第24話 倒れた天幕
当日は、雨でした。夜明け前から降っていました。三月の雨は冷たく、風を伴います。北風です。バティスト殿の言ったとおりでした。
わたくしは五の刻に前庭へ出ました。天幕は前の日に張ってあります。六本の柱、三本目だけ半歩下がった位置。布は二重。
風が、北から吹いていました。布が鳴っています。鳴り方が、昨日と違いました。
わたくしは柱の根元を見ました。三本目の柱の穴に、水が溜まっています。掘り直した穴です。半歩下げるために、前の日に掘って埋め戻しました。埋め戻した土は、まだ締まっていません。
――抜けます。
近衛を呼びました。
「三本目の柱に控えを取ってください。土が緩んでおります」
「今からですか」
「今から」
控え綱を張るのに、四半刻かかりました。張り終えたところで、風が変わりました。
北から、北西へ。
三本目の柱が、傾きました。控え綱は保ちました。保ちましたが、傾いた柱に引かれて、二本目の柱の布が裂けました。裂けた布が風を孕んで、天幕の北半分が、ゆっくりと落ちました。
誰も下にいませんでした。それだけが幸いでした。
わたくしは、落ちた布を見ておりました。
――四半刻、早く来ていれば。
思ってから、それは違うと分かりました。四半刻早く来ても、土は締まっていません。掘り直したのはわたくしです。
仕込みではありません。これは、わたくしの手落ちです。
「ヴェルニエ殿」
近衛の隊長が来ました。
「張り直しますか」
「布が裂けております。予備は」
「ございません」
「では、張り直せません」
式は、四刻後です。
わたくしは、雨の中に立っておりました。立っていても、何も出ません。歩き出しました。
大聖堂の中へ入りました。調印は大聖堂で行います。天幕は歓迎晩餐のためのものです。晩餐は前庭で、百四十名。
――屋内でできる場所は。
大聖堂の身廊は、百四十名が座れます。座れますが、卓は入りません。座って食事をする場所ではありません。
回廊があります。大聖堂の南側、屋根のある通路です。長さは充分ですが、幅が足りません。卓を二列に並べると、給仕が通れません。中庭を囲む形で、四辺あります。
わたくしは、回廊を歩きました。四辺、全部歩きました。四半刻かかりました。
――卓を一列にすれば、入ります。
百四十名を、回廊の四辺に一列で並べる。中庭を囲む形になります。
問題が三つありました。
一つ、席次が全部変わります。四辺に一列で並べると、上座下座の考え方が変わります。
二つ、給仕の動線が変わります。厨房から回廊までの距離が伸びます。
三つ、雨です。回廊は屋根がありますが、中庭側は開いています。風が吹き込みます。
わたくしは、記録倉庫へ走りました。走ったのは、王宮に来て二度目でした。
六十年分の棚から、雨天の式を探しました。
――ありました。
四十一年前。春の叙勲式。前庭が雨で、回廊へ移した記録です。式次第の余白に、当時の式典官の書き込みがありました。
――回廊四辺の席次は、中庭の噴水を基点とする。噴水正面を上座とし、時計回りに序列を下げる。
基点が要るのです。四辺に並べると、どこが上座か分からなくなります。基点を一つ決めれば、そこから順に読めます。
中庭の噴水は、今もあります。
わたくしは、その式次第を抱えて大聖堂へ戻りました。戻る途中、儀典課の前を通りました。ユベールが走り出てきました。
「セラフィーナ殿。宮内府から」
封書を渡されました。封を切りました。
――条約第九条別紙に係る王国側指名の件
――王国は、下記の者を指名する。
――王宮儀典課次席 セラフィーナ・ヴェルニエ
わたくしは、雨の中で、その紙を持っておりました。
書面が、出ました。三月のあいだ出なかったものが、当日の朝に出ました。
「……ユベール殿」
「はい」
「これは、いつ届きましたか」
「四半刻前です。宮内府の使いが、直接」
「決裁は」
「宮内卿印です。副印はありません」
副印がない。王姉殿下の手ではない、ということです。
わたくしは、封書を畳んで懐に入れました。
「ユベール殿。回廊へ席を移します。人手をください」
「回廊、ですか」
「天幕が落ちました。前庭は使えません」
「……四刻しかありません」
「二刻です。設営に二刻要ります」
ユベールは、一度だけ息を吸いました。
「儀典課の全員を出します」
「ありがとうございます」
「セラフィーナ殿」
彼は、封書のほうを見ました。
「それは、あとでよろしいのですね」
「あとで結構でございます」
わたくしは、雨の中を回廊へ戻りました。懐の封書が、少し濡れておりました。濡れた紙は、あとで乾かせば読めます。
――読めるうちは、まだ何もされていません。
わたくしは、四十一年前の式次第を開いて、噴水の前に立ちました。そこから見えるものを、確かめました。
噴水は、四辺のどこからも見えます。水は止めてあります。冬のあいだ止めて、春に開けるものだそうです。今日は開いていません。
止まった噴水が、基点になります。
四十一年前の式典官も、たぶんこの前に立ったのだと思いました。名は式次第の最後の頁にありました。知らない名でした。その方も、雨の日に前庭を諦めて、ここへ来ています。
――同じことを、四十一年前にした人がいます。
六十年分の棚は、そのためにあります。同じ困り方をした人が過去にいて、その人が何をしたかが残っている。読めば、二刻で組み直せます。読めなければ、四刻かけて一から考えることになります。
四刻はありません。
わたくしは、紐を出しました。
儀典課の者が四人、雨具を着て走ってきました。ユベールが先頭でした。
「どこから張りますか」
「噴水の正面から。時計回りに」
「席次は」
「三月前の表がそのまま使えます。番号を振り直すだけでございます」
ユベールは、少し驚いた顔をしました。
「使えるのですか」
「順は変わりません。形が変わるだけでございます」
わたくしは、三月前に作った席次表を出しました。全席に、両国の儀礼書の条文番号が二つずつ付いています。
「あのとき、なぜ条文番号を全席に付けられたのですか」
ユベールが訊きました。わたくしは、答えました。
「後から誰かが読めるようにでございます」
「今、読んでいるのは、あなたですね」
「そうなりました」
紐を張り始めました。雨は、まだ降っておりました。張りながら、ユベールが訊きました。
「セラフィーナ殿。天幕は、仕込みでしょうか」
「違います」
「なぜ、そう言い切れるのですか」
「柱を半歩下げるために掘り直したのは、わたくしでございます。土が締まる前に雨が来ました」
わたくしは、紐の端を石に巻きました。
「仕込みなら、もっと丁寧でございます」
ユベールは、少し笑いました。笑ってから、すぐ真顔に戻りました。
「褒めているように聞こえます」
「褒めてはおりません」
紐が四辺に回りました。わたくしは、噴水の前に戻って、四辺を見渡しました。
百四十の位置が、雨の中に並んでいます。
次は、二刻で百四十席を組み直します。




