第21話 署名されなかった条約
王姉宮へ、面会を願い出ました。
式典官が王族に面会を願う道は、あります。式に関する事項について、参列者へ確認を求める形です。儀礼書の面会の部にございます。使ったことのある式典官が、六十年でどれだけいるかは分かりません。
願い出て、二日待ちました。三日目の朝に、返事が来ました。
――本日、午後。宮ではなく、大聖堂にて。
大聖堂へ行きました。王姉殿下は、最前列におられました。稽古の日と同じ席です。
わたくしは、通路の途中で礼をしました。
「参上いたしました」
「座りなさい」
「恐れ入ります」
「立たれると首が疲れるの」
わたくしは、一列後ろの席に座りました。
「確認とは、何かしら」
「二十年前の調印式について、伺います」
「昨日話したわ」
「もう一度、伺います」
王姉殿下は、内陣のほうを見ておられました。燭台に火は入っていません。
「どうぞ」
わたくしは、束を膝の上に置きました。
「二十年前の式次第を組んだのは、マルグリット・ヴェルニエでございます。わたくしの母でございます」
「知っているわ」
その返事は、早すぎました。考えて答えた形ではありません。もともと知っておられたのです。
わたくしは、母が六つの階層すべてに直しを入れていたこと、署名の項も全権を替えることで解いていたこと、それでも条約が結ばれなかったことを順に申し上げました。王姉殿下は、そのどれにも「ええ」とだけ仰いました。
覚書を出しました。三枚目まで。三枚目の途中で切れていること、四枚目には殿下が記録倉庫へお越しになったことが書かれていたはずであること、その一枚が綴じ目から切り取られていることを申し上げました。
王姉殿下は、覚書をご覧になりませんでした。ご覧にならずに、二度、そう、と仰いました。
「切り取られたのは、殿下でございますね」
大聖堂の中は、静かでした。王姉殿下は、しばらく何も仰いませんでした。
「……ヴェルニエ殿」
「はい」
「あなた、それを訊いてどうするの」
「どうもいたしません」
「では、なぜ訊くの」
「式次第を組む者は、その式に何があったかを記録に残します。二十年前の記録が欠けております。欠けたままにできませんので」
王姉殿下は、そこで初めてこちらをご覧になりました。
「記録のために訊いているの」
「はい」
「わたくしを咎めるためではなく」
「咎める道は、規程にございません」
その方は、少し目を細められました。
「調べたのね」
「調べました」
「無いと分かって、それでも来たの」
「はい」
王姉殿下は、内陣のほうへ向き直られました。
「切り取ったのは、わたくしよ」
わたくしは、束を持ち直しました。
「四枚目に、何が書かれておりましたか」
「わたくしが、記録倉庫で何をしたか」
「何を、なさいましたか」
その方は、膝の上で手を組まれました。
「供応の部を、書き写した。それから、写本を全部出させて、同じ二頁を切り取った」
「十一冊すべてでございます」
「数えたの」
「数えました」
「そう」
王姉殿下は、少しだけ笑われたようでした。笑ったというより、息を吐いた形です。
「二日かかったわ。誰も来ない部屋だから、誰にも見られなかった」
「なぜ、写しを残されたのですか」
その問いには、すぐにお答えになりませんでした。燭台のほうを、しばらくご覧になっていました。
「……消したかったのよ」
「はい」
「消したかったけれど、消し切ると、あの人が正しかったことになる」
わたくしは、そこで手が止まりました。
「あの人、と申しますと」
「先代のグラナート公爵」
王姉殿下は、内陣を見たまま仰いました。
「あの人は、署名しなかった。理由を書いて、わたくしに渡して、出て行った」
「書簡でございますね」
「持っているわ。二十年」
「中身を、伺えますか」
「読んでいないもの」
わたくしは、顔を上げました。
「読んでいらっしゃらないのですか」
「読んでいないわ。封を切っていないの」
その方は、両手を膝の上で組み直されました。
「二十年前、あの人が出て行ったあと、わたくしはこの席に座ったままだった。閉式まで。誰も来なかったわ。誰も、何も言いに来なかった」
「はい」
「その夜、書簡を受け取ったの。従者が置いていった。封蝋に公爵家の紋があった」
「開けられなかったのですか」
「開けたら、理由が分かるでしょう」
王姉殿下は、そこで初めて、声の調子を変えられました。
「理由が分かったら、納得してしまう」
わたくしは、その言葉を、しばらく飲み込めませんでした。
