第18話 オデットの弱点
四度目に読んで、出ました。
――署名の順は、締約両国の元首の格に従う。格が同等の場合は、開催国を後とする。
元首の格。
王国の元首は国王です。グラナートの元首は公爵です。ですが、条約に署名するのは元首とは限りません。第四十一項には「両国全権」と書いてあります。全権は、元首が任じます。
王国側の全権は、外務卿でした。
グラナート側の全権は、公爵ご自身でした。
――噛み合っておりません。
外務卿と公爵では、格が違います。公爵のほうが上です。条文は「元首の格に従う」と言っています。元首の格なら王国が先です。ですが、署名する人の格で見れば、グラナートが先になります。
どちらで読むかで、順が入れ替わります。
儀礼書は、そこを書き分けていません。六十年、書き分ける必要が無かったからです。全権に元首でない者を立てる場合、格を揃えるのが慣行でした。慣行は書かれません。
――書かれていないものは、消せません。
消せませんが、使えます。
当日、両国の全権が調印卓に着いたとき、どちらが先に筆を取るかで一瞬の間ができます。その間に、どちらかが先に取れば、それが順になります。
王国の外務卿が先に取れば、グラナート側は「公爵より格下が先に署名した」と受け取ります。
公爵が先に取れば、王国側は「開催国の全権より客が先に署名した」と受け取ります。
どちらに転んでも、後から必ず揉めます。そして、揉めた記録は残ります。条約の署名順は、条約そのものに残るからです。
――六つ目です。
わたくしは、儀礼書の頁を押さえたまま、しばらく動きませんでした。
これは、消したのでも足したのでもありません。全権に誰を立てるかを決めただけです。王国の全権を外務卿にしたのは、宮内府の決裁です。三月前。
――ずいぶん、丁寧なことをなさる。
五度目に、そう思いました。
その週の終わりに、公爵が入られました。従者を二人だけ連れて、宿には入らず、まっすぐ大聖堂へ来られました。式次第の下見だと聞きました。
わたくしは、前庭で待ちました。
「ヴェルニエ殿」
「お待ちしておりました」
公爵は、前庭を見渡されました。天幕の柱の穴が、六つ開いています。三本目の柱の穴だけ、半歩下がっています。
「柱を下げたのか」
「はい」
「なるほど」
それだけで分かる方でした。
大聖堂の中を案内しました。燭台の位置も説明しました。公爵は内陣と参列席のあいだを二度往復して、最前列に座って、内陣を見上げられました。
「火が見えるな」
「はい」
「紫は見えない」
「はい」
公爵は、しばらくそのまま座っておられました。
「ヴェルニエ殿。署名の項は読んだか」
わたくしは、少し驚きました。
「読みました。四度読みました」
「四度」
「三度目までは、何も出ませんでした」
「四度目には」
「全権の格が、噛み合っておりません」
公爵は、こちらを向かれました。顔を見て、わたくしは、この方が答えを知っていらしたのだと分かりました。
「気づいたか」
「はい」
「うちの主席儀典官は、三月前に気づいた」
オデット殿です。三十一項を書き直して置いていかれたのは、そのときでした。
「オデット殿は、なぜわたくしにお教えにならなかったのですか」
「教えたら、君が直す」
「直します」
「直したものを、うちが受け取れるかどうかは別だ」
公爵は立ち上がりました。
「セラフィーナ殿。うちの国にも、この条約を潰したい者がいる」
わたくしは、オデット殿の言葉を思い出しました。
――私の国のものよ。
「主戦派か」
公爵は、その言葉を使ってから、首を振られました。
「いや。そう呼ぶのはやめよう。名前がある」
「はい」
「うちの財務長官だ。ヴァレンという。国境が閉じていた三年で、南回りの交易で財を成した男だ。国境が開けば、南回りは要らなくなる」
「その方が、条約を」
「潰したい。だが、うちの国内で潰すと、自分の名が残る。だから、王国側の瑕疵で流れてくれるのがいちばん都合がいい」
わたくしは、そこで一つ、繋がりました。
「オデット殿が、わたくしの式次第を叩かれたのは」
「穴を洗うためだ」公爵は言いました。「うちの財務長官は、王国側の瑕疵を探して待っている。見つければ、それを理由に調印を拒める。だからオデットは、先に全部洗い出したかった」
「叩けば、わたくしが直しますので」
「直せば、拒む理由が消える」
わたくしは、五枚の直しを思い出しました。角ばった字で、馬車の中で書かれたもの。二重線を引いて、消さずに残した形。
――庇っておられたのです。
叩きながら。
「では、三十一項だけ、書き直されなかったのは」
「あれは直せない」公爵は言いました。「儀礼書の定めだ。君が直すと、王国の儀礼書に違反する。違反すれば、それこそ瑕疵になる」
「では、どうなさるおつもりでしたか」
「うちが全権を替える。財務長官に気づかれる前に、私ではなく外務長官を立てる。格が揃えば、順は元首の格で読める」
「替えられますか」
公爵は、少し黙られました。
「替えられない」
「なぜですか」
「婚姻条項があるからだ」
わたくしは、息を止めました。
「第九条の別紙に、当事者はグラナート公爵と書いてある。婚姻を伴う条約は、婚姻の当事者が全権を務める慣行だ。私を外せば、婚姻条項ごと外すことになる」
公爵は、内陣のほうを見ておられました。
「婚姻条項を外せば、条約は通る。順の問題も消える」
「では」
「外さない」
わたくしは、なぜ、と訊きませんでした。訊けませんでした。
公爵は、そこで初めてわたくしのほうを向かれました。
「花嫁の欄は、見たか」
二度目に訊かれた問いでした。
「別紙に、欄はございませんでした。王国側の指名する者、とだけ」
「そうだ」
「王国側の指名は、調印の日までに書面で行うと」
「そうだ」
公爵は、大聖堂の扉のほうへ歩き出されました。扉のところで、振り向かれました。
「まだ、出ていない」
「はい」
「出るまでは、誰の名も入っていない」
その言い方が、少し妙でした。妙だと思ったのですが、そのときは、何が妙なのか分かりませんでした。
公爵が発たれたあと、わたくしは前庭に残りました。六つの柱穴を、順に見ていきました。三本目だけが半歩下がっています。
――婚姻条項を外せば、条約は通る。
そう仰いました。
外せば通るものを、外さない。外さない理由を、公爵は仰いませんでした。訊けばよかったのですが、訊けませんでした。
訊けなかったのは、答えが二つしか無いからです。
一つは、外せない事情があるということ。
もう一つは、外したくないということ。
どちらであっても、わたくしの仕事は変わりません。式を組んで、六つ目を塞ぎます。
――変わらないはずです。
わたくしは、そこでしばらく立っておりました。
オデット殿が仰いました。組む側と組まれる側は違う、と。あなたは今、両方にいる、と。
わたくしは、ずっと組む側で考えてきました。そのほうが速いからです。組まれる側で考えると、手が止まります。
止まっている場合ではありませんでした。一月しかありません。
記録倉庫へ戻って、卓の紙に、もう一行書き足しました。
――王国側の全権を、外務卿から替えられるか。
替えられるなら、格が揃います。替えるのは宮内府の決裁です。三月前に決めたものを、一月前に覆す理由が要ります。
理由を作るのが、わたくしの仕事でした。
次は、稽古の最前列に招かれざる客が座ります。




