第19話 最前列の客
式の十日前に、通しの稽古をします。参列者は出ません。役の代わりに、儀典課と近衛と厨房の者が立って、式次第どおりに動きます。動線が詰まる場所と、時間の伸びる場所を見つけるための稽古です。
大聖堂の扉を開けたのは、朝の六の刻でした。
最前列に、人が座っておられました。背の高い女性です。髪をきつく結い上げて、装身具はほとんど着けておられません。渡り廊下ですれ違った方でした。
わたくしは、扉のところで足を止めました。近衛の一人が、小声で言いました。
「王姉殿下です」
「稽古は、参列者の方はご遠慮いただいております」
「……申し上げましたか、と訊かれますと」
「申し上げていない、ということですね」
「申し上げられません」
そうでしょう。誰も、王族に退去を求められません。
わたくしは、大聖堂の中へ入りました。稽古は、始めなければなりません。式次第は十日後に動きます。今日動かさなければ、当日いきなり動かすことになります。
最前列の前を通るとき、わたくしは礼をしました。その方は、こちらをご覧になりました。
「あなたが組んだの」
初めて、声を聞きました。低い、静かな声でした。
「王宮儀典課次席、セラフィーナ・ヴェルニエと申します」
「訊いたのは名前ではないわ」
「……はい。わたくしが組みました」
「そう」
それだけでした。
わたくしは礼をして、内陣のほうへ行きました。
稽古は三刻続きました。動線が二箇所詰まりました。給仕の通路と、聖職者の退出です。どちらも書き直せば済みます。
その三刻のあいだ、王姉殿下はずっと最前列に座っておられました。立たれもせず、何も仰らず、ただご覧になっておりました。
燭台に火が入ったとき、少しだけ、身じろぎをなさいました。
――火が見えているのです。
わたくしが三本寄せた燭台です。
稽古が終わって、人が引けたあと、その方はまだそこにおられました。わたくしは、式次第を抱えて、通路を戻りました。最前列の横を通るとき、呼び止められました。
「燭台」
「はい」
「二十年前は、あそこに無かったわ」
わたくしは、足を止めました。
「六十年前に据えられたものでございます。位置を三本、中央へ寄せました」
「ええ。だから、二十年前は、あそこに無かったの」
その方は、内陣をご覧になったままでした。
「二十年前、わたくしはこの席に座っていたのよ。もう少し前だったかしら。席は、あなたの図面のとおりなら、三列前ね」
わたくしは、答えられませんでした。
「あのときは、火が見えなかった。内陣がよく見えたわ。祭壇も、聖障も、署名する卓も」
「……署名の卓も、ご覧になりましたか」
「見たわ」
その方は、そこで初めてこちらをご覧になりました。
「誰も署名しなかったけれど」
わたくしは、式次第を持ち直しました。
「王姉殿下」
「なに」
「二十年前の調印式は、当日まで進んだのでございますか」
「進んだわ。全部組み上がって、当日、全員がここに座った」
「では、なぜ」
「先代のグラナート公爵が、筆を取らなかったの」
大聖堂の中は、静かでした。人が引けたあとの石の建物は、声がよく通ります。
「理由は、仰いましたか」
「一言も」
その方は、膝の上で手を組んでおられました。
「何も言わずに立って、出て行ったわ。それで終わり。あの人は次の年に亡くなって、今の公爵が継いだ」
「二十年前の条約には、婚姻条項がございましたか」
王姉殿下の手が、少し動きました。
「ええ」
「当事者は」
「グラナート公爵と、王国の王姉」
わたくしは、そこで、はっきりと分かりました。
紋を定めた年。宮を構えた年。二十年、何も出しておられない宮。
全部、その日から止まっています。
「……お答えいただき、ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いはないわ」
その言い方は、どこかで聞いたことがありました。
王姉殿下は、立ち上がられました。
「ヴェルニエ殿」
「はい」
「あなたの式次第は、よく組んである」
「恐れ入ります」
「席次も、旗も、服制も、時刻も、献立も。全部、直したのでしょう」
わたくしは、答えませんでした。
「答えなくていいわ。直したものだけ、わたくしには分かるの」
その方は、通路を歩き出されました。三歩ほど行って、止まられました。
「あと一つ残っているわね」
「……はい」
「それは直せないわよ」
振り向かれませんでした。
「二十年前も、そこで止まったのだから」
王姉殿下は、大聖堂を出て行かれました。わたくしは、しばらく通路に立っておりました。
式次第を開いて、三十一項を見ました。
署名の順。
二十年前も、そこで止まった。
――止まったのではありません。
止めたのです。先代の公爵が、筆を取らないことによって。
その日の夕方、宿へ使いを出しました。オデット殿は、半刻で来られました。
「稽古はどうだったの」
「動線が二箇所。書き直します」
「それで呼んだの」
「いいえ」
わたくしは、卓に三十一項を置きました。
「オデット殿。二十年前、先代の公爵は、なぜ筆を取られなかったのですか」
彼女は、しばらく黙っておられました。それから、椅子に座られました。座り方が、いつもと違いました。
「……知っているのは、うちで三人よ」
「伺えますか」
「今の公爵と、私と、あともう一人」
「もう一人は」
「先代の書簡を持っている人」
オデット殿は、手袋を外されました。
「書簡は、王国にあるわ」
「王国のどなたが」
「王姉殿下よ」
わたくしは、その名を、今日二度目に聞きました。
「先代は、署名しなかった理由を書簡に書いて、王姉殿下に渡した。渡してから王宮を出た。うちの記録には、そこまでしか残っていないの」
「中身は」
「誰も読んでいないわ。王姉殿下以外は」
彼女は、卓の三十一項を指で押さえました。
「ヴェルニエ殿。あなたが今、いちばん知りたいのは、たぶん署名の順の直し方でしょう」
「はい」
「私が知りたいのは、二十年前の理由よ」
オデット殿は、こちらを見ました。
「同じところに行き着くと思うわ」
「はい」
「一月しかないけれど」
「十日でございます」
「そうだったわね」
彼女は、少しだけ笑われました。わたくしも、たぶん少し笑いました。笑ったのは、この三月で二度目でした。
オデット殿が帰られたあと、わたくしは稽古の記録を書きました。動線が詰まった二箇所と、時間の伸びた一箇所。書き直す項を並べて、明日の朝いちばんで印刷所へ入れる分と、当日の口頭指示で足りる分を分けました。
書きながら、最前列のことを考えていました。
あの方は、三刻のあいだ、一度も立たれませんでした。稽古です。参列者のいない、役の代わりの者が歩くだけの稽古を、三刻。
――何をご覧になっていたのでしょう。
式次第です。たぶん、それしかありません。
二十年前に一度、最後まで組み上がった式を見た方が、二十年後にもう一度、同じ表題の式が組み上がるのを見ておられました。
わたくしは筆を置いて、灯りを吹き消しました。
式まで、あと十日でした。
次は、二十年前の式次第を棚から出します。




