第2話 誰も引き受けない式
翌朝、儀典課へ行きました。記録倉庫から儀典課までは、王宮の西端から東棟の三階まで、廊下を四つ抜けて階段を二つ上ります。片道で二百四十歩。婚約していた頃は、一日に六度往復しました。
扉を開けると、話し声が止みました。
「セラフィーナ殿」
次席の下に、三席がいます。名をユベールといって、わたくしより二つ下です。彼が最初に口を開いたのは、たぶん誰かが開かなければならなかったからでしょう。
「昨日、記録倉庫に木箱が三つ届きました。中身はグラナートとの条約調印式の式次第案です」わたくしは言いました。「差出人がありません。どなたが出されたか、お心当たりは」
誰も答えませんでした。七人います。全員、一昨日わたくしが婚約を解消される場に居合わせた顔です。
「整理のこと、と書いてありました」わたくしは続けました。「あれは廃棄の指示です。まだ使っていない式次第を廃棄する指示は、儀典課では出しません」
「……セラフィーナ殿」
ユベールが言いました。
「その式は、うちで組める者がおりません」
それは、答えでした。
「三月後です」彼は言いました。「三月後の第二週。場所は大聖堂と、隣の中庭。招待は両国合わせて百四十名。前例は二十年前に一度だけ。組める者が、おりません」
「儀典長は」
言ってから、訊くべきではなかったと思いました。ユベールは目を伏せました。
「儀典長は、大局を見ておられます」
用件は済みました。退出いたします。誰も引き止めませんでした。ユベールが一度だけ、何か言いかけて、やめたのが分かりました。
二百四十歩を戻る途中、階段の踊り場で足を止めます。組める者がおりません、というのは、正確な言い方です。嘘ではない。あの式は、たしかに難しい。
国と国の式は、片方の作法をもう片方に踏ませた瞬間に事故になります。両国の儀礼書を突き合わせて、どちらの顔も潰さない順を見つけるまでに、普通は半年かかります。
三月では足りません。足りないと分かっている仕事を、名前も書かずに置き場へ回した。誰かが失敗したときに、誰も責任を負わなくて済むように。
――ずいぶん丁寧なことをなさる。
記録倉庫へ戻ると、扉の前に、また何か置いてありました。今度は木箱ではありません。布をかけた盆です。布を取ると、器がありました。麦の粥に、塩漬けの豚が二切れ、それから林檎が半分。まだ湯気が立っています。
盆の縁に、指の太い手の跡が油で付いていました。顔を上げると、廊下の突き当たりを曲がっていく背中が見えました。厨房の前掛けです。
「あの」
背中が止まりました。振り向いたのは、五十がらみの男でした。赤ら顔で、腕が丸太のようです。
「……で、何時だ」
「は」
「昼だ。あんた昼をどこで食う気だった」
答えられませんでした。実際、考えていなかったのです。男は舌打ちをしています。
「王宮厨房のバティスト・オルネだ。西端に人が入ったと聞いた」
「セラフィーナ・ヴェルニエと申します。儀典課の――」
「知ってる」
彼は前掛けで手を拭きました。
「なぜ、わざわざ」
「冷めた飯を食う奴の仕事は冷める。それだけだ」
そう言って、彼は行ってしまいます。三歩ほど行って、止まりました。
「西端は北向きだ。冬は指がかじかむ。炭は自分で言え。言わん奴には誰も持って来ん」
それだけ言って、今度こそ行ってしまいました。
粥は塩が利いていました。塩漬けの豚は、脂の部分だけ先に外してあります。外してある理由は、少し考えて分かりました。脂は冷めると固まります。運ぶあいだに固まって、白く浮く。あれを見ると、たいていの人は箸が止まる。
止まらないように、先に外してあるのです。
冷めた飯を食う奴の仕事は冷める、と彼は言いました。冷める前提で、冷めても食えるように作ってある。誰にも言わずに、そういうことをする人がいます。言えばいいのに、と思ってから、自分もそうだと気づきました。
午後、台帳を出しました。記録倉庫には受付台帳があります。どの束が、いつ、誰の手から入ったかを一行ずつ書き付けるもので、六十年分あります。昨日の木箱三つも、わたくしが自分で書き入れました。
過去の調印式関係を探します。二十年前の分は、すぐに見つかりました。王国・グラナート公国 通商及び不戦条約 調印式。同じ表題です。二十年前に一度、同じ式が組まれかけている。
組まれかけて、結ばれなかったということでもあります。結ばれていれば、今また同じ表題の式を組む必要はありません。
その行の下に、三行、空白がありました。空白といっても、白紙ではありません。書いてあったものを、刃物で薄く削ってあります。紙の表面が毛羽立って、光を当てると窪んで見える。削り取ったあとに、上から何も書いていない。
三行です。台帳の書式では、一行が一件です。担当者の名と、受け取った日付と、返した日付。
三人。
わたくしは指で毛羽立ちをなぞりました。深さが三行とも同じです。同じ人が、同じ日に、三行まとめて削っている。
誰かが辞めたのなら、辞めたと書けばいいのです。病でも、異動でも、そう書けば済む。書けないものだけが、削られます。
窓の高いところで、光が落ちてきていました。埃がその中で動いています。昨日届いた三通りの案を出して、並べました。第八項まで。第十四項まで。第三項まで。筆跡が三つ。
三人が組み始めて、三人ともやめている。やめたのではなく、やめさせられたのだとしたら。
その三人がどうなったかを、台帳は書いていません。
――なぜ、書けなかったのでしょう。
削られた三行の上に、わたくしは自分の名を書き入れました。四行目です。セラフィーナ・ヴェルニエ。受け取り、本日。返却の欄は空けたままにしておきます。
筆を置いて、もう一度、三行の毛羽立ちを見ました。削った人は、この台帳を持ち出せる人です。記録倉庫の鍵を持っているか、鍵を持っている者に持って来させられる人。どちらにしても、儀典課の三席や四席にできることではありません。
そして、削るという手間をかけています。燃やしてしまえば早いのです。台帳ごと火にくべて、失われたことにすればいい。そうしなかったのは、台帳そのものは残さなければならなかったから。六十年分の記録が一冊消えれば、さすがに誰かが騒ぎます。
三行だけ消して、あとは残す。
――丁寧な人です。
わたくしは台帳を閉じて、棚に戻しました。窓の外は、もう暗くなっています。
三月後。百四十名。組める者がおりません。
組める者は、たぶん過去に三人おりました。
その三人が、どこへ行ったのかを、この部屋は書いていません。
次は、席次の話です。駒を一つ動かします。




