第一話 5秒台の少年
春の風は、まだ少し冷たかった。
校門の前に立った神谷蓮は、校舎を見上げた。
今日から、ここが俺の世界になる。
県内でも有数のサッカー強豪校。
全国大会にも何度も出場している名門――青嶺学園高校。
そのサッカー部に、俺は今日から入る。
「……絶対、レギュラー取る」
誰も聞いていないのに、蓮は小さく呟いた。
いや。
レギュラーなんて、ただの通過点だ。
俺はプロになる。
日本代表になる。
海外に行く。
そして――世界一になる。
そこまで考えて、蓮は少しだけ笑った。
別に夢見がちなわけじゃない。
根拠だってある。
足が速い。
それだけは、誰にも負けたことがない。
小学校の頃から、そうだった。
中学では県大会の決勝で五人抜きをした。
去年の大会では全国からスカウトまで来た。
自分なら、もっと上へ行ける。
そう思っていた。
「神谷蓮?」
背後から声がした。
振り返る。
同じ制服を着た少年が立っていた。
「そうだけど」
「俺、桐生。桐生 恒一」
「……知ってる」
「え?」
「去年の県大会、見た」
蓮が言うと、桐生は少し驚いた顔をした。
「お前、あの時のボランチだろ」
「……よく覚えてるな」
「試合見てたから」
「へえ」
「お前、めちゃくちゃ走るよな」
その言葉に、蓮は笑った。
「まあね」
「でも、足元は下手」
「……は?」
蓮の笑顔が消える。
「何だよ急に」
「事実じゃん」
「お前さ……」
「あと、右足ほとんど使えないだろ」
「……」
「あと、縦にしか行かない」
「……」
「あと、ボール持ったら顔下がる」
「……お前、喧嘩売ってる?」
「別に」
桐生は何でもないように言った。
「ただ、速いだけなら高校じゃ通用しないと思って」
蓮は眉をひそめた。
その瞬間。
校舎の向こうから、ホイッスルが鳴った。
「一年、集合!」
サッカー部監督の声だった。
*
グラウンドには、百人近い部員が並んでいた。
蓮は前の方にいる。
視線を感じる。
「一年に例の神谷いるぞ」
「中学で50メートル5秒台出したらしい」
「マジ?」
「海外からも見に来たって話」
「へえ……」
聞こえてくる声に、蓮は少しだけ胸を張った。
当然だ。
ここで一番速いのは自分だ。
――そう思っていた。
「神谷」
監督に呼ばれた。
「はい」
「前へ出ろ」
言われるまま、一歩前に出る。
監督は蓮を上から下まで眺めた。
「お前が神谷か」
「はい」
「50メートル、何秒だ?」
「5秒8です」
部員がざわつく。
「……高校生で?」
「速っ」
「本当かよ」
蓮は少し気分が良くなった。
しかし、監督は表情を変えなかった。
「走ってみろ」
「はい」
グラウンドの端に並ぶ。
隣には三年生のレギュラーが一人。
「位置について」
蓮は姿勢を低くする。
胸が高鳴った。
こういう瞬間は好きだ。
誰も自分に追いつけないと、証明できる。
「よーい――」
笛。
一瞬で地面を蹴る。
風が頬を切る。
視界が流れる。
五歩。
十歩。
二十歩。
隣の先輩はもう後ろだった。
ゴール。
蓮は振り返る。
当然。
誰もついてこられない。
「速いな」
監督が言った。
蓮は笑う。
「ありがとうございます」
そして――
監督は続けた。
「でも、それだけだ」
「……え?」
空気が止まった。
「足は速い。間違いなく速い」
監督は淡々と続ける。
「だが、今のお前はサッカー選手じゃない」
「……」
「ただ走るのが速い高校生だ」
蓮の顔から笑みが消える。
「そんな……」
「不満か?」
「……はい」
「なら証明しろ」
監督が指差した。
「紅白戦だ」
「はい」
「今からお前をDFに一回も触らせず、ゴールまで持っていけ」
蓮は少しだけ笑った。
「簡単ですよ」
その言葉を聞いた桐生が、小さくため息をついた。
「……こいつ、本当に分かってないな」
「何が?」
「サッカーってさ」
桐生はスパイクの紐を締めながら言った。
「足の速さを競う競技じゃないんだよ」
*
五分後。
「始め!」
紅白戦が始まった。
蓮は左サイドに入る。
ボールが右から展開される。
来い。
来い。
――来た。
蓮は走った。
一気に裏へ抜ける。
速い。
誰も追いつけない。
「ナイス!」
味方からボールが出る。
完璧。
トラップ。
そして――
蓮は止まった。
目の前にDFが一人。
いや。
正確には、
DFはまだ五メートル離れている。
なら、抜ける。
いつものように縦へ。
一歩。
二歩。
――その瞬間。
DFが蓮の進路へ入った。
「っ!」
蓮は急停止する。
ボールが足元から離れる。
奪われる。
「……は?」
何が起きた。
速い。
自分は誰よりも速い。
なのに。
DFは走って追いついたわけじゃない。
最初からそこにいた。
「ナイスカット!」
声が飛ぶ。
蓮は呆然と立っていた。
その横を、桐生が走り抜ける。
「神谷!」
「……」
「次、俺を見る!」
「え?」
「俺が空ける!」
桐生がボールを持つ。
蓮は意味が分からないまま走った。
すると――
桐生が一瞬だけ顔を上げた。
パス。
今度は、誰もいない場所へ。
蓮は反射的に走った。
ボールが転がる。
DFが追う。
蓮が加速する。
今度こそ。
追いつく。
そして――
初めて、完全に抜けた。
ゴール前。
キーパーと一対一。
蓮はシュートを打った。
ゴール。
笛。
「ナイス!」
味方が叫ぶ。
蓮は息を切らしながら、桐生を見る。
「……お前」
「何?」
「今の、俺が走る場所分かってた?」
「当たり前」
桐生は笑った。
「お前より先にボールを置いただけ」
蓮は黙った。
初めてだった。
自分の速さを、
誰かに使われた。
その感覚が妙に気持ちよかった。
しかし――
監督は笑っていなかった。
遠くから蓮を見ながら、静かに呟く。
「……あいつは、まだ何も知らない」
「自分の才能が、どれだけ危険なものなのかも」
そして監督は腕時計に目を落とした。
「16歳か……」
小さく息を吐く。
「まだ、間に合うな」
その言葉の意味を、蓮はまだ知らない。
そしてこの日から22年後。
その「速さ」を失った男が、
人生で最も重要な試合に立つことになる。
――それは、まだ誰も知らない未来だった。




