第23話 署名順
その夜、記録倉庫で式次第を頭から読み直しました。四十二項。三月かけて組んで、五つ潰して、二十七箇所直したものです。
読みながら、探していたのは穴ではありません。
――空きです。
式次第には、書いてよい欄と、書かなければならない欄があります。書かなければならない欄は決まっています。書いてよい欄は、決まっていません。
第四十二項。
――署名の順は、儀礼書の定めによる。
この一行の下に、余白が四行あります。四十二項の最後の頁ですので、そこで終わっています。
わたくしは、その余白を見ておりました。
儀礼書の定めによる、と書けば済むところを、母は二十年前、どう書いていたでしょう。二十年前の束を出しました。三十九項。
――署名の順は、儀礼書の定めによる。王国側全権を宮内卿とし、格を揃える。
母は、余白に一行足しています。式次第に、全権が誰であるかを書き込んでいます。
――書いてよいのです。
全権を決めるのは宮内府ですが、決まった全権を式次第に書くのは式典官の仕事です。書けば、式次第の一部になります。式次第の一部になったものは、当日、式典官が読み上げます。
わたくしは、筆を取りました。第四十二項の余白に、書きました。
――署名の順は、儀礼書の定めによる。
――ただし、両国全権の格が揃わない場合、開催国の式典官は、儀礼書の定めに従い署名の順を宣し、当事者はこれに従う。
書いてから二重線を引きました。書き足した箇所が分かるように。
――宣する。
式典官には、式次第を読み上げる職務があります。読み上げたものは、その場の定めになります。当日、誰が先に筆を取るかで一瞬の間ができるなら、その間に、わたくしが読み上げればよいのです。
読み上げれば、間は無くなります。間が無ければ、どちらが先に取ったかで揉めません。
そして、読み上げるのは儀礼書の定めそのものです。格に従う、と。元首の格で読めば王国が先です。
――ですが、それでは公爵が後になります。
わたくしは、筆を止めました。
公爵を後にすれば、グラナート側は「格下の外務卿が先に署名した」と受け取ります。財務長官ヴァレンは、それを理由に使います。順を宣しても、順そのものは変わりません。
変わらないなら、意味がありません。
――いいえ。
わたくしは儀礼書の署名の部をもう一度開きました。
――署名の順は、締約両国の元首の格に従う。格が同等の場合は、開催国を後とする。
二行目です。格が同等の場合は、開催国を後とする。
王国の元首は国王。グラナートの元首は公爵。同等ではありません。
――元首の格。
条文は、元首の格と書いています。全権の格とは書いていません。
わたくしはそこで初めて条文を正しく読みました。全権の格は、この条文と関係がないのです。関係が無いものを、揉める材料にできるのは、条文が読まれていないときだけです。
読み上げれば、読まれます。
――「署名の順は、両国元首の格に従い、王国を先といたします。全権の格はこの定めに関わりません」
それを、当日、百四十人の前で読み上げる。
読み上げられた条文に、財務長官は反論できません。反論すれば、グラナート自身の儀礼書に反することになります。あちらの定めも同じですので。
わたくしは、その一行を書き足しました。書いて、二重線を引きました。
六つ目が、塞がりました。
塞いでから、しばらく卓に向かっておりました。塞いだのは、条文を読み上げるという、それだけのことです。三月かけて、他の五つには白墨を引き、駒を動かし、柱を掘り直し、燭台を寄せ、貯蔵を全部あらためました。
六つ目は、読むだけでした。
――読める者が、いなかっただけです。
わたくしは灯りを引き寄せて、もう一枚紙を出しました。
残っているものが、あります。
別紙です。
――王国側の指名する者。
二十年前、先代の公爵が筆を取らなかった一行です。
これは式次第ではありません。条約です。式典官が触れる紙ではありません。
触れられませんが、式次第には書けます。
わたくしは、第四十一項を開きました。
――調印は、両国全権が、条約正本二通に署名して行う。
その余白に、書きました。
――調印に先立ち、開催国の式典官は、条約及び付帯の別紙に記載の当事者名を読み上げ、当事者本人の確認を得る。
書いてから、手が止まりました。
これは、慣行にありません。六十年の式次第を見ましたが、当事者名の読み上げを式次第に書いた例は一件もありませんでした。
ありませんが、禁じてもいません。
書けば、当日、わたくしが読み上げます。
――「付帯の別紙、婚姻の当事者。グラナート公爵アルベリク・ド・グラナート。および、王国側の指名する者」
そこで、名を読めません。名が無いからです。
読めない欄を、百四十人の前で読み上げることになります。読み上げれば、その場の全員が気づきます。名の無い婚姻条項が、条約に付いていることに。
――気づかれて、困るのは誰でしょう。
わたくしはその紙を長いこと見ておりました。
困るのは、指名で済ませたい側です。王姉殿下ではありません。あの方は、二十年前に指名で済ませられた側です。
困るのは、王国です。
書けば、王国は名を書かざるを得なくなります。書面で指名するのではなく、条約の別紙に名を入れる形へ。二十年前に先代の公爵が求めて、通らなかったことです。
それを、式次第の一行で通す。
わたくしは、筆を置きました。置いてから、自分のしようとしていることの大きさに少し手が冷たくなりました。
式典官が、条約の書き方を変えようとしています。
権限は、ありません。
ありませんが、禁じられてもいません。
――無い道は、作ります。
ユベール殿に、そう言いました。言ったときは、言葉の勢いでした。
わたくしは二枚の書き足しに二重線を引いて、式次第を綴じました。
式まで、あと六日でした。
翌朝、儀典課へ最終版を提出しました。ユベールが、第四十一項と第四十二項の余白を読んで、顔を上げました。
「セラフィーナ殿。これは」
「式次第でございます」
「……式次第ですか」
「はい」
彼は、しばらくその二行を見ておりました。
「決裁は、儀典長代行のあなたですね」
「はい」
「では、通ります」
ユベールは受領の印を押しました。押してから、小さな声で言いました。
「あなたを止める人が、この課にいません」
「存じております」
「それは、よいことなのでしょうか」
わたくしは、少し考えました。
「三月前は、悪いことでございました」
「今は」
「今も、たぶん悪いことでございます」
「……そう仰るのに、書かれるのですね」
「はい」
「なぜですか」
「止める人がいないからでございます」
ユベールは、筆を置きました。
「それは理由になりますか」
「なりません」わたくしは申し上げました。「ですので、記録に残します。誰も止めなかったので次席が書いた、と。読んだ人が判断します」
「二十年後に、ですか」
「二十年後かもしれませんし、来月かもしれません」
彼は、しばらく黙っていました。
「セラフィーナ殿。私は、三月前に通達を捨てられませんでした」
「伺いました」
「怖かったからだと申し上げましたが、たぶん違います」
「はい」
「捨てたら、誰も知らないままになると思ったのです」
ユベールは、受領の控えをこちらへ寄せました。
「同じことですね。あなたが書くのと」
「同じでございます」
わたくしは礼をして、儀典課を出ました。二百四十歩を戻りながら、数えていました。
六つ、全部塞ぎました。
塞いだうえで、わたくしは式次第に、塞ぐためでない一行を書き足しています。
あれは、妨害への対処ではありません。
あれは、こちらから打った手です。
当日まで、あと七日。次は、雨です。




