第27話 二十年分の暗誦
大聖堂は、満席でした。王国側六十八、グラナート側七十二。それに随員の席が一つ増えて、百四十一席になっています。
わたくしは内陣の右手に立ちました。式典官の位置です。ここから四辺と内陣の両方が見えます。
燭台に、火が入っていました。三本とも、聖障の中央へ寄せたままです。
最前列に、王姉殿下がおられました。三本の燭台の火が、その方と内陣のあいだにあります。稽古の日と同じ位置です。
開式の辞。献花。着席。
式次第は、順に進みました。第十一項まで、遅滞はありませんでした。
第十二項の途中で、最前列が動きました。
王姉殿下が、立たれたのです。
参列者が式の途中で立つのは、退出のときだけです。退出の項は、第三十七項です。
二十五項、早い。
大聖堂の中が、静かになりました。百四十名が、全員そちらを見ました。
わたくしは式次第を持ったまま、動きませんでした。式典官は、参列者を止められません。止める条文がありません。
王姉殿下は、通路へ出られました。出て、内陣のほうへ歩き出されました。
――どこへ。
署名の卓です。
内陣の中央に、調印卓が据えてあります。条約正本二通と、羽根ペンが二本。まだ誰も座っていません。署名は第三十一項です。
王姉殿下は、その卓の前で止まられました。止まって、こちらを向かれました。
「ヴェルニエ殿」
声が、石によく通りました。
「はい」
「あなたの式次第を、読み上げてくださる」
わたくしは、式次第を持ち直しました。
「第十二項でございます。着席の確認」
「そこではないわ」
その方は、卓に手を置かれました。
「二十年前の、第十二項を読むわ」
わたくしは、動けませんでした。
王姉殿下は、卓に手を置いたまま、仰いました。
「第十二項。着席。両国全権は、内陣に向かい左右に分かれ、聖障を背にして着席する。着席の順は、序列の下位より上位へ」
二十年前の式次第です。母が組んだものです。
わたくしは、昨夜まで、あの束を読んでおりました。読んでおりましたので、分かりました。
一字も、違っておりません。
「第十三項。献酒。大聖堂司祭が両国全権の杯に献じ、司祭は献じたのち退く」
その方は、内陣を見ておられました。
「第十四項。誓詞。両国全権は、条約の趣旨を口頭にて確認する。確認の文言は、別に定める」
百四十名が、聞いておりました。
誰も、止められません。
「第十五項……」
王姉殿下は、そこで止まられました。止まって、少しのあいだ、何も仰いませんでした。
「……ここから先は、覚えていないわ」
その方は、卓から手を離されました。
「二十年前、第十五項まで進んだところで、あの人が立ったの」
わたくしは、そこで初めて、この方が何をしておられるのかが分かりました。
二十年間、頭の中で繰り返しておられたのです。
覚えようとして覚えたのではありません。繰り返しているうちに、そこまでは残って、その先は無くなった。
その先は、起きなかったからです。
「殿下」
「なに」
「第十五項は、宣誓の項でございます」
「そう」
「二十年前の式次第の第十五項は、こう書かれております」
わたくしは、式次第を閉じました。閉じて、申し上げました。
「第十五項。宣誓。両国全権は、条約正本を前に、これを遵守する旨を宣する。宣誓ののち、署名に移る」
王姉殿下は、こちらをご覧になりました。
「覚えているの」
「昨夜、読みました」
「一度読んで、覚えたの」
「式次第を読むのが、仕事でございますので」
その方は、しばらく黙っておられました。
燭台の火が、揺れました。
「……ヴェルニエ殿」
「はい」
「わたくしは、あなたの式を止めに来たのよ」
「存じております」
「知っていて、読んだの」
「はい」
「なぜ」
わたくしは、答えました。
「殿下が、第十五項を覚えておられないのが、お気の毒でしたので」
大聖堂の中は、静かでした。王姉殿下は、動かれませんでした。
しばらくして、その方は、卓のほうへ向き直られました。
「二十年前、ここで誰も署名しなかった」
「はい」
「今日は、するのかしら」
「いたします」
「そう」
王姉殿下は、通路へ戻られました。戻りながら、こちらへ一言だけ仰いました。
「あと一つ残っていると言ったわね」
「署名の順でございますね」
「解いたの」
「解きました」
「そう」
その方は、最前列の席へ戻られました。座られました。
式は、止まっておりました。
わたくしは式次第を開きました。開いて、百四十名に向かって、申し上げました。
「進行に遅滞がございました。式次第第十二項より、再開いたします」
声が、石に返りました。誰も、何も言いませんでした。
わたくしは、第十二項を読み上げました。
着席の確認です。両国全権が内陣に向かい左右に分かれ、聖障を背にして着席する。着席の順は、序列の下位より上位へ。
二十年前と、同じ文です。
母が組んだ文を、わたくしがそのまま使いました。使ったのは、二十年前の束を読んだからです。
読んで、直す必要が無かったので、そのままにしました。
直さなかった箇所には、二重線が引かれません。
――ですので、この項は、母が書いたことが分かりません。
わたくしは読み上げながら、そのことを考えておりました。残すために二重線を引きます。ですが、直さなかったものは残りません。直したものだけが、誰かの手を経たと分かる形で残ります。
良いものほど、直されずに、誰の手も見えないまま通り過ぎていきます。式次第の二十三項までを誰も読まないのと、同じことでした。
第十二項が終わりました。両国全権が着席されました。
最前列で、王姉殿下が杯に手を伸ばされたのが、視界の端に見えました。
式は、動いております。
第十三項、献酒。司祭が両国全権の杯に献じ、献じたのち退きました。第十四項、誓詞。両国全権が、条約の趣旨を口頭にて確認されました。
わたくしは、一項ごとに済の印を打ちながら、最前列を見ておりました。
王姉殿下は、動かれません。
第十五項に入ります。二十年前、そこで止まった項です。
わたくしは、読み上げました。
「第十五項。宣誓。両国全権は、条約正本を前に、これを遵守する旨を宣する」
両国全権が立たれました。外務卿が宣し、公爵が宣されました。
二十年前に、起きなかったことです。
最前列で、王姉殿下が両手を膝の上で組まれたのが見えました。組んで、そのまま、動かれませんでした。
わたくしは、第十五項に済の印を打ちました。打つとき、少しだけ、手が止まりました。
止まったのは一呼吸です。誰も気づかなかったと思います。
次は、調印です。




