第5話 公爵閣下の見立て
切り取られた二頁は、写本のほうを当たれば埋まります。記録倉庫には、儀礼書の写本が六十年分ありました。版が古くても、供応の部の骨格は変わりません。
三日かけて、十一冊を当たりました。
十一冊とも、同じ二頁がありませんでした。
わたくしは、棚の前に立ったまま、しばらく動けませんでした。一冊なら、破れたと考えられます。三冊でも、同じ版の刷り損じということがあります。
十一冊です。版が違い、年が違い、綴じ方も違う十一冊から、同じ二頁だけが消えている。この部屋に入って、六十年分の棚を一冊ずつ開いて、同じ頁を探して、切り取った人がいます。
どれくらいかかるでしょう。二日か、三日か。誰にも見咎められずに、この部屋で。
――この部屋は、誰も来ないのです。
わたくしが来るまでは。
その日は、それ以上進みませんでした。
翌朝、儀典課から呼び出しがありました。グラナートの先遣が入る、とのことでした。本使節団の三月前に、公爵家の者が下見に来る。前庭と大聖堂を検分し、式次第の草案を持ち帰る。慣例です。
「対応は次席が」
ユベールが言いました。言いにくそうでした。
「儀典長は」
「大局を」
「承りました」
前庭で待ちました。三月後に百四十名が並ぶ場所です。今は芝が短く刈られていて、天幕の柱の穴だけが開いています。わたくしが白墨で引いた線は、大広間の床のほうに残っていました。ここには何もありません。
馬が四頭、門を入ってきました。降りてきたのは三人で、そのうち一人が前に出ました。
背の高い男でした。二十代の終わりくらいでしょうか。旅装のままで、外套の裾に泥が跳ねています。従者が拭こうとするのを手で止めました。
「グラナートのアルベリクだ」
わたくしは礼をしました。グラナート公爵アルベリク・ド・グラナート。条約の当事者です。先遣に公爵本人が来る慣例は、ありません。
「王宮儀典課次席、セラフィーナ・ヴェルニエと申します。ご案内いたします」
「案内は後でいい」
彼は前庭を見渡しました。それから、わたくしの手元を見ました。
「それは」
「席次表でございます」
「見せてくれ」
渡しました。公爵は立ったまま、一枚目を見ました。それから二枚目をめくり、三枚目をめくり、四枚目で止まりました。
四枚目には、各席の脇に条文の番号が並んでいます。王国儀礼書の条番号と、グラナート儀礼書の条番号が、席ごとに二つずつ。
彼は、しばらくそれを見ていました。風が吹いて、紙の端が鳴りました。
「これは武器だな」
わたくしは、返事ができませんでした。
「誰が作った」
「わたくしが」
「一人でか」
「はい」
公爵は紙から目を上げて、初めてわたくしの顔を見ました。
「四枚目の、下から三行目」
「はい」
「うちの儀礼書の第九編二十二条を引いているな。あれは十一年前に改正されている」
息が止まりました。
「……改正後の条番号をお教えいただけますか」
「第九編二十四条だ。中身は変わっていない。番号だけ動いた」
わたくしは筆を出して、その場で書き直しました。四枚目の下から三行目。二十二を消して、二十四。二重線を引いて、消した番号も残します。顔を上げると、公爵がその手元を見ていました。
「消さないのか」
「消しますと、何を直したか分からなくなりますので」
「誰かが読むのか」
「読みません」
わたくしは言いました。
「読みませんが、残します」
公爵は、少し笑ったようでした。笑ったというより、息を吐いたのに近い顔でした。
「十一年前の改正を、王国側で知っている者は何人いる」
「存じません。儀礼書の改正は、公示されますが、通達はされませんので」
「では君は、どこで」
「六十年分の写本が、記録倉庫にございます」
公爵は、その言葉を聞いて、少し黙りました。
「記録倉庫」
「王宮の西端でございます」
「次席の執務室は」
わたくしは、答えませんでした。答えないことが答えになるのは、承知しておりました。
公爵は席次表をわたくしに返しました。返すときに、四枚目をもう一度見ました。
「セラフィーナ・ヴェルニエ」
「はい」
「条約の写しは、そちらに渡っているか」
「調印式の式次第案と一緒に、三束いただいております」
「第九条は読んだか」
わたくしは、綴じ目に食い込んで読めなかった一語を思い出しました。
――花嫁。
「付帯条項は、綴じが固く、まだ開いておりません」
公爵は、それを聞いて、しばらく前庭のほうを見ていました。天幕の柱の穴が、三月後にどう並ぶのかを考えているような目でした。あるいは、まったく違うことを考えていたのかもしれません。
「開いておいたほうがいい」
彼は言いました。
「花嫁の欄を見たか」
風が、また紙を鳴らしました。
「……いいえ」
「そうか」
公爵はそれ以上言いませんでした。従者を呼んで、案内を頼む、と普通の声で言いました。
大聖堂へ案内し、前庭の寸法と、天幕の位置を説明しました。公爵は、一つ一つに具体的な質問をしました。
「天幕の柱は何本だ」
「六本でございます」
「前庭は風が抜けるな。北からか」
「三月後は北風です。厨房長がそう申しております」
「炙り台は」
「北西へ一つ動かしました」
「なぜ」
「煙が下座へ流れておりましたので」
公爵は歩きながら、少し黙りました。
「風下に置かれた大使は、実際どのくらい不快なんだ」
答えに詰まりました。三刻でございます、としか言えませんでした。
「三刻」
「はい」
「杯を上げるとき、上座が見えません。乾杯の辞のあいだ、どこを向いていればよいのか分からない位置でございます」
「それは不快だな」
「はい」
「君は座ったのか。その席に」
「立ちました。実寸で線を引きましたので」
公爵は足を止めて、わたくしを見ました。
「引いたのか。床に」
「大広間の床でございます。図面より確かですので」
彼は、何か言いかけて、やめました。やめてから、前庭のほうへ歩き出しました。門のところで、従者が馬を引いてきました。
公爵は鐙に足をかけて、それから、思い出したように振り向きました。
「ヴェルニエ殿」
「はい」
「三月後、君はどこにいる」
妙な訊き方でした。式を組む者は当日その場におります。訊くまでもありません。
「前庭でございます。式次第を持って、進行を見ております」
「そうか」
公爵は、それきり何も言いませんでした。彼らが門を出ていったのは、日が傾いてからです。
わたくしは記録倉庫へ戻って、扉を閉めて、卓の上に条約の写しを置きました。綴じ目は、やはり固いままです。
指を入れて、押し広げました。紙が鳴って、糸が少し緩みました。
第九条。付帯条項。
その先を読むために、わたくしは灯りを引き寄せました。
次は、公爵閣下が言い残した「花嫁の欄」を開きます。




