここまでの美人に言われても嫌味としか受け取れない。

「オーケー、ベラ。いくよ」

 もう始まるの? 

 何かの冗談だ、こんなの。大勢の前で踊るなんて自分にできるはずもない。

(この綺麗な人の横ででくのぼうになって、つまらないと思われて終わるんだ。しかも、アンディも見てる。最悪だ)

 見物人たちはもう一人の少女の登場に、明らかに期待している。

 ああ、逃げたい!

 とうとう笛の音がした。

「手を出して」

 混乱状態だったけれどなんとかベラの言う通りにした。

 するとどうだろう。私の手をとった彼女は流れるような動作で舞いはじめた。つられて自然に自分の足も動き出す。

「左手も」

 そうして両手を取られーーそこから先は幻を見ているようだった。手品かもしれない。とにかく信じられないほど身体がなめらかに動いて、私は踊っていた。

 正確に言えば私が踊ったのではなくて、ベラが私を踊らせてくれたのだけれど。

 笛の音が止み、ベラが私の左手を離してお辞儀をした。大きな拍手に包まれて、やっと踊りが終わったのだと理解した。

「ごめんね、勝手に付き合わせて」

「いえ、なんだか……夢みたいでした。絶対に恥をかくと思ったのに」

「そう? とにかくありがとう! 楽しかった。また会えたら踊ってね!」

「う、それは、きついかも……」

 ベラは二、三回私に抱きついたりキスをしたりしてから、用事があると言って帰った。

(とにかく、終わった……よかった、へましなくて)

 ものすごく疲れた。こんなことは人生で最初で最後だろう。

 はやくアンディのところに戻ろう。

「一人? どこから来た? へへ」

 ーー酔っ払いだ。

 酒臭い。

 にやにやした目がぞっとする。

「もう暗いし、送ってこうか? 聞いてくれよお」

「えっと、人と来てますから。大丈夫です」

「いやいや、はぐれてるんだろ? 遠慮しなくていいから!」

 遠慮じゃない!

 しかしアンディの姿は見当たらない。

 もし本当にはぐれていたら。気持ちが焦り出した。

「やっと見つけた。行こう」

 その声を聞いてどれほど安心したか。

 酔っ払いはアンディを見ると口をへの字に曲げて、どこかに行ってしまった。酒臭さが去って呼吸も楽だ。

「悪い虫が寄って来ないうちに静かなところに行こう」

「悪い虫?」

 彼は冷たい表情をしている。怒っているみたいだ。

 と思ったら、いきなり微笑んでこちらを見た。彼に微笑まれると、何回目でもどきっとする。

「良かったよ。さっきの」

「う……恥ずかしい……。あれは、全部あの女の人のおかげなの。私だけだったら立ち尽くしてたんだよ? すごく疲れた……」

 顔が真っ赤になっているのが自分でもわかる。

 顔も髪もマフラーも手袋も真っ赤。自分は今りんごみたいになっているだろう。

「疲れた? じゃあ帰る?」

 帰る。

 その言葉を耳にした途端、一気に身体が冷えた。

 嫌だ、絶対に嫌だ。

 これほど強く思ったのは初めてと言ってもいい。それぐらい帰りたくない。

「嫌だ。今日が終わったら帰らないといけないのは、わかってる。でも、それならーーそれなら、明日なんかこなくていい。ずっとこのままでいたいの。私にはもう、今日しかいらないの」

 かなり変なことを言っている自覚はある。

 でも本心だ。だって本当にすごく楽しかった。

 今日が終わって欲しくない。もう一度あの屋敷に戻りたくない。

 いっそアンディと逃げてしまいたい。今なら可能だ。そう考えてカールのことを思い出し、だめだと思う。裏切ってはいけない、戦えと。

 だが、その声はどこか弱い。

 そして、今隣にいる男を連れて逃げろという声は、頭の中で反響するかのように強い。

 いろんな感情が押し寄せて混ざり合い、どうかしてしまいそうだ。

「俺も、同じことを思ってる。だから」

 言葉の続きは聞かなくてもわかった。

 安心しろ、落ち着けということだろう。

 この人はいつだって温かい。

 無言の抱擁は、ざわめいていた心の中をぴたりと静止させた。

「……あのね、私いま、最低なこと考えてるの。あなたと、逃げようって……カールがいるのに。それでも裏切りを選んでしまいそうなの」

「うん」

 彼はしきりに私の頭を撫でている。

「すごく楽しかった。外に出たから、街でいろんなことをしたからじゃない。アンディと一緒だったから楽しかったの。だから……二人で逃げてしまえたらなんて考えちゃう」

「わかった……それ以上言わなくていい」

 胸がずきりと痛んだ。

 失望された。こんなこと言ったから、気分を悪くしたんだ。

「ごめんなさい。私、すごく嫌なこと言った。アンディがどんな気持ちになるか考えもしなかった。忘れてくれなんて都合のいいことは言わない……けど、嫌いになって置いて行ったりしないでほしい」

「全然違う」

 私は彼の胸から顔を上げて、顔をまっすぐ見た。

 何かを必死に堪えている顔をしている。

(まさか、同じ気持ちなの)

「エレンに一緒に逃げようなんて言われたら、今すぐにでもそうしそうになる。だから、それ以上言わないでほしいんだ」

 彼の気持ちは、痛いほど伝わってきた。

 細い道には人一人歩いていない。もう夜遅い時間だ。屋敷に帰らなければ、アンディが怪しまれる。

 ここが分かれ道だ。

 自分だけ逃げるか、アンディと二人で逃げるか、屋敷に帰るか。

「……アンディ」


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