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婚約解消された王宮式典官ですが、花嫁の欄に私の名が書いてあります――隣国との条約調印式、謹んでお受けします  作者: 望月すずね


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19/21

第19話 最前列の客

 式の十日前に、通しの稽古をします。参列者は出ません。役の代わりに、儀典課と近衛と厨房の者が立って、式次第どおりに動きます。動線が詰まる場所と、時間の伸びる場所を見つけるための稽古です。


 大聖堂の扉を開けたのは、朝の六の刻でした。


 最前列に、人が座っておられました。背の高い女性です。髪をきつく結い上げて、装身具はほとんど着けておられません。渡り廊下ですれ違った方でした。


 わたくしは、扉のところで足を止めました。近衛の一人が、小声で言いました。


「王姉殿下です」


「稽古は、参列者の方はご遠慮いただいております」


「……申し上げましたか、と訊かれますと」


「申し上げていない、ということですね」


「申し上げられません」


 そうでしょう。誰も、王族に退去を求められません。


 わたくしは、大聖堂の中へ入りました。稽古は、始めなければなりません。式次第は十日後に動きます。今日動かさなければ、当日いきなり動かすことになります。


 最前列の前を通るとき、わたくしは礼をしました。その方は、こちらをご覧になりました。


「あなたが組んだの」


 初めて、声を聞きました。低い、静かな声でした。


「王宮儀典課次席、セラフィーナ・ヴェルニエと申します」


「訊いたのは名前ではないわ」


「……はい。わたくしが組みました」


「そう」


 それだけでした。


 わたくしは礼をして、内陣のほうへ行きました。


 稽古は三刻続きました。動線が二箇所詰まりました。給仕の通路と、聖職者の退出です。どちらも書き直せば済みます。


 その三刻のあいだ、王姉殿下はずっと最前列に座っておられました。立たれもせず、何も仰らず、ただご覧になっておりました。


 燭台に火が入ったとき、少しだけ、身じろぎをなさいました。


 ――火が見えているのです。


 わたくしが三本寄せた燭台です。


 稽古が終わって、人が引けたあと、その方はまだそこにおられました。わたくしは、式次第を抱えて、通路を戻りました。最前列の横を通るとき、呼び止められました。


「燭台」


「はい」


「二十年前は、あそこに無かったわ」


 わたくしは、足を止めました。


「六十年前に据えられたものでございます。位置を三本、中央へ寄せました」


「ええ。だから、二十年前は、あそこに無かったの」


 その方は、内陣をご覧になったままでした。


「二十年前、わたくしはこの席に座っていたのよ。もう少し前だったかしら。席は、あなたの図面のとおりなら、三列前ね」


 わたくしは、答えられませんでした。


「あのときは、火が見えなかった。内陣がよく見えたわ。祭壇も、聖障も、署名する卓も」


「……署名の卓も、ご覧になりましたか」


「見たわ」


 その方は、そこで初めてこちらをご覧になりました。


「誰も署名しなかったけれど」


 わたくしは、式次第を持ち直しました。


「王姉殿下」


「なに」


「二十年前の調印式は、当日まで進んだのでございますか」


「進んだわ。全部組み上がって、当日、全員がここに座った」


「では、なぜ」


「先代のグラナート公爵が、筆を取らなかったの」


 大聖堂の中は、静かでした。人が引けたあとの石の建物は、声がよく通ります。


「理由は、仰いましたか」


「一言も」


 その方は、膝の上で手を組んでおられました。


「何も言わずに立って、出て行ったわ。それで終わり。あの人は次の年に亡くなって、今の公爵が継いだ」


「二十年前の条約には、婚姻条項がございましたか」


 王姉殿下の手が、少し動きました。


「ええ」


「当事者は」


「グラナート公爵と、王国の王姉」


 わたくしは、そこで、はっきりと分かりました。


 紋を定めた年。宮を構えた年。二十年、何も出しておられない宮。


 全部、その日から止まっています。


「……お答えいただき、ありがとうございます」


「礼を言われる筋合いはないわ」


 その言い方は、どこかで聞いたことがありました。


 王姉殿下は、立ち上がられました。


「ヴェルニエ殿」


「はい」


「あなたの式次第は、よく組んである」


「恐れ入ります」


「席次も、旗も、服制も、時刻も、献立も。全部、直したのでしょう」


 わたくしは、答えませんでした。


「答えなくていいわ。直したものだけ、わたくしには分かるの」


 その方は、通路を歩き出されました。三歩ほど行って、止まられました。


「あと一つ残っているわね」


「……はい」


「それは直せないわよ」


 振り向かれませんでした。


「二十年前も、そこで止まったのだから」


 王姉殿下は、大聖堂を出て行かれました。わたくしは、しばらく通路に立っておりました。


 式次第を開いて、三十一項を見ました。


 署名の順。


 二十年前も、そこで止まった。


 ――止まったのではありません。


 止めたのです。先代の公爵が、筆を取らないことによって。


 その日の夕方、宿へ使いを出しました。オデット殿は、半刻で来られました。


「稽古はどうだったの」


「動線が二箇所。書き直します」


「それで呼んだの」


「いいえ」


 わたくしは、卓に三十一項を置きました。


「オデット殿。二十年前、先代の公爵は、なぜ筆を取られなかったのですか」


 彼女は、しばらく黙っておられました。それから、椅子に座られました。座り方が、いつもと違いました。


「……知っているのは、うちで三人よ」


「伺えますか」


「今の公爵と、私と、あともう一人」


「もう一人は」


「先代の書簡を持っている人」


 オデット殿は、手袋を外されました。


「書簡は、王国にあるわ」


「王国のどなたが」


「王姉殿下よ」


 わたくしは、その名を、今日二度目に聞きました。


「先代は、署名しなかった理由を書簡に書いて、王姉殿下に渡した。渡してから王宮を出た。うちの記録には、そこまでしか残っていないの」


「中身は」


「誰も読んでいないわ。王姉殿下以外は」


 彼女は、卓の三十一項を指で押さえました。


「ヴェルニエ殿。あなたが今、いちばん知りたいのは、たぶん署名の順の直し方でしょう」


「はい」


「私が知りたいのは、二十年前の理由よ」


 オデット殿は、こちらを見ました。


「同じところに行き着くと思うわ」


「はい」


「一月しかないけれど」


「十日でございます」


「そうだったわね」


 彼女は、少しだけ笑われました。わたくしも、たぶん少し笑いました。笑ったのは、この三月で二度目でした。


 オデット殿が帰られたあと、わたくしは稽古の記録を書きました。動線が詰まった二箇所と、時間の伸びた一箇所。書き直す項を並べて、明日の朝いちばんで印刷所へ入れる分と、当日の口頭指示で足りる分を分けました。


 書きながら、最前列のことを考えていました。


 あの方は、三刻のあいだ、一度も立たれませんでした。稽古です。参列者のいない、役の代わりの者が歩くだけの稽古を、三刻。


 ――何をご覧になっていたのでしょう。


 式次第です。たぶん、それしかありません。


 二十年前に一度、最後まで組み上がった式を見た方が、二十年後にもう一度、同じ表題の式が組み上がるのを見ておられました。


 わたくしは筆を置いて、灯りを吹き消しました。


 式まで、あと十日でした。

次は、二十年前の式次第を棚から出します。

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