第三話 一年生
入部してから、二週間が経った。
神谷蓮は、朝のグラウンドに立っていた。
まだ七時にもなっていない。
吐いた息が白い。
ゴール前には、昨日と同じようにボールが一つ置かれていた。
「……百本」
誰に言うでもなく呟く。
右足で蹴る。
一球目。
少し浮いた。
二球目。
右へ外れた。
三球目。
今度はゴールの中。
蓮は、以前より右足を使えるようになっていた。
それでも、左足には遠く及ばない。
だから続ける。
四十本。
五十本。
六十本。
「お前、本当に毎日やるんだな」
後ろから声がした。
「桐生」
「おはよう」
「お前も早いじゃん」
「お前が毎日いるからな」
「何それ」
「監視」
「気持ち悪いな」
「ひどい」
桐生が笑う。
この二週間で、二人はずいぶん話すようになった。
仲が良い。
そう言われたら、蓮はたぶん否定する。
でも、朝にグラウンドへ来れば桐生がいる。
放課後に残れば桐生も残っている。
気づけば、それが当たり前になっていた。
「今日、試合だろ?」
桐生が言った。
「うん」
「緊張してる?」
「してない」
「してる顔」
「してねえよ」
今日は初めての対外試合だった。
公式戦ではない。
県大会のような勝ち上がりもない。
他校との練習試合。
それでも蓮にとっては特別だった。
入学して二週間。
ようやく、自分がどこまで通用するのかを試せる。
「絶対点取る」
蓮が言った。
「そういうところだよ」
「何が?」
「監督が言ってたろ。結果を出そうとするなって」
「あれはこの前の紅白戦だろ」
「同じだよ」
「違うだろ」
蓮はボールを拾った。
「今日は自分がどれだけやれるか見せる」
桐生は何も言わなかった。
ただ、小さく笑った。
*
午前十時。
青嶺学園サッカー部グラウンド。
相手は県内の私立・東和学院。
県大会でも毎年上位に進む強豪校だ。
ウォームアップをしながら、蓮は相手選手を見る。
身体が大きい。
自分より一回り大きく見える選手もいる。
「……でかいな」
「県内じゃ普通」
桐生が言う。
「俺より?」
「お前が細すぎる」
「これから鍛えるんだよ」
「ならいいけど」
その時、ベンチから声が飛んだ。
「一年、集合!」
蓮たちが集まる。
黒田監督がメンバー表を持っていた。
「先発を発表する」
一人ずつ名前が呼ばれていく。
蓮は黙って待った。
「左ウイング、神谷」
「……はい!」
思わず声が大きくなった。
桐生が隣で笑っている。
「よかったじゃん」
「ああ」
胸が熱くなる。
初先発。
ついにだ。
今日はやれる。
そう思った。
「以上」
監督がメンバー表を閉じる。
そのまま選手たちを見る。
「今日の目的は勝つことじゃない」
蓮は少し意外に思った。
「今の自分たちが、どこまでできるか確認するための試合だ」
監督は続ける。
「特に一年」
蓮を見る。
「周りを見ろ」
「……はい」
「自分が何をしたいかじゃない」
監督の目が少しだけ鋭くなる。
「チームが何を必要としているかを見ろ」
蓮は頷いた。
だが、その言葉の意味を、本当には理解していなかった。
*
「キックオフ!」
試合が始まる。
蓮は左サイド。
最初の数分はボールに触れなかった。
味方が右でボールを回している。
蓮は裏へ走った。
「ここ!」
声を出す。
ボールは来ない。
もう一度走る。
来ない。
「……」
少し苛立つ。
自分なら出す。
あんなに空いているのに。
なら、次だ。
ボールを奪う。
中央から左へ展開。
ついに自分のところへ来た。
蓮はトラップ。
前を見る。
相手DFが一人。
距離、五メートル。
――行ける。
蓮は一気に加速した。
一歩。
二歩。
相手が下がる。
さらに一歩。
抜く。
――そう思った。
しかし、DFは無理に奪いに来なかった。
蓮の進路を塞ぐ。
蓮は外へ逃げる。
そこで二人目が来た。
「っ……!」
ボールを失う。
相手のカウンター。
蓮は慌てて戻った。
「神谷!」
桐生の声が飛ぶ。
蓮が見る。
相手はもうペナルティエリア手前。
自分のマークがいる。
戻らなければならない。
でも――
身体が一瞬、止まった。
その一瞬で相手にパスを通された。
シュート。
キーパーが弾く。
なんとか失点は免れた。
「……」
蓮は拳を握った。
自分がボールを失った。
その後の守備も遅れた。
頭では分かっている。
でも、納得できない。
*
前半二十分。
またボールが来た。