「納得したくなかったのよ」その方は仰いました。「納得したら、終わるもの。終わらせたくなかった」
「二十年」
「二十年」
大聖堂の高いところに、鳩が入っていました。羽の音が、石に反響しました。
「翌日、記録倉庫へ行ったわ」王姉殿下は仰いました。「あそこには、あの式の全部が入る。式次第も、席次も、名簿も、覚書も。全部が『無かったこと』として棚に入る」
「入りました」
「だから、削ったの。式が円滑に進むための条文を、消した。次に誰かが同じ式を組もうとしたとき、円滑に進まないように」
「なぜ、そこまで」
「あの式が成立したら、二十年前のあれは、ただの一回の失敗になるでしょう」
その方は、こちらをご覧になりませんでした。
「一回の失敗になったら、わたくしの二十年は何なの」
わたくしは、答えられませんでした。
「写しを残したのは」王姉殿下は仰いました。「……分からないわ。あのときは、自分でも分からなかった。消し切るのが怖かったのかもしれない」
「余白に、一行ございました」
「一行」
「『これを見つけた人へ』と」
王姉殿下の手が、動きました。
「……書いたかしら」
「書いておられます。その先は、ございません」
その方は、しばらく黙っておられました。
「書きかけて、やめたのね」
「はい」
「何を書こうとしたのかしら」
それは、わたくしに訊いておられるのではありませんでした。
鳩が、また羽ばたきました。
王姉殿下は、立ち上がられました。
「ヴェルニエ殿」
「はい」
「あなたを記録倉庫へ回したのは、わたくしよ」
「存じております」
「知っていたの」
「辞令に、殿下の副印がございました」
「そう。掠れていたでしょう」
「三日かけて、輪郭を取りました」
その方は、通路へ出られました。
「なぜ回したか、訊かないの」
「伺います」
「訊きなさい」
「なぜ、記録倉庫へ回されたのですか」
王姉殿下は、扉のほうへ歩き出されました。歩きながら、仰いました。
「あそこに、写しがあるからよ」
わたくしは、席を立てませんでした。
「二十年、誰も行かなかったわ。式典官を一人置けば、棚を見る。棚を見れば、いつか見つける」
「見つけて、どうなりますか」
「知らないわ」
その方は、扉の前で止まられました。
「わたくしが知りたかったのは、そこよ。見つけた人が、どうするのか」
振り向かれました。
「あなたは、どうするの」
わたくしは、立ち上がりました。立ち上がっても、すぐには答えられませんでした。答えが二つあって、どちらを先に言うべきか分からなかったからです。
一つは、式典官としての答え。九日後の式を成立させ、六つ目を塞いで、両国の全権に筆を取らせる。それが職務でした。
もう一つは、そうではない答えでした。
――納得したくなかったのよ。
その一言を、自分の中に置いてみました。置いてみて、分かることがありました。わたくしも三月のあいだ、自分の名が花嫁の欄にあることを一度も考えていません。式次第が四十二項あったからです。四十二項あるあいだは、考えなくて済みます。
考えなければ、終わりません。終わらせないために数えていたのかもしれません。
大聖堂の高いところで、鳩がもう一度羽ばたきました。その音が消えるまで待ちました。
「殿下」
「なに」
「二十年前の記録に、欠けている一枚がございます」
「切ったのはわたくしよ」
「はい。ですので、書き直します」
王姉殿下は、扉のところで動かれませんでした。
「書き直す」
「はい。切り取られた一枚に何が書かれていたかを、本日伺いました。伺ったことを、四枚目として書いて、綴じます」
「わたくしがしたことを、記録に残すの」
「残します」
「咎める道は無いと言ったでしょう」
「咎めません。記録します」
わたくしは、束を持ち直しました。
「咎めるのは、その記録を読んだ誰かの仕事でございます。二十年後かもしれませんし、誰も読まないかもしれません。読まれるかどうかは、わたくしの仕事ではございません」
「……ずいぶんな言い方ね」
「恐れ入ります」
王姉殿下は、しばらくこちらをご覧になっていました。
「それが、見つけた人のすることなの」
「わたくしのすることでございます」
その方は、何も仰いませんでした。仰らずに、扉を押して出て行かれました。
わたくしは、誰もいない大聖堂に一人で立っておりました。
燭台に火は入っていません。九日後には入ります。入れば、最前列から内陣は見えなくなります。
二十年前、この方には、見えていたのです。
次は、先代公爵が残した書簡の写しを読みます。




