第1話 婚約解消の席次
婚約を解消された式典官が、誰も読まない式次第の一行で、隣国との条約の式を組み直していく話です。
ざまぁは静かに。叫ばない主人公が、席次と旗と献立で片をつけます。
歓迎晩餐の式次第は、二十四項からできています。
そのうち二十三項までは、誰も読みません。
「セラフィーナ。婚約は解消させてもらう」
儀典長ローランド・デュヴァルの声が、大広間の天井に一度ぶつかって降りてきました。居合わせた文官が七人。全員がわたくしを見て、それから目を逸らしました。わたくしは手元の式次第を見ておりました。第十一項、献花。第十二項、着席。第十三項――。
「聞いているのか」
「はい」
頁をめくる手は止めませんでした。
「恐れながら、第十三項に誤りがございます。三箇所」
「……何だと」
「乾杯の辞を、大使より先に儀典長が述べる順になっております。二度目です。前回は、わたくしが直しました」
ローランドの喉が動きました。婚約の解消を告げた男の顔から色が引いていくのを、わたくしは頁の上から見ておりました。
王宮儀典課。式典官という職につく者は、この国に十一人おります。そのうち次席がわたくし、セラフィーナ・ヴェルニエ。二十四歳。母から数えて二代目の式典官です。
仕事は式次第を組むこと。誰が、どの順で、どこに立ち、何を口にするかを、紙の上で決めること。うまく組めた式は、何事もなく終わります。誰の記憶にも残りません。それが成功です。
「話を逸らすな」
「逸らしておりません。第十三項のことです」
「私は婚約の話をしている」
「承りました」わたくしは頁を繰りました。「では第十三項は、どなたが直しますか」
文官の一人が咳払いをしました。ローランドは指先で卓の縁を二度叩きます。彼が言葉を探すときの癖です。二年の婚約期間で、四十七回数えました。
「……君は」
彼は言い直しています。
「君は、細かいところによく気がつく。だが、大局が見えていない」
そういうことになりました。大局というのは、たぶん、乾杯の辞の順番より大きくて、けれど誰にも数えられないもののことなのでしょう。
わたくしは第十三項に鉛筆で二重線を引き、余白に正しい順を書き込みます。二重線は母の作法です。消さずに、残したまま、上から正しいほうを書く。何をどう直したかが後から読めるように。誰も読まないとしても、そう教わりました。
束を卓の上に置いて、退出いたします。廊下に出てから、卓の縁を叩く音が四十八回目になったのを聞きました。
三日後、わたくしの配置が変わりました。辞令は一枚。行き先は王宮の西の端、記録倉庫。歴代の式次第の写本を積んである部屋です。式典官の配置先としては、あそこは配置ではありません。置き場です。
署名の欄を見ました。儀典長印が捺してあります。その左に、もうひとつ。小さな副印が重ねてありました。掠れていて、意匠が読めません。辞令に副印が要る配置ではないのですが、と思いましたが、訊く相手が思い当たりませんでした。
荷物は木箱ひとつで済みました。定規と、筆と、母の使っていた白墨。記録倉庫は、思っていたより静かでした。窓が高いところに一つあって、光が斜めに落ちています。埃が、その光の中だけで動いている。
棚は六十年分ありました。
わたくしは、うれしくなってしまいました。
六十年です。この国が結んだ式、迎えた客、断った縁。誰がどこに座り、誰が先に杯を上げたか。全部この部屋にあります。誰も読まないというだけで、消えたわけではない。
箱を置いて、いちばん上の段から順に背表紙を見ていきました。日付順ではなく、式の種類で並んでいる。誰かが途中で並べ替えて、途中でやめている。三段目の途中から、また日付順に戻っていました。並べ替えた人は、たぶん三段目で異動になったのでしょう。
その日は、そこまでで暗くなりました。
翌朝、扉の前に木箱が積んでありました。三つ。どれも封がしてあって、上に一枚、紙が載っている。
「儀典課より。整理のこと」
差出人の名はありません。整理のこと、というのは、儀典課では「捨ててよい」という意味です。使い終わった式次第を記録倉庫へ回すときに、そう書きます。
封を切りました。中身は写本でした。ただし六十年前のものではない。真新しい紙で、糊の匂いがまだします。
表紙にはこうありました。
――王国・グラナート公国 通商及び不戦条約 調印式 式次第(案)
わたくしは、そこでしばらく動きませんでした。
条約の調印式です。隣国との。しかも通商と不戦の両方。この規模の式は、わたくしが職に就いてから一度もありません。母の代にも、たぶん一度きりです。
それが、使い終わった紙として、記録倉庫に積んである。
まだ使っていないのに。
束をめくりました。二百枚近くあります。式次第の案が三通り、席次図が五枚、招待予定者の一覧、儀礼の手引き。日付は三月後。
三通りの案は、どれも途中で終わっていました。一通目は第八項まで。二通目は第十四項まで。三通目は第三項までしか書かれていません。筆跡が三つとも違います。
式次第を三項で放り出す式典官は、いません。組み始めたら最後まで組みます。途中で止まるのは、止められたときだけです。
束のいちばん下に、条約そのものの写しが綴じてありました。綴じ目がきつくて開き切りません。指で押さえて、少しだけ開きました。
第九条。付帯条項。
その先が、綴じ目に食い込んで読めない。ただ、一語だけ見えました。
――花嫁。
わたくしはその頁を、しばらく見ていました。
通商と不戦の条約に、花嫁という語が出てくること自体は、珍しくありません。国と国が結ぶとき、人も一緒に結びます。むしろ入っていないほうが少ない。
問題は、そこではありませんでした。この束は、儀典課から来ています。儀典課がわたくしに条約の調印式を回すなら、それは儀典長の判断です。ローランドの。婚約を解消して、わたくしを置き場に移した男の。
彼は、わたくしから仕事を奪いませんでした。二年間、一度も。組めない式は全部わたくしに回して、組み上がった式次第の一枚目に自分の名を書く。それでうまくいっていたのです。彼にも、わたくしにも。
その男が、わたくしを置き場に移した三日後に、国でいちばん大きい式を、名前も書かずに投げてよこしました。
――投げてよこしたのでしょうか。
「整理のこと」と書いた紙を、儀典長がわざわざ載せるでしょうか。あの男は、自分の名を書ける場所には必ず書く人です。書かなかったのではなく、書けなかったのだとしたら。
束を閉じて、埃を払いました。窓の光は、もう斜めではなくなっています。高い窓の外で、鳩が一羽、桟を蹴って飛び立ちました。
辞令の副印を、もう一度思い出しました。掠れて読めなかった、儀典長印の左の、小さいほう。
――誰が、この束をここへ置いたのでしょう。
次は、誰も引き受けたがらない式の話です。




