第17話 手口の指紋
残るは署名です。
第四十一項と第四十二項。調印の署名について、二項あります。
――第四十一項 調印は、両国全権が、条約正本二通に署名して行う。
――第四十二項 署名の順は、儀礼書の定めによる。
二行です。式次第の四十二項のうち、この二つがいちばん短く書かれています。
儀礼書の定めによる、と書いて済ませてあるのは、定めがあるからです。定めがあるものを式次第に写す必要はありません。
わたくしは、儀礼書の署名の部を開きました。
――署名の順は、締約両国の元首の格に従う。格が同等の場合は、開催国を後とする。
王国は王国です。グラナートは公国です。格は、同等ではありません。王国が先で、グラナートが後になります。
これも、条文どおりです。どこにも穴がありません。三度読んで、何も出ませんでした。
――机から離れないと、見つからないもの。
自分で書いた一行を思い出しました。署名は、当日その場でしか動きません。当日にならないと分からないものを、どうやって今、見つけるのでしょう。
わたくしは、手口のほうから考えることにしました。
五つ、潰しています。
席次は、儀典長の朱として入りました。上から下へ、正式の手続きで。
旗は、書かれないことによって入りました。書かなければ当日に混乱する。
衣装は、招待名簿に四名足すことで入りました。服制の条文には触れずに。
時は、暦と定めの噛み合わせで入りました。誰も何もしていないのに、一刻半の空きができる。
口に入るものは、二十年前に条文を消し、三月前に版下と貯蔵に手を入れることで入りました。
五つとも、共通していることがあります。
――どれも、その人が現場にいません。
朱を入れたのはローランドです。名簿を足したのもローランドです。版下に手を入れたのは、儀典課の卓に置かれた一晩のあいだの誰かです。貯蔵に混ぜたのは、仕入れの日にいた誰かです。
仕込んだ人は、一度も現場にいません。現場にいないまま、六つ全部を置いています。
――では、署名は。
署名は当日、大聖堂の調印卓で行われます。その場にいなければ、手が出せません。
わたくしは、招待予定者の一覧を出しました。
王族三名。王姉殿下イゾルデ。
――いらっしゃいます。
六つのうち五つは、いない場所に仕込みました。六つ目だけ、ご自分がいらっしゃる場所です。それは、五つと違う手だということです。
わたくしは、その一行を紙に書きました。
――署名だけ、当人が来る。
書いてから、しばらく見ていました。
合同点検の続きが、翌週にありました。オデット殿は、前回とは違う束を持ってきました。条約の副本ではなく、グラナート側の式次第です。
「うちの側の進行を出すわ。突き合わせて」
二日かけて、突き合わせました。ほとんど噛み合いました。合同点検を三月前にやった効果です。
三十一項で、彼女の手が止まりました。
「ここ、あなたの案では署名は王国が先ね」
「はい。儀礼書の定めでございます」
「うちも同じ定めよ。格に従う」
「では、噛み合っております」
「噛み合っているわ」
オデット殿は、そこで束を閉じませんでした。
「ヴェルニエ殿。この項、変えられる?」
わたくしは、顔を上げました。
「変える、と申しますと」
「順を。うちが先になるように」
「儀礼書の定めがございます」
「知っているわ」
彼女は、指で卓を二度叩きました。前に見た仕草です。
「知っているけれど、訊いたの」
わたくしは、その意味を考えました。考えて、一つ思い当たりました。
「オデット殿。前回、五項を書き直してくださいました」
「そうね」
「七項、十一項、十九項、二十三項、三十一項でございます」
「覚えているのね」
「三十一項が、署名でございました」
オデット殿は、答えませんでした。
わたくしは、その五項を頭の中で並べ直しました。
旗。宿割。服制。乾杯。署名。
六つの階層のうち、四つと重なっています。彼女はわたくしと同じものを探しているのかもしれない、とあのとき思いました。思って、そのままにしていました。
「オデット殿は、何をお探しですか」
彼女は、しばらく黙っておられました。
「……あなた、そういうことを正面から訊くのね」
「訊かないと、分かりませんので」
「そうね」
彼女は束に手を置きました。
「私が探しているものは、あなたが探しているものと、たぶん同じ形をしているわ。ただ、私の国のものよ」
「グラナートにも、いらっしゃるのですか」
「いるわ」
それだけでした。彼女はそれ以上言わず、翌日、宿へ引き上げました。引き上げる前に、一つだけ置いていきました。
「ヴェルニエ殿。うちの公爵が、来週こちらへ入る」
「本使節団は、まだ一月先でございます」
「先に来るのよ。公爵だけ」
「なぜですか」
「知らないわ」
彼女は手袋をはめました。
「訊きなさい。あなたはそういう人でしょう」
わたくしは、記録倉庫へ戻りました。卓の紙に、もう一行書き足しました。
――署名だけ、当人が来る。
――そして、公爵も先に来る。
当日にならなければ動かないはずのものに、二人が早く近づいてきています。
その前に、厨房へ寄りました。
「……で、何時だ」
「一月後でございます。伺いたいことが」
「言え」
「二人の人間が、同じものを別々に探しているとき、どうやって見分けますか」
バティスト殿は、木べらを止めました。
「妙なことを訊くな」
「妙なことばかりで恐れ入ります」
「……厨房でいいなら、手つきだ」
「手つき」
「同じ塩を探してても、味を見に来た奴と、盗みに来た奴じゃ手つきが違う。味を見る奴は指を舐める。盗む奴は舐めん」
わたくしは、それを書き留めました。
「オデット殿は、舐めておられました」
「なんの話だ」
「式次第を叩かれたあと、直して置いていかれました。盗む方は、直しません」
「そりゃそうだ」
バティスト殿は鍋の縁を二度叩きました。
「じゃあ、あんたの敵じゃねえな」
「……はい」
厨房を出て、記録倉庫へ戻りました。わたくしは、儀礼書の署名の部を、もう一度開きました。
三度読んで何も出なかったのは、たぶん、条文だけを読んでいたからです。条文は、誰が使うかを書きません。書かないので、読んでも人が出てきません。
人を入れて読み直します。
当日、調印卓に着くのは誰か。両国の全権です。
全権が誰であるかは、条文には書いてありません。式次第にも書いてありません。決めるのは、王国側は宮内府、グラナート側は公国政庁です。
――式次第の外にあります。
式次第の外にあるものを、式典官は動かせません。動かせないものを、仕込む側は選びます。
わたくしは、そこまで書いて、筆を止めました。
三度読んで何も出なかった二行を、四度目に読みました。
次は、四度目に読んだ二行から出ます。




