第30話 花嫁の欄に、わたくしの名を
条約正本二通は、大聖堂の調印卓に置いたままでした。閉式まで、卓は動かしません。式次第にそう書いてあります。
百四十名が、回廊から大聖堂へ戻りました。誰も、戻れとは申しておりません。王姉殿下が立たれて、わたくしが承りましたと申し上げた。それだけで、全員が立ちました。
わたくしは、内陣の右手に立ちました。調印卓の前に、公爵が来られました。
「第四十一項か」
「はい」
「読むのか」
「読みます」
公爵は、卓の正本に手を置かれました。
わたくしは、式次第を開きました。
「式次第第四十一項。異議の申し立てにより、閉式前に実施いたします」
声が、石に返りました。
「調印に先立ち、開催国の式典官は、条約及び付帯の別紙に記載の当事者名を読み上げ、当事者本人の確認を得る」
わたくしは、条約正本の別紙を開きました。署名済みの条約に、綴じられている二枚です。
読み上げました。
「付帯の別紙、第九条に定める婚姻の当事者。一、グラナート公国公爵、アルベリク・ド・グラナート」
公爵が、答えられました。
「確認する」
「二、王国側の指名する者」
わたくしは、そこで止まりました。
止まったのは、演じたのではありません。読めないからです。
大聖堂の中が、静かになりました。
「……名がございません」
わたくしは、顔を上げました。
「王国側の当事者の名が、条約の別紙に記載されておりません。式次第第四十一項は、当事者本人の確認を得ることを求めております。名の無い記載について、確認を得ることができません」
外務卿が、立ち上がりました。
「本日、書面をもって指名しておる」
「拝見しております」わたくしは申し上げました。「宮内卿印の書面でございます。ですが、書面は条約の一部ではございません。条約に綴じられておりますのは、この別紙でございます」
「同じことだ」
「同じではございません」
わたくしは、儀礼書を閉じました。閉じてから、条文ではなく、別のことを申し上げました。
「二十年前、この大聖堂で同じ式が組まれました。同じ表題の条約に、同じ形の別紙が付いておりました。王国側の指名する者、と」
最前列が、動きました。
「先代のグラナート公爵は、筆を取りませんでした。理由は、書簡に残っております。指名は覆せるが、名は覆せない。覆せないものにしなければ、その者は、条約が要らなくなった日に要らなくなる」
外務卿は、何も仰いませんでした。
「二十年、覆されたままでございました。宮を構えた方が一人、二十年、何も出せずにおられます」
わたくしは、別紙を卓に置きました。
「本日、同じ形で結ぼうとしております」
大聖堂の中は、静かでした。
公爵が、口を開かれました。
「王国側に問う。指名する者の名を、別紙に記載する用意はあるか」
「条約は成立しておる」外務卿が仰いました。「成立した条約の付帯を、あとから直すことはできぬ」
「直すのではない」
公爵は、卓の別紙を指されました。
「空欄を埋めるだけだ。記載の無い欄に記載する行為は、変更ではない」
わたくしは、そこで、公爵が三月前から何を待っておられたのかが分かりました。
空欄です。
埋められる形で、空けてあったのです。
外務卿は、しばらく黙っておられました。
「……宮内卿の決裁が要る」
「本日、書面が出ておる」公爵は仰いました。「指名する者は決まっている。名を書くのに、新しい決裁は要らん」
王姉殿下が、最前列で立たれました。
「宮内卿は、わたくしの弟よ」
その方は、通路へ出られました。
「決裁が要るなら、わたくしが取ります。今夜のうちに」
外務卿は、それ以上仰いませんでした。
公爵が、羽根ペンを取られました。取って、それから、わたくしのほうへ差し出されました。
「セラフィーナ殿」
「はい」
「別紙の記載は、誰の職務だ」
わたくしは、答えました。
「条約文書の記載は、外務府の書記官でございます」
「今、この場に書記官はいるか」
わたくしは、四辺を見渡しました。外務府の書記官は六名、全員が回廊から戻っております。
――おります。
おりますが、公爵はそれを訊いておられるのではありませんでした。
「閣下」
「なんだ」
「式次第第四十一項は、式典官が読み上げ、確認を得ると定めております。確認を得られない場合の処置は、定めておりません」
「定めていないな」
「定めのないものは、禁じられておりません」
わたくしは、羽根ペンを受け取りました。
母の白墨が、袖の内側で鳴りました。
卓に向かいました。別紙の二項目め。王国側の指名する者、と書かれた一行。
