第22話 書簡の写し
式まで六日というところで、公爵が本使節団より先に入られました。二度目の先着です。今度は宿に入られました。
わたくしは、式次第の最終版を持って伺いました。持って行く決まりはありませんが、行く理由が要りましたので、それを使いました。宿の応接に通されました。
公爵は、旅装のままでした。外套の裾に、また泥が跳ねています。
「最終版か」
「三十一項を除いて、確定でございます」
「三十一項は」
「解けておりません」
わたくしは、卓に束を置きました。
「王国側の全権を替えていただく道を、二つ当たりました。どちらも塞がっております」
「言ってみろ」
「一つは、宮内府へ変更を申請する道です。三月前の決裁を覆す理由が要ります。理由として使えるのは儀礼上の瑕疵ですが、瑕疵を主張すると、その瑕疵が記録に残ります。記録に残れば、そちらの財務長官が調印を拒む理由になります」
「もう一つは」
「儀礼書の署名の部を改正する道です。改正は宮内卿の決裁で、公示に十四日かかります。六日では間に合いません」
公爵は、うなずかれました。
「よく調べた」
「解けておりません」
「解けないことを二つ潰したなら、進んでいる」
その言い方は、オデット殿に似ていました。同じ職の人の言い方です。
「セラフィーナ殿。一つ渡すものがある」
公爵は、卓の下から箱を出されました。小さな木の箱です。蓋に、公爵家の紋が焼き付けてありました。
「父の遺品だ。継いだときに全部あらためた。そのとき、これが出た」
蓋を開けられました。
中に、紙が一枚。折り目が四つ。二十年ぶんの黄ばみがありました。
「先代の書簡でございますか」
「書簡そのものではない。写しだ」
公爵は、それを卓に置かれました。
「父は、署名しなかった理由を書いて、王姉殿下に渡した。渡す前に、自分で写しを取っていた」
「なぜ、写しを」
「分からん。ただ、写しがあるということは、いつか誰かに読ませるつもりだったのだろう」
わたくしは、その紙を見ました。手は出しませんでした。
「読んでよろしいのですか」
「読んでもらうために持ってきた」
「なぜ、今でございますか」
公爵は、しばらく答えられませんでした。
「二十年、読ませる相手がいなかった」
わたくしは、その紙を手に取りました。開きました。
字は大きく、少し傾いています。急いで書いた字ではありません。傾いているのは、手が震えていたからだと思いました。
――イゾルデ殿下へ
――本日、私は筆を取りませんでした。理由を申し上げます。
――この条約の付帯条項は、貴女を「王国側の指名する者」として書いております。名ではなく、指名する者と。
――私は三月のあいだ、その一行を書き換えるよう求め続けました。名を書くようにと。指名は覆せますが、名は覆せません。覆せないものにしなければ、貴女は条約が要らなくなった日に、要らなくなります。
――王国は、書き換えませんでした。理由は、指名のほうが「柔軟である」と。
――柔軟である、というのは、捨てられるということです。
――私が今日署名すれば、この条約は成立します。成立した条約の付帯条項は、あとから直せません。貴女は二十年でも三十年でも「指名される予定の者」のまま置かれます。
――ですから、取りませんでした。
――流れた条約は、組み直せます。組み直すときには、名を書かせます。それまで待っていただきたい。
――次の式で、必ず。
そこで、終わっていました。
署名はありません。
わたくしは、その紙を長いこと見ておりました。
「……次の式、とございます」
「そうだ」
「次の式は、二十年、来ませんでした」
「父は次の年に死んだ」
公爵は、窓のほうを見ておられました。
「私が継いだとき、この写しの意味が分からなかった。二十歳だった。父が何を待っていたのか、誰にも訊けなかった」
「オデット殿は」
「あれは知らん。写しの中身は、私しか読んでいない」
わたくしは、紙を卓に戻しました。
「公爵閣下」
「なんだ」
「今回の別紙にも、名はございません」
「無い」
「王国側の指名する者、とだけございます」
「そうだ」
「二十年前と、同じ形でございます」
公爵は、こちらを向かれました。
「そうだ」
「では、閣下も」
わたくしは、そこで言葉を切りました。切ったのは、続きを言うのが怖かったからではありません。続きを言うと、答えが出てしまうからです。
「言え」
「……閣下も、筆をお取りにならないおつもりですか」
公爵は、答えられませんでした。
窓の外で、馬が鳴きました。
「そのつもりだった」
「でした、と仰いますと」
「三月前まではな」
公爵は、卓の写しを指で押さえられました。
「父と同じことをするつもりだった。名が入らないなら、取らない。流れれば、また組み直せる。父はそう考えて、私もそう考えた」
「三月前に、何がございましたか」
「君が組み始めた」
わたくしは、顔を上げました。
「席次表を見たとき、これは武器だと言った。あれは褒めたのではない」公爵は言いました。「あの表を作る人間がいる式は、流せないと思った」
「……なぜでございますか」
「流れた式は、無かったことになる。無かったことになれば、あの表も無かったことになる」
公爵は、写しを箱に戻されました。
「父は、流せば組み直せると思っていた。組み直すのは誰だ。組む人間が要る。二十年、いなかった」
わたくしは、そこで一つ、分かりました。
二十年、来なかったのは、待つ人がいなかったからではありません。
組む人が、いなかったからです。
母は、この式のあとで王宮を辞めています。辞めた理由を、わたくしは知りません。
「花嫁の欄は、まだ空でございます」
「そうだ」
「書面が出れば、指名になります。名は入りません」
「入らん」
「では、二十年前と同じでございます」
「同じだ」
公爵は、箱の蓋を閉められました。
「だから、変えるなら、六日のうちだ」
わたくしは、束を抱えました。三十一項が解けていません。それに加えて、別紙の書き方まで変えなければならない。
どちらも、式次第の外にあります。
――外にあるものは、動かせません。
三月のあいだ、そう思ってきました。
思ってきたのですが。
わたくしは、宿の応接で、少し長く立っておりました。
「セラフィーナ殿」
「はい」
「顔つきが変わった」
「……一つ、思い当たりました」
「言え」
「まだ形になっておりません。形にしてから、申し上げます」
公爵は、少し笑われました。
「では、待とう」
わたくしは礼をして、宿を出ました。外は暮れておりました。王宮までは、歩いて半刻です。
歩きながら、頭の中で一つの言葉を繰り返しておりました。
――式次第は、式のことしか書かない。
二十年前、母の覚書にあった言葉ではありません。わたくしが自分で、何度も思ったことです。
ですが、式次第に何を書いてよいかを決めるのは、誰でしょう。
儀礼書には、書いてはならないものの定めがありません。
定めが無いものは、禁じられていません。
次は、式次第の空きに一行を書き足します。




