第26話 取り消さなかったのは
式の前、大聖堂の控えの間で、公爵にお目にかかりました。最終の確認です。進行と、署名の段取りと、当日の変更点。慣行どおりの手順でした。
公爵は、正装でおられました。紫です。深い紫で、襟に銀の縁取りがありました。
「回廊へ移したそうだな」
「天幕が落ちました。設営は済んでおります」
「見た」
「……ご覧になりましたか」
「濡れながら来たからな。板の衝立が立っていた」
「不揃いでございます。申し訳ございません」
「詫びるな」
公爵は、袖口を直されました。
「あれを見て、うちの随員が言った。この国は、雨の日に客を立たせない、と」
わたくしは、返す言葉を持っておりませんでした。
「セラフィーナ殿。署名の順は」
「解けました。式次第の第四十二項に、式典官が順を宣する旨を書き足しております。当日、条文を読み上げます」
「読み上げる」
「元首の格に従い、王国を先とする。全権の格はこの定めに関わらない。儀礼書の条文そのままでございます」
公爵は、しばらく黙っておられました。
「……それだけか」
「それだけでございます」
「三月かかったのに」
「三月かけて、読み方が分かりました」
公爵は、少し笑われたようでした。
わたくしは、懐から封書を出しました。朝からずっと入れていたものです。乾いておりました。
「閣下。もう一つ、ご報告がございます」
渡しました。公爵は、封を切って、読まれました。読んで、動かれませんでした。
「……出たか」
「本日、四半刻前でございます」
「宮内卿印だな」
「はい。副印はございません」
公爵は、その紙を卓に置かれました。置いて、しばらく見ておられました。
「セラフィーナ殿」
「はい」
「これを、いつから知っていた」
「本日、四半刻前でございます」
「そうではない」
公爵は、こちらを向かれました。
「君の名が、そこに入るということを、いつから知っていた」
わたくしは、答えました。
「三月と少し前でございます。招待予定者の一覧の、招待客の欄に、わたくしの名がございました」
「気づいたのか」
「気づきました」
「気づいて、三月、何も言わなかったのか」
「申し上げる相手が、おりませんでした」
公爵は、卓の紙を指で押さえられました。
「私がいた」
わたくしは、そこで、言葉に詰まりました。詰まったのは、そのとおりだったからです。
「……はい」
「なぜ言わなかった」
「式次第が四十二項ございましたので」
公爵は、その答えを聞いて、しばらく何も仰いませんでした。
「セラフィーナ殿」
「はい」
「私は、三月前に君の名を知っていた」
わたくしは、顔を上げました。
「先遣で来たとき、王姉殿下から書状が来た。王国側の指名は儀典課次席とする心づもりがある、と。私宛に、直接」
「……三月前でございますか」
「三月前だ」
「では、閣下は」
「知っていた」
公爵は、卓の紙から手を離されました。
「知っていて、取り消させなかった。取り消させることはできた。私が別紙の当事者だ。婚姻条項を外せと言えば、外れた」
わたくしは、その言葉を、飲み込むのに時間がかかりました。
「外せば、条約は通ると仰いました」
「通る」
「では、なぜ」
公爵は、控えの間の窓のほうを見ておられました。雨が、まだ降っていました。
「父の写しを読んだとき、私は二十歳だった」公爵は仰いました。「父は、名を書かせろと言って、通らなかった。だから筆を取らなかった」
「はい」
「私は、同じことをするつもりだった。名が無いなら取らない。それが父への筋だと思っていた」
「三月前に、変わられましたか」
「変わった」
公爵は、こちらを向かれました。
「君が席次表を持ってきた。四枚目に、条文の番号が席ごとに二つずつ書いてあった。あれを一人で作った人間が、この式を組んでいると知った」
「はい」
「そのとき、思ったことが二つある」
「伺います」
「一つは、この式なら成立させてよい、ということだ」
「もう一つは」
公爵は、少し間を置かれました。
「この人が、名の無い欄に入れられるのは違う、ということだ」
わたくしは、卓の縁に手を置きました。置かなければ、少し危なかったからです。
「……閣下」
「言い方を間違えた」
公爵は、目を逸らされませんでした。
「取り消さなかったのは、私だ。取り消せば、君は関わらずに済んだ。私が取り消さなかったから、君は今日、名の無い欄に入る」
「それは」
「詫びている」
「詫びていただくことでは、ございません」
わたくしは、そう申し上げました。申し上げてから、なぜそう言えたのか、自分でも分かりませんでした。
「閣下。三月前、わたくしは記録倉庫におりました」
「そうだな」
「あそこには、六十年分の式次第がございます。誰も読みません。読まないので、誰も、それが何のためにあるのか知りません」
「知っている者が一人いた」
「二人でございます」
わたくしは、申し上げました。
「二十年前に、母がおりました。母が組んだ式は流れました。流れて、無かったことになって、棚に入りました」
「そうか」
「今日の式が成立すれば、二十年前のものが棚から出ます。二十年前に組まれた式が、今日の式の土台になったという形で」
「君の母の名が残るか」
「残ります」
わたくしは、束を持ち直しました。
「ですので、詫びていただくことではございません。閣下が取り消さなかったから、わたくしは今日ここにおります」
公爵は、しばらくこちらをご覧になっておりました。
「セラフィーナ殿」
「はい」
「別紙の欄は、まだ空だ」
「はい」
「書面は出たが、あれは指名だ。名は入っていない」
「入っておりません」
「入れる道は」
わたくしは、式次第を開きました。第四十一項の余白。書き足した一行。
――調印に先立ち、開催国の式典官は、条約及び付帯の別紙に記載の当事者名を読み上げ、当事者本人の確認を得る。
公爵は、それを読まれました。読んで、顔を上げられました。
「……読み上げるのか」
「読み上げます」
「名の無い欄を」
「読めない、と申し上げます。百四十名の前で」
公爵は、その一行をもう一度読まれました。それから、笑われました。この三月で、初めて声を出して笑われたのを見ました。
「君は、本当に武器だな」
鐘が鳴りました。開式の鐘です。
わたくしは礼をして、控えの間を出ました。出るとき、母の白墨が袖の内側で鳴りました。三月、ずっと持っておりました。今日は使いません。
使いませんが、持っております。
控えの間を出て、内陣へ向かう短い廊下を歩きました。石の壁に、雨の音が籠もっています。
歩きながら、公爵が仰ったことを順に並べ直しました。
三月前に、王姉殿下から書状が来た。指名は儀典課次席とする心づもりがある、と。あの方は、それを取り消させることができた。しなかった。
しなかった理由を、二つ仰いました。この式なら成立させてよい。この人が名の無い欄に入れられるのは違う。
二つは、噛み合っておりません。成立させれば、名の無い欄が発効します。名の無い欄が違うと思うなら、成立させてはいけません。
――どちらも取ろうとしておられます。
成立させて、なお名を入れる。二十年前に先代が求めて通らなかったことを、成立と両立させる。
そんな道は、条約の側にはありません。
条約の側に無いから、式次第の側に書いたのです。
わたくしは、廊下の途中で足を止めました。
三月前、あの方は席次表を見て、これは武器だなと仰いました。あのとき既に、この道を見ておられたのかもしれません。
――だとすれば、ずいぶん気の長い話です。
三月かけて、わたくしが自分で第四十一項に行き着くのを待っておられたことになります。待っていた、と言われたわけではありません。訊けば、たぶん違うと仰るでしょう。
訊きませんでした。
鐘が、二つ目を打ちました。
わたくしは、内陣の右手へ出ました。
次は、最前列が式の途中で立ち上がります。