わたくしは、その一行に、二重線を引きました。
消さずに、残したまま。
何をどう直したかが、後から読めるように。
その上に、書きました。
――王国側の当事者。王宮儀典課次席、セラフィーナ・ヴェルニエ。
書いてから、余白にもう一行、添えました。
――本記載は、式次第第四十一項に基づき、当事者本人の確認を得るために行う。記載者、同人。
自分で書いて、自分で確認する形です。規程には、ありません。
禁じても、おりません。
わたくしは、筆を置きました。置いてから、公爵のほうを向きました。
「閣下。当事者名を読み上げます」
「聞こう」
「付帯の別紙、第九条に定める婚姻の当事者。一、グラナート公国公爵、アルベリク・ド・グラナート。二、王宮儀典課次席、セラフィーナ・ヴェルニエ」
わたくしは、顔を上げました。
「当事者本人の確認を求めます」
公爵が、答えられました。
「確認する」
それから、こちらをご覧になりました。
「もう一人は」
わたくしは、答えました。
「確認いたします」
式次第を閉じました。第四十一項に、済の印を打ちました。
三月かけて組んだ四十二項と、当日に足した一項が、全部、済になりました。
閉式を宣しました。
人が引けたあと、王姉殿下が調印卓の前に来られました。別紙をご覧になりました。二重線と、その上の一行を。
「消さずに残すのね」
「母の作法でございます」
「知っているわ」
その方は、少し笑われました。
「二十年前、あの人の式次第にも、そればかりだった」
わたくしは、礼をしました。
「殿下。お願いがございます」
「なに」
「二十年前の書簡を、お読みいただけませんか」
王姉殿下は、しばらく黙っておられました。
「……読んだら、終わるわ」
「はい」
「終わっていいのかしら」
「終わらせて、次を始めていただきたく存じます」
わたくしは、申し上げました。
「グラナートの年間行事に、収穫祭がございます。両国の合同で行う形を、閣下が検討しておられます。式次第を組む者が、こちらにも要ります」
「わたくしが」
「二十年、宮から何もお出しになっておりません。出せる方が、一人おられます」
その方は、答えられませんでした。答えずに、別紙をもう一度ご覧になりました。
「ヴェルニエ殿」
「はい」
「あなたの母上は、二十年前、王宮を辞めたわ」
「存じております。理由は、伺っておりません」
「わたくしが辞めさせたの」
わたくしは、その方を見ました。
「式が流れた責を、誰かに負わせなければならなかった。式次第に瑕疵は無かったのだけれど」
「……はい」
「二十年、そのことを書けずにいたわ」
王姉殿下は、懐から紙を出されました。畳んだ一枚です。古いものではありません。
「昨夜、書いたの」
受け取りました。
二十年前の覚書の、四枚目です。切り取られた一枚が、書き直されておりました。
わたくしは、それを式次第の束に綴じました。六十年分の棚に入る形になりました。
記録倉庫へ戻ったのは、夜半でした。式次第の束を、いちばん新しい段に入れました。
卓には、二十年前の束が出したままです。いちばん後ろに、その式で使われた条約の写しが綴じてありました。
署名の欄が、二つとも空です。
当たり前です。誰も署名しなかったのですから。
ただ、流れた式の条約は破棄されて、破棄の書面と一緒に棚へ入るはずです。束を最初から繰り直しました。
破棄の書面が、ありません。
受付台帳の二十年前の行には、こうあります。
――王国・グラナート公国 通商及び不戦条約 調印式 流会。
流会は、式が成立しなかったという意味です。条約が破棄されたという意味ではありません。
条約は署名で成立し、破棄の通告で終わります。どちらも無いのなら、あの紙は終わってもいません。
条約の写しの末尾を開きました。
――第十二条(効力) 本条約は、両締約国のいずれかが破棄を通告するまで、その効力を存続する。
署名の無い条約に、効力の条項だけが生きています。
――同じ表題の条約が、二通、棚にございます。
片方は署名済みで、片方は空欄のまま。どちらも、破棄されておりません。
グラナートの法がこれをどう読むのかは、存じません。オデット殿なら、ご存じでしょう。
わたくしは、二十年前の束を、いちばん新しい段の隣へ置きました。古い段には戻しませんでした。
それから、いちばん古い段へ行きました。
表紙の無い束。二十年前の写し。余白に、書きかけの一行。
――これを見つけた人へ。
わたくしは、筆を出しました。その先を、書き足しました。
――見つけました。二十年後の式は、成立しております。




