第28話 調印
第十三項から第三十項までは、遅滞なく進みました。
献酒。誓詞。宣誓。祝辞が三つ。聖歌が二つ。
わたくしは式次第を追いながら、時刻を測っておりました。第十二項の中断で四半刻遅れています。晩餐の開始は動かせません。回廊の炙り台に火が入る刻限が決まっているからです。
祝辞を一つ短くしていただき、聖歌の二つ目を一節削りました。どちらも、慣行の範囲でできることです。第三十項が終わったところで、遅れは取り戻せておりました。
第三十一項。署名。
両国全権が、調印卓へ進みました。王国側は外務卿。グラナート側は公爵閣下です。卓を挟んで、向かい合われました。
条約正本が二通。羽根ペンが二本。
――ここです。
二人が同時に卓へ手を伸ばせば、そこで一瞬の間ができます。その間に、どちらが先に取るかが決まります。決まったものは、条約に残ります。
わたくしは、一歩前へ出ました。式次第を開きました。第四十二項の余白に、三月かけて書き足した一行があります。
声を出しました。
「署名の順を、宣します」
外務卿が、こちらを見ました。手が止まりました。公爵は、動かれませんでした。
グラナート側の席の後ろのほうで、誰かが立ち上がりました。名簿にない席、序列でいちばん下の席です。
「異議がある」
財務長官ヴァレンでした。背の低い、肩幅の広い男です。声が大きい方でした。
「王国側全権は外務卿。我が国の全権は公爵閣下。格が揃っておらぬ。格下が先に署名する式を、我が国は受け入れられぬ」
百四十名が、動きました。動いたというより、空気が変わりました。
わたくしは式次第を持ったまま、その方のほうを向きました。
「ヴァレン殿。恐れながら、ご発言は式次第の第三十一項の途中でございます。異議の申し立ては、第四十項に定めがございます」
「今、言わねば意味がない」
「では、伺います」
わたくしは、儀礼書を開きました。三月のあいだ、四度読んだ二行です。
「署名の順は、締約両国の元首の格に従う。格が同等の場合は、開催国を後とする。王国儀礼書、署名の部でございます」
「知っておる」
「グラナート公国儀礼書、署名の部にも、同文がございます。オデット・ラ・トゥール殿の合同点検により、両国の条文が同一であることを確認済みでございます」
オデット殿が、席から立たれました。
「確認しました」
ヴァレンが、そちらを見ました。わたくしは、続けました。
「条文は、元首の格と申しております。全権の格ではございません」
大聖堂の中が、静かになりました。
「王国の元首は国王陛下。グラナート公国の元首は公爵閣下。格は同等ではございません。ゆえに、王国が先でございます」
「公爵閣下は全権であり、元首でもある」
「はい。ですので、閣下の格は元首の格として数えます。外務卿の格は、この定めに関わりません」
わたくしは、儀礼書を閉じました。
「全権の格が問われるのは、条文が読まれていない場合のみでございます。本日は、読み上げました」
ヴァレンは、何か言おうとしました。言おうとして、言葉を探しました。
探すあいだに、公爵が仰いました。
「ヴァレン」
「閣下」
「座れ」
それだけでした。財務長官は、序列でいちばん下の席に座りました。
わたくしは、式次第を開き直しました。
「署名の順は、両国元首の格に従い、王国を先といたします」
外務卿が、羽根ペンを取りました。条約正本二通に、署名がなされました。
次に、公爵が取られました。
二通目の署名が終わったとき、大聖堂の中で、誰かが息を吐きました。
三月です。
六つの階層に、一つずつ仕込まれておりました。席次、旗、衣装、時、口に入るもの、署名。
全部、塞ぎました。
条約は、成立しました。
わたくしは、式次第の第三十一項に、二重線ではなく、済の印を打ちました。打ってから、次の項を見ました。
第四十一項は、順番でいえば最後のほうにあります。ですが、書き足した一行はこうです。
――調印に先立ち、開催国の式典官は、条約及び付帯の別紙に記載の当事者名を読み上げ、当事者本人の確認を得る。
調印に先立ち、と書いてあります。
――先立っておりません。
署名が、先に済んでしまいました。
わたくしは、その一行を見ておりました。中断が四半刻ありました。取り戻すために、祝辞を短くし、聖歌を削りました。削ったことで、順が詰まりました。
詰めたのは、わたくしです。
――間に合いませんでした。
条約は成立しました。成立した条約の付帯条項は、あとから直せません。先代の公爵が、二十年前に書いておられたとおりです。
わたくしは、式次第を閉じました。閉じて、内陣の右手に立ったまま、第三十二項を読み上げました。
声は、震えませんでした。
仕事ですので。
第三十七項、退出。
参列者が立ち上がり、回廊へ移りはじめました。雨は小降りになっておりました。
最前列の王姉殿下も、立たれました。立って、こちらをご覧になりました。
何も仰いませんでした。
わたくしは、内陣に一人、残りました。
調印卓には、署名済みの条約正本が二通。その下に、別紙が綴じてあります。
――王国側の指名する者。
空のままです。
条約は通りました。
花嫁の欄は、まだ、わたくしのままです。
――まだ、というのは、正しくありません。
欄に名はありません。名が無いのですから、わたくしのものでもありません。わたくしのものでないのに、わたくしがそこに入れられている。
その形を、二十年前に先代の公爵が拒まれました。拒んで、条約を流して、次の式を待つと書き残して、次の年に亡くなられた。
二十年、次の式は来ませんでした。
――来なかったのは、組む人がいなかったからです。
組む人は、今日、ここにおります。
わたくしは、調印卓の別紙を見ておりました。署名済みの条約に綴じられた二枚。埋まっていない欄が一つ。
式次第は、まだ閉じておりません。閉式は第四十三項です。晩餐が終わってから、わたくしが宣します。
――終わっていません。
わたくしは、式次第を抱えて、内陣を出ました。回廊へ向かう途中で、ユベールとすれ違いました。
「セラフィーナ殿。晩餐の給仕が始まります」
「参ります」
「顔色が」
「大丈夫でございます」
わたくしは、そう申し上げて、回廊へ出ました。雨は、小降りになっておりました。
回廊に出ると、炙り台の火が見えました。東端に三つ、板の衝立の内側で赤くなっています。バティスト殿が、その前におられました。
「……で、何時だ」
「晩餐でございます。予定どおり」
「調印は」
「済みました」
彼は木べらを止めました。
「済んだのか」
「済みました」
「そうか」
それだけ仰って、鍋のほうへ向き直られました。向き直ってから、背中で言われました。
「じゃあ、村は消えんな」
わたくしは、そこに立ったまま、返事ができませんでした。
二十年前、式が流れて、国境が三年閉じて、辺境の村が二つ消えました。この方は、それを覚えておられます。
覚えている人が、今日の献立を作りました。
「……はい」
「いいから行け。給仕が始まる」
わたくしは礼をして、四辺のほうへ歩き出しました。歩きながら、式次第の残りの項を数えました。
第三十二項から第四十三項まで。あと十二項。
そのうちの一つが、まだ実施されておりません。
条約は通りました。花嫁の欄は、まだ空のままです。




