第16話 王姉の名
一晩で、十九品を組み替えました。厨房の六人と、記録倉庫の卓を厨房へ運んで、そこで書きました。バティスト殿が品を決め、わたくしが目録と照合して、若い料理人が材料を数えます。
朝までに十七品が決まりました。残る二品は、そのまま出せる形に戻しました。版下は、朝のうちに印刷所へ入れました。
刷り上がった札を、わたくしは一枚ずつ確かめました。百四十枚です。三日かかりました。三日かけたのは、疑っていたからです。版下を入れてから刷り上がるまでのあいだに、また誰かが触れるかもしれません。
触れられていませんでした。
五つ目が、終わりました。
残るは署名です。
――ですが、その前に。
わたくしは、削られた三行のことを片付けなければなりませんでした。仕入れ帳の三行。台帳の三行。儀礼書の二頁。
全部、同じ刃です。
削れる人間は、王宮に何人もいません。台帳は記録倉庫にあり、仕入れ帳は厨房の帳場にあり、儀礼書の写本は記録倉庫にあります。
三つの場所へ、咎められずに入れる人。
王族です。
王族が入れない部屋は、王宮にありません。入っても、誰も止めません。止めたという記録も残りません。記録に残らない人間が、記録を削っています。
わたくしは、辞令を出しました。副印。円の中に、翼を広げていない鳥。王姉宮の紋。紋章記録の写しと、並べました。
同じです。
ここまでは、三月かけて分かったことです。分かっていて、わたくしはまだ、この名を紙に書いていませんでした。
書かなかった理由は、はっきりしています。
書けば、記録が残ります。
――王姉殿下イゾルデ。
筆を持って、紙に置いて、それでも書きませんでした。書いたところで、どうなるのか分かりません。式典官が王族を告発する道は、儀礼書のどこにもありません。無いものは使えません。
わたくしは筆を置いて、儀典課へ行きました。ユベールが、顔を上げました。
「セラフィーナ殿。札の件は」
「刷り上がりました。百四十枚、確認済みでございます」
「よかった。……よかった、と言っていいのか分かりませんが」
「よろしいと思います」
わたくしは、彼の前に座りました。
「ユベール殿。一つ伺います」
「はい」
「式典官が、式に関わる者の行いを咎める道は、規程のどこにございますか」
彼は、少し目を丸くしました。
「咎める、ですか」
「はい」
「……ありません」
「ございませんか」
「式典官は式を組む職です。人を裁く職ではありません」ユベールは言いました。「瑕疵を見つけたら、上に報告します。上が判断します」
「上が、その瑕疵を作った場合は」
彼は、答えませんでした。答えないまま、しばらく書き物の手を動かして、それから止めました。
「セラフィーナ殿。それは、儀典長のことではありませんね」
「儀典長は停職中でございます」
「……はい」
「では、儀典長の上は」
「儀典課の上は、宮内府です。宮内府の上は、宮内卿。宮内卿の上は」
彼は、そこで声を落としました。
「王家です」
わたくしは、うなずきました。
「道が、ございませんね」
「ありません」
ユベールは筆を置きました。
「セラフィーナ殿。三月前、私はあなたに、うちで組める者はいないと申し上げました」
「伺いました」
「あれは半分嘘です」
わたくしは、彼を見ました。
「組める者はいませんでした。それは本当です。ただ、あの式を誰にも回すなと、上から言われていました」
「どなたから」
「儀典長から。儀典長は、宮内府から言われたと言っていました」
「宮内府のどなたか、ご存じですか」
「存じません。ただ」
ユベールは、机の引き出しを開けました。一枚、紙を出しました。
「これを、三月前に受け取りました。捨てろと言われましたが、捨てませんでした」
わたくしは、それを受け取りました。儀典課への通達です。調印式の儀典設計について、担当を定めず、記録倉庫へ回付すべし、と書いてあります。
署名の欄に、儀典長印。
その左に、小さな副印。
円の中に、翼を広げていない鳥。
「……なぜ、捨てなかったのですか」
「怖かったからです」ユベールは言いました。「捨てろと言われたものを捨てると、あとで自分だけが困ります。そういう気がしました」
わたくしは、その紙を見ておりました。辞令。招待名簿。通達。三枚に、同じ副印があります。
台帳から削られた三人も、たぶん同じ通達を受け取ったのです。誰にも回すなと言われている式を回されて、組み始めて、途中で止められた。辞めた理由が台帳に書けなかったのは、辞めさせた人の名が書けなかったからでした。
「ユベール殿」
「はい」
「これを、お借りしてよろしいですか」
「差し上げます。私が持っていても、何にもなりません」
わたくしは、礼をしました。
「あなたが持っていたから、三月後に使えます」
ユベールは、変な顔をなさいました。
「使えますか。道は無いのでしょう」
「無い道は、作ります」
言ってから、自分でも驚きました。そんなことを言う人間ではなかったはずです。
記録倉庫へ戻って、卓に六枚を並べました。
辞令。招待名簿。二十年前の写し。紋の写し。目録。通達。
わたくしは筆を取って、紙を一枚引き寄せました。そして、初めて、その名を書きました。
――王姉殿下イゾルデ。
書いてから、余白に二重線を引きました。消さずに、残したまま。何をどう直したかが、後から読めるように。
その紙を、六枚の上に置きました。七枚になりました。
わたくしは、その七枚をどうするのかを、まだ決めておりませんでした。
告発の道はありません。式典官は人を裁きません。
ですが、式典官には、できることが一つあります。
――記録に残すこと。
式次第は、式が終われば記録倉庫へ入ります。六十年分の棚の、いちばん新しい段に。そこに何を書いておくかは、組んだ者が決めます。
誰が、どの階層に、何を仕込み、それを誰が、どう塞いだか。全部書いて、綴じて、棚に入れます。
二十年後、誰かが同じ表題の式を組むことになったとき、その人は棚からそれを出します。出せるようにしておくのが、わたくしの仕事です。
――削られなければ、ですが。
削る人が、まだ王宮にいらっしゃいます。
わたくしは七枚を束ねて、記録倉庫のいちばん古い段へ持って行きました。六十年より前のものを置かない決まりの段です。決まりを守らなかった人たちの置き土産が積んである場所です。
表紙の無い束の、二十年前の写しが挟んであったところ。その隣に、七枚を挟みました。
二十年前の方と、同じことをしています。
それが少しおかしくて、わたくしは埃の中で一人、笑いました。
笑ってから、少し寒くなりました。同じことをしている、というのは、同じ場所に立っているということです。
あの方は、二十年前にこの部屋へ来て、消して、残しました。わたくしは今この部屋にいて、記録に残そうとしています。向きが逆であるように見えて、やっていることの形が同じです。
――どこで分かれるのでしょう。
棚を見上げました。六十年分あります。
六十年のあいだに、この部屋へ来た式典官が何人いたのかは分かりません。並べ替えを三段目でやめた人。決まりを破って古いものを置いた人。名前は残っていません。
残っているのは、その人たちが触った跡だけです。
わたくしは、灯りを消して、扉を閉めました。
残るは署名です。次は、手口の指紋を読みます。




