第20話 二十年前の式次第
二十年前の調印式の式次第は、記録倉庫にあります。最初の週に見つけていました。表題が同じでしたので、すぐに出てきました。
ただ、そのときは表題しか見ていません。組まれかけて結ばれなかった、という事実だけを取って、棚に戻しました。
十日前の夜、それをもう一度出しました。
束は厚いものでした。式次第が四十四項。当時は今より二項多い形です。席次図、招待名簿、進行の控え。
一枚ずつ読みました。
よく組んでありました。
組んだ人の名は、いちばん最後の頁にあります。
――王宮儀典課次席 マルグリット・ヴェルニエ
母でした。
わたくしは、その名をしばらく見ておりました。
母が二十年前に王宮にいたことは、知っています。式典官だったことも知っています。ただ、どの式を組んだかは、聞いたことがありませんでした。
母は、仕事の話をしない人でした。白墨と、二重線の作法だけを、わたくしに渡しました。
束をめくり直しました。余白に、二重線が引いてあります。何箇所も。消さずに、上から正しいほうを書く形で。
――同じ作法です。
当たり前です。教わったのですから。当たり前なのですが、紙の上で見るのは初めてでした。
わたくしは、その二重線の一つ一つを読みました。
直した箇所は、二十七ありました。
席次が五。旗が二。服制が三。時刻が四。供応が六。署名が一。
――六つの階層です。
全部に、直しが入っています。
母も、数えていました。二十年前に、同じ六つを、同じ順で潰しています。
わたくしは、束を抱えたまま、しばらく動けませんでした。
供応の直しを見ました。六箇所です。目録の条文を引いて、禁忌食材を外した形跡があります。
――母は、条文を使えていたのです。
二頁は、まだ切り取られていませんでした。切り取られたのは、この式のあとです。
署名の直しを見ました。一箇所です。三十九項。当時の署名の項です。
余白に、二重線。上に書き足された字は、こうでした。
――王国側全権を、外務卿より宮内卿へ変更。格を揃えるため。
母は、格の問題に気づいていました。気づいて、全権を替えることで解いています。わたくしが今、解けずにいる問題を、二十年前に母は解いていました。
――解いて、それでも結ばれなかった。
六つ全部を潰して、当日、全員が座って、それでも先代の公爵は筆を取らなかった。
わたくしは、束の残りを読みました。
最後の三枚は、式次第ではありませんでした。母の手で書かれた覚書です。日付は、調印式の翌日。
――本日、条約は成立せず。式次第に瑕疵なし。進行に遅滞なし。全権の格、揃う。
――グラナート公爵、署名せず。理由、聞かず。
――王姉殿下、閉式まで御着席。退出後、記録倉庫へお越しになり、二十年前の……
そこで、切れていました。
三枚目の途中で、頁が終わっています。四枚目が、ありません。綴じ糸の跡が、一枚分余っていました。
わたくしは、その綴じ目を見ました。
刃の跡です。薄くて、丁寧な。
――一枚だけ。
台帳は三行。儀礼書は二頁。仕入れ帳は三行。そして、母の覚書は一枚。
同じ人が、同じ刃で、二十年のあいだに四回削っています。
削られた一枚に、何が書いてあったのか。
書いてあったのは、王姉殿下が記録倉庫へ来られたときの話です。二十年前の、条約が流れた翌日に。
――記録倉庫へ、何をしにいらしたのでしょう。
わたくしは、いちばん古い段へ行きました。表紙の無い束。二十年前の写し。その隣に挟んだ、わたくしの七枚。
写しを出しました。供応の部の二頁を、手で書き写したもの。小さくて、丁寧で、行が定規で引いたようにまっすぐな字。
わたくしは、それを母の覚書の隣に並べました。
筆跡が、違います。
母の字は、もっと大きくて、走ります。
写しの字は、王姉殿下の字です。辞令の副印の脇と、通達と、招待名簿に書き足された行と、同じ。
――王姉殿下が、写された。
条約が流れた翌日、記録倉庫へ来られて、供応の部の二頁を書き写された。
それから、条文のほうを十一冊すべてから切り取られた。
消して、残した。
同じ日に、両方を。
わたくしは、その二枚を前にして、座り込みました。埃が、高い窓の光の中で動いています。夜ですので、光はありません。灯りの周りだけ、埃が見えました。
――なぜ、両方をなさったのでしょう。
消したい理由は、分かります。供応の条文が生きていれば、次の式で目録が使われます。使われれば、式は円滑に進みます。
進ませたくなかったのです。
では、残した理由は。
わたくしは、灯りを近づけて、写しの余白を見ました。
余白に、何も書いてありません。二重線もありません。
ただ、いちばん下に、一行だけありました。
墨の色が違います。あとから足されたものです。
――これを見つけた人へ。
その先が、ありませんでした。
書きかけて、やめておられます。
わたくしは、その一行を長いこと見ておりました。
二十年間、誰も見つけませんでした。見つけられる場所ではありません。決まりを破った人の置き土産だけが積んである、いちばん古い段です。
見つけたのは、わたくしです。置き場に回されて、うれしくなって、棚を一段ずつ見ていったからです。
――回されなければ、見つけていません。
回したのは、王姉殿下です。
わたくしは、そのことを、そのとき初めて、別の向きから考えました。
この方は、わたくしをここへ置きました。
置いた場所に、二十年前の写しがありました。
偶然でしょうか。
偶然かもしれません。偶然でないかもしれません。
どちらであるかを確かめる道は、一つだけありました。
――お訊きすることです。
わたくしは、母の覚書と、写しと、七枚を束ねました。
朝になって、厨房へ行きました。
「……で、何時だ」
「九日でございます。バティスト殿、一つ伺います」
「言え」
「二十年前、マルグリット・ヴェルニエという式典官をご存じでしたか」
彼は、木べらを鍋に置きました。
「知ってる」
わたくしは、思わず卓に手をつきました。
「ご存じでしたか」
「厨房に来る式典官は、二十年で二人しかおらん。一人はあんただ」
「もう一人が」
「あの人だ。献立の相談に来た。うちの前の厨房長のときだ」
「何を、話しておられましたか」
「覚えとらん。二十年前だぞ」バティスト殿は言いました。「ただ、一つだけ覚えてる」
「はい」
「読み上げてった」
わたくしは、息を止めました。
「紙を持ってきて、うちの厨房長に読んで聞かせた。前の厨房長も、字が読めなかったからな」
「……そうでしたか」
「あんたと同じことをした」
彼は木べらを取りました。
「あんた、あの人の娘か」
「はい」
「そうか」
鍋の縁を、一度叩かれました。
「似てねえな」
「よく言われます」
「顔じゃねえ。読み方だ。あの人は速かった」
「母は、せっかちでしたので」
バティスト殿は、少し笑われました。
わたくしは礼をして、厨房を出ました。
式まで、あと九日でした。
次は、王姉宮へ面会を願い出ます。