今度は一対一。
蓮は縦へ行くふりをして、中央へ切り込んだ。
相手DFの重心が動く。
――今だ。
蓮は右足へ持ち替えた。
昨日までなら、そのまま縦へ行っていた。
右足の練習を始めてから、少しだけ選択肢が増えた。
シュート。
だが、
ボールはゴールの上。
「……くそ」
蓮は頭を抱えた。
チャンスだった。
決めたかった。
いや。
決めなければならなかった。
「神谷!」
また声。
桐生だった。
「今の、外から走れたぞ」
「分かってる」
「いや、分かってない」
「……」
蓮は振り返った。
「次は決める」
「そうじゃなくて」
桐生は何か言いかけた。
しかし、そのまま口を閉じた。
*
前半終了。
0-0。
青嶺学園のベンチに戻る。
蓮は汗を拭いながら、黙っていた。
ほとんど何もできていない。
一度抜けなかった。
一度シュートを外した。
守備で遅れた。
それだけだった。
「神谷」
黒田監督が呼んだ。
「はい」
「どうだった?」
蓮は少し迷った。
「……思ってたより、抜けないです」
「そうか」
「もっとやれると思ってました」
「それで?」
「……悔しいです」
監督が頷く。
「それなら後半、少し変えろ」
「何をですか?」
「全部だ」
「……全部?」
「ボールを持ってない時、お前は何してる?」
蓮は答えられなかった。
「味方がボールを持った時、どこを見てる?」
また答えられない。
「相手のDFがどこを見てる?」
「……」
「分からないか」
「はい」
監督はそれ以上言わなかった。
「後半は、ボールを持っていない時間見てみろ」
「はい」
*
後半。
蓮は少しだけ意識を変えた。
ボールだけを見ない。
味方を見る。
相手を見る。
スペースを見る。
だが――
やっぱり難しい。
頭では分かる。
でも、身体がついてこない。
それでも、一つだけ変わった。
走り出すタイミング。
桐生がボールを受けた瞬間。
蓮は走った。
速い。
相手DFが一瞬遅れる。
桐生が顔を上げる。
パス。
来た。
蓮は一気に抜ける。
今度こそ――
と思った。
しかし、ボールが少しだけ長い。
「……!」
蓮が追いつく。
ゴールラインぎりぎり。
中を見る。
味方がいる。
クロス。
――合わない。
そのままゴールキック。
「……」
蓮は悔しそうに頭を掻いた。
でも、
さっきとは何かが違った。
今のは惜しかった。
あと少しだった。
*
試合終了。
スコアは0-0。
勝てなかった。
でも負けもしなかった。
蓮はベンチでスパイクを脱いだ。
「……疲れた」
「そりゃあな」
桐生が隣に座る。
「どうだった?」
蓮が聞く。
「何が?」
「俺」
桐生は少し考えた。
「……まだまだ」
「それだけ?」
「でも」
桐生は笑った。
「後半はちょっと良かった」
「何が?」
「走り出すタイミング」
蓮は少し嬉しくなる。
「だろ?」
「ただ、最後のクロスはひどかった」
「……」
「右足だったし」
「忘れろ」
「無理」
蓮は笑った。
少しだけ。
*
帰り際。
誰もいなくなったグラウンドで、蓮は一人ボールを蹴っていた。
今日の自分は、何もできなかった。
点も取っていない。
相手を何人も抜いたわけでもない。
それでも――
少しだけ、前に進めた気がする。
「神谷」
振り返る。
黒田監督が立っていた。
「後半はよく見ていた」
「……ありがとうございます」
「でも、まだ遅い」
「足は速いですよ」
「そういう意味じゃない」
蓮は首を傾げた。
「お前は、ボールを受けてから考えている」
「……」
「一流は、その前に考えている」
監督は歩きながら言った。
「そこは、足の速さじゃどうにもならん」
蓮は黙っていた。
「明日から、練習の前に相手を見る癖をつけろ」
「相手を?」
「そうだ」
「何を見るんですか?」
監督は振り返った。
「全部だ」
そして、そのままグラウンドを出ていった。
蓮は一人残された。
空はもう暗い。
グラウンドの照明だけが、白く芝を照らしている。
蓮はボールを見た。
それから、もう一度グラウンドを見る。
さっきまで、自分はボールしか見ていなかった。
味方。
相手。
スペース。
監督。
桐生。
全部が視界に入っていなかった。
「……サッカーって」
蓮は呟く。
「こんなに見るもの多いのかよ」
少しだけ笑った。
そしてボールを拾う。
「右足、もう一本」
誰もいないグラウンドに、
ボールを蹴る音だけが響いた。




