第29話 式次第を正す権限
晩餐は、遅滞なく進みました。回廊の四辺に百四十席。噴水を基点に、時計回りに序列。板の衝立が風を止め、東端の炙り台から七品が温かいまま運ばれました。
バティスト殿の湯は、閉式後の回廊で供されました。生姜が入っておりました。
誰も、天幕のことを言いませんでした。
わたくしは給仕の動線を追いながら、第四十一項のことを考えておりました。
調印に先立ち、と書きました。
先立っておりません。
式次第は、書いたとおりに読み上げます。読み上げる順が来なければ、読み上げません。順が来ないまま式が終われば、その項は「実施せず」として記録に残ります。実施せずと書いて、綴じて、棚に入れる。
――それで、終わりです。
わたくしは給仕の三巡目を確かめて、記録倉庫へ戻りました。晩餐はあと一刻あります。式典官が離れてよい時刻ではありませんが、ユベールが代わってくれました。
記録倉庫の卓に、式次第を置きました。第四十一項。第四十二項。二重線を引いた書き足し。
どちらも、三月かけて考えたものです。片方は効きました。片方は、順が来ませんでした。
わたくしは、灯りを引き寄せました。
――順を、決めるのは誰でしょう。
式次第の項の順は、式典官が決めます。組むときに決めて、当日はそのとおりに読みます。
当日、順を変えることは、できません。
――できないと、どこに書いてあるでしょう。
わたくしは、儀礼書を開きました。進行の部です。三月のあいだ、何度も開いた頁です。
――式典官は、式次第に従い進行を宣する。
従い、と書いてあります。従うのは、書かれたとおりに読むということです。
――第四十条。
わたくしは、そこで手を止めました。
式次第の第四十項です。ヴァレン殿に申し上げた項です。異議の申し立ての定めがあります。読み直しました。
――第四十項 式の進行に関する異議は、閉式前に限り、式典官に対して申し立て得る。式典官は、申し立てを受け、式次第の未実施項について、その実施を宣し得る。
未実施項について、その実施を宣し得る。
書いてあります。
六十年の式次第で、この項が使われた例を、わたくしは一件だけ見ておりました。四十一年前の叙勲式です。雨で回廊へ移した式で、勲章の授与が一件抜けて、閉式前に申し立てがあって、実施されています。
――閉式前。
閉式は、第四十三項です。晩餐の終わりに、わたくしが宣します。
まだ、宣しておりません。
式は、終わっておりません。
わたくしは、立ち上がりました。立ち上がってから、座り直しました。
――申し立てる者が、要ります。
式典官は、自分で申し立てることができません。申し立てを受ける側だからです。誰かが、申し立てなければなりません。
式の進行に異議を持つ者。第四十一項が未実施であることを知っている者。
知っているのは、三人です。わたくしと、公爵と、ユベール殿。
ユベール殿は、儀典課の三席です。式を運営する側ですので、申し立ての資格がありません。公爵は、参列者であり、当事者です。
――閣下に、申し立てていただく。
思いついて、すぐに、それは違うと思いました。
当事者が申し立てれば、当事者の都合で式次第を動かしたことになります。記録に残るのは、そういう形です。二十年後に読む人は、こう読みます。グラナート公爵が、自分の婚姻条項のために式の進行を変えさせた、と。
――違います。
わたくしは、灯りを見ておりました。
これは、公爵のための項ではありません。名の無い欄に人が入れられることを、防ぐための項です。二十年前に先代の公爵が求めて、通らなかったこと。
求めたのは、当事者ではない側のためでした。イゾルデ殿下のためです。
――では、申し立てるべきは。
わたくしは、式次第を抱えて、記録倉庫を出ました。回廊へ戻りました。
晩餐は、終わりに近づいておりました。給仕が最後の卓を下げています。王姉殿下は、噴水正面の上座から三つ目におられました。
わたくしは、その席の脇まで行って、礼をしました。
「殿下」
「なに」
「式は、まだ終わっておりません」
その方は、こちらをご覧になりました。
「閉式は、あなたが宣するのでしょう」
「宣しておりません」
「そう」
「式次第に、未実施の項が一つございます」
王姉殿下は、杯を置かれました。
「聞きましょう」
「第四十一項。調印に先立ち、式典官は、条約及び付帯の別紙に記載の当事者名を読み上げ、当事者本人の確認を得る」
「……調印は済んだわ」
「済みました。順が来ませんでした」
「では、終わりね」
「第四十項がございます」
わたくしは、儀礼書を開きました。
「式の進行に関する異議は、閉式前に限り、式典官に対して申し立て得る。式典官は、申し立てを受け、未実施項の実施を宣し得る」
王姉殿下は、その条文を聞いておられました。
「……あなた、わたくしに申し立てろと言っているの」
「申し上げております」
「なぜ、わたくしなの」
「殿下が、いちばん適任でございます」
わたくしは、申し上げました。
「この項は、名の無い欄に人が入れられることを防ぐために書きました。二十年前、先代のグラナート公爵が求めて、通らなかったことでございます」
王姉殿下の手が、止まりました。
「……あの人が」
「求めたと、書簡の写しにございました」
「読んだの」
「読みました。公爵閣下が、写しをお持ちでございました」
その方は、しばらく黙っておられました。
「なんと、書いてあったの」
「指名は覆せるが、名は覆せない。覆せないものにしなければ、貴女は条約が要らなくなった日に、要らなくなる。ですので、筆を取らなかった、と」
回廊の風が、衝立の隙間から入りました。王姉殿下は、動かれませんでした。
「……二十年」
「はい」
「封を、切らなかったのよ」
「伺いました」
その方は、両手を膝の上で組まれました。それから、立ち上がられました。
「ヴェルニエ殿」
「はい」
「異議を申し立てるわ」
声が、回廊に通りました。卓に着いていた者が、こちらを見ました。
「式次第第四十一項が未実施である。閉式前につき、実施を求めます」
わたくしは、礼をしました。
「承りました」
回廊の四辺が、静かになりました。
百四十名のうち、何人がこの遣り取りの意味を分かったかは、分かりません。分からなくてよいのです。式次第は、分かる者が一人いれば動きます。
わたくしは、式次第を開いて、申し上げました。
「式次第第四十項により、未実施項の実施を宣します。第四十一項を、これより実施いたします」
わたくしは、卓のあいだを見渡しました。
「調印卓は大聖堂にございます。参列の皆様には、恐れ入りますが、いま一度大聖堂へお運びいただきます」
誰も、何も言いませんでした。
王姉殿下が、先に歩き出されました。それを見て、卓に着いていた者が順に立ちました。序列の下位から上位へ。第十二項の着席と、逆の順です。
わたくしは、その順を見ておりました。誰も指示しておりません。三月かけて組んだ順を、三刻のあいだ守った人たちが、自分たちで逆に辿っています。
式次第は、そういうふうに効きます。
最後に、公爵が立たれました。わたくしの横を通るとき、一言だけ仰いました。
「間に合ったな」
「閉式前でございますので」
雨は、上がりかけておりました。
次は、閉式前の最後の一項です。




