第6話 欠落した二頁
第九条は、三行しかありませんでした。
――第九条(付帯事項) 両締約国は、本条約の履行を保証するため、別紙に定める婚姻を成立せしめるものとする。婚姻の当事者、条件その他は別紙のとおりとする。
別紙のとおり。
束を全部ひっくり返しました。三箱、二百枚近く。別紙はありませんでした。式次第案が三通り、席次図が五枚、招待予定者の一覧、儀礼の手引き、条約の写し。それだけです。
条約の写しの末尾を見ました。綴じ糸の跡が、本来あるべき枚数より二枚分、余っています。
――また二枚です。
灯りを消しませんでした。その夜は、そのまま卓に向かっていたと思います。
朝になって、儀礼書の欠落のほうへ戻りました。供応の部の、二百十二頁と二百十三頁。写本十一冊すべてから消えている二頁。
埋める道は、もう一つだけありました。写本ではなく、使われた式次第のほうです。
供応の部を引いた式次第なら、条文を引用しているはずです。引用の形で、中身の断片が残る。六十年分を、供応のある式だけ抜き出して、当たりました。
二日かかりました。
三十七件見つけて、そのうち十九件が供応の部を引いていました。引かれている条番号を並べていくと、二百十二頁と二百十三頁に載っていたはずの条は、第五編第四十一条から第四十七条までだと分かりました。
七条です。そのうち五条は、引用の形で中身が復元できました。宴席における献立の順、酒の温度、水の供し方。どれも当たり前のことでした。
残る二条が、どこにも引かれていません。
第四十五条と、第四十六条。
六十年で一度も引かれていない条文というのは、二つの意味があります。使う機会がなかったか、使ってはいけなかったか。
わたくしは、記録倉庫の奥の棚に戻りました。いちばん古い段です。六十年より前のものはここに置かれない決まりですが、決まりを守らなかった人が過去に何人かいます。三段目の途中で並べ替えをやめた人と、たぶん同じ種類の人たちです。
埃の下から、綴じの解けた束が出てきました。表紙がありません。開いてみると、儀礼書の供応の部でした。版が古い。頁の打ち方が違います。
二百十二頁も、二百十三頁も、ありませんでした。
ただ、その束には、後ろのほうに紙が挟まっていました。
挟まっていたのは、写しでした。誰かが手で書き写した二頁分です。紙は新しくありません。二十年ほど経っているでしょうか。字は小さく、丁寧で、行が定規で引いたようにまっすぐ揃っています。
第四十五条。第四十六条。
読みました。
――第四十五条 供応において、締約相手国の宗教上の禁忌に触れる食材を供してはならない。禁忌の目録は、相手国の申告によりこれを定める。
――第四十六条 前条の目録は、式典官がこれを保管し、供応の設営に先立ち厨房長に読み聞かせるものとする。
読み聞かせる、とありました。
渡す、ではありません。読み聞かせる。わたくしは、その一行を二度読みました。
六十年で一度も引かれていない理由が、分かった気がしました。この二条は、引くと恥をかくのです。相手国の禁忌を確認しなければならない、というのは、確認しなければ間違えるということです。間違えたことがある、ということでもあります。
だから誰も引かない。引かないから、消しても誰も気づかない。
――三つ目は、口に入るものです。
禁忌の目録を保管するのは式典官です。目録の存在を知らなければ、目録を求めません。求めなければ、当日まで誰も気づきません。
そして当日、グラナートの使節団の前に、彼らが口にできないものが出ます。条文ごと消せば、そうなります。
写しを持って、厨房へ行きました。条文がそう言っているからです。読み聞かせるものとする、と。
バティスト殿は、大鍋の前にいました。木べらで鍋の縁を二度叩いてから、顔を上げます。
「……で、何時だ」
「三月後です。禁忌の目録の件で参りました」
「なんだそりゃ」
「グラナートの方々が、宗教上、口にできない食材の一覧です。相手国から申告を受けて、式典官が保管し、設営に先立って厨房長に読み聞かせる決まりでした」
「決まりだった、ってのはどういう意味だ」
「六十年、誰も使っておりません」
彼は木べらを鍋に戻しました。
「使ってねえのか」
「はい」
「じゃあ今まで、よその国の客に何を食わせてたんだ、ここは」
答えられませんでした。
バティスト殿は前掛けで手を拭いて、竈のほうを向きました。しばらく火を見ていました。
「グラナートは何が駄目なんだ」
「まだ、目録が手元にございません。申告を受け取る手続きから始めます」
「いつ来る」
「一月はかかるかと」
「二月しか残らんな」
彼はそう言って、それから、少し妙なことを言いました。
「読み聞かせる、ってのは、その紙をどうするんだ」
「わたくしが読み上げます。厨房長にお聞きいただきます」
「紙は」
「保管は式典官です。厨房にはお渡ししません」
バティスト殿は、うなずきました。うなずいてから、鍋の縁をもう一度叩きました。二度ではなく、一度でした。
「そりゃあ、いい決まりだ」
わたくしは、そのときは、何がいいのか分かりませんでした。厨房を出て、記録倉庫へ戻る途中で、少しだけ引っかかりました。
紙を渡さない決まりを、いい決まりだと言う料理人は、あまりおりません。普通は逆です。手元に置いておきたがるものです。
――お渡ししたほうが、確かでしょうに。
そう思ったところで、廊下の角を曲がりました。戻ってきて、もう一度その写しを見ました。
――なぜ、写しがあるのでしょう。
切り取った人間が、写しを残す理由はありません。消したいのなら、消し切ればいい。
消したくない人が、別にいたのです。
切り取られる前に、誰かが二頁を書き写して、いちばん古い棚の、表紙の無い束の中に挟んだ。ここなら見つからないと思ったのでしょう。あるいは、いつか誰かが見つけると思ったのか。
字を、もう一度見ました。小さくて、丁寧で、行が定規で引いたようにまっすぐ揃っている字です。
――どこかで見ています。
思い出せませんでした。三日ほど、思い出せませんでした。思い出したのは、炭のことを言われたときです。
バティスト殿が言っていました。西端は北向きだ、炭は自分で言え、と。それで炭の請求を出そうとして、配置の辞令を出しました。請求には配置先を書き添える決まりですので。
辞令を出して、署名の欄を見ました。儀典長印。その左に、小さな副印。掠れて意匠の読めない、あの副印です。副印の脇に、短く添え書きがありました。
――西端記録庫
小さくて、丁寧で、行がまっすぐな字でした。
わたくしは辞令を持って、記録倉庫の奥へ走りました。走ったのは、王宮に来て初めてだったと思います。
束から写しを引き出して、辞令と並べました。
同じ字です。
わたくしを記録倉庫へ移した人と、二十年前に消される条文を書き写して隠した人が、同じ人でした。
次は、辞令の副印の主に辿り着きます。




