第12話 旗の意匠
四つ目は、時でした。合同点検が終わって、オデット殿が直した五項を綴じ込んだあと、乾杯の刻限を確かめました。
第二十三項。乾杯は、日没の鐘の後。三月後の第二週の日没は、記録によれば七の刻と半です。晩餐の開始は六の刻。乾杯まで一刻半あります。
一刻半、百四十人が卓に着いたまま待ちます。
長すぎました。
儀礼書には、乾杯を日没後とする定めがあります。王国の作法です。グラナートには無い作法で、あちらは開式から半刻で乾杯します。
こちらの定めに従えば、あちらは一刻待たされます。
これも、条文には違反しません。
直し方は、すぐに見つかりました。日没の鐘は、大聖堂の鐘楼で撞きます。撞く刻限は暦で決まっていますが、晩餐の開始は式次第で決められます。
開始を七の刻にすれば、乾杯まで半刻です。変更を書き込んで、余白に二重線を引きました。
四つ目です。残りは二つ。口に入るものと、署名。
その日の午後、旗手の詰所へ行きました。柱を半歩下げる件の、最終確認です。
年嵩の旗手は、図面を広げて待っていました。
「柱は動かせる。穴を掘り直すだけだ」
「ありがとうございます」
「ただ、旗のほうで一つある」
「はい」
彼は箱を出しました。中に、畳んだ布が三枚。
「王国旗、グラナート旗、それから王家の旗だ。当日はこの三枚を揚げる」
三枚目を広げました。
王家の旗です。地は深い青で、中央に紋。わたくしは、その紋を見ました。
円の中に、鳥。翼を広げた鳥です。
「……この意匠は」
「王家の紋だ」
「王家の紋は、翼を広げた鳥でございますね」
「そうだ。あんた式典官だろう」
「はい」
わたくしは、その旗をしばらく見ていました。
「王族が複数ご臨席の場合、旗は一枚でよろしいのですか」
「一枚だ。王家は一つだからな」
「では、王姉殿下の紋は」
年嵩の旗手は、少し考えました。
「宮ごとの紋なら別にある。だが式で揚げるのは王家の旗だけだ。宮の紋は馬車と、あとは書状の副印くらいのもんだろう」
副印。
わたくしは、礼を言って詰所を出ました。
王宮の紋章記録は、東棟の一階にあります。照合を申請すると記録が残ります。残ることは、もう構いませんでした。停職になった儀典長の代行を、わたくしが申請しています。式次第の担当者が旗と紋を確かめるのは、職務です。
申請を出しました。閲覧できたのは、翌日でした。
紋章記録は分厚い一冊で、王家の各宮の紋が図で載っています。
王太子宮。王弟宮。
――王姉宮。
円の中に、鳥。
翼を、広げていない鳥でした。
わたくしは、その図を見ながら、指で辞令の副印の輪郭を思い出しました。
同じです。
記録の脇には、注記がありました。
――王姉宮の紋、及び旗の意匠は、王暦四百七十一年に定む。以降改定なし。
王暦四百七十一年。
数えました。
二十年前です。
わたくしは、その一行を三度読みました。
王家の紋は、代替わりや慶事のたびに手が入ります。細部の意匠が更新される。六十年分の式次第を見ていれば、それは分かります。王太子宮の紋は、この二十年で二度改定されていました。王弟宮も一度。
王姉宮だけが、二十年、そのままです。
定めた年が、二十年前。二十年前は、グラナートとの条約が流れた年でした。
――その年に定めて、その年から止まっている。
紋を定めるというのは、宮を構えるということです。王族の女性が宮を構えるのは、たいてい二つの場合です。降嫁するときか、降嫁が決まったときか。
王暦四百七十一年に、王姉殿下は宮を構えられた。同じ年に、条約が流れた。
記録係の方に、一つ伺いました。
「宮の紋は、どなたが改定なさるのですか」
「宮の主でございます」
「では、改定なさらないのも」
「宮の主のご判断です」記録係は、少し声を落としました。「王姉宮は、二十年、何も出しておられません」
「何も、と申しますと」
「紋も、旗も、宮印も。書式の届けも。……宮というのは、毎年何かしら出すものなのですが」
「出さないと、どうなりますか」
「どうにもなりません。誰も困りませんので」
わたくしは、その言葉を書き留めませんでした。書き留めるようなことではないと思ったのですが、記録倉庫へ戻るまでのあいだ、ずっと覚えておりました。
――誰も困りませんので。
二十年、誰も困らなかったのです。宮が何も出さなくても、王宮は回りました。式次第の二十三項までを誰も読まなくても、式が回るのと同じことです。
わたくしは、紋章記録を閉じました。閉じてから、もう一度開いて、王姉宮の頁だけ書き写しました。図も写しました。写しながら、手が少し遅くなりました。
――なぜ、更新なさらないのでしょう。
二十年前のまま止めておくことに、何の利があるのか分かりません。
利がないなら、止めているのではなく、止まっているのです。
記録倉庫へ戻る途中、渡り廊下で人とすれ違いました。馬車が一台、正面の車寄せに着いていました。降りてきた方が、外套を侍女に渡すところでした。
背の高い女性です。四十がらみ。髪をきつく結い上げて、装身具はほとんど着けておられません。馬車の扉に、紋がありました。
円の中に、翼を広げていない鳥。
わたくしは、廊下の端で礼をしました。その方は、通り過ぎざま、こちらを一度ご覧になりました。
目が合ったのは、たぶん一呼吸ほどです。何もおっしゃいませんでした。会釈もなさいませんでした。ただ、見て、行かれました。
王族が下級の官吏を見ないのは、普通のことです。見ないのが作法です。
見られたのは、普通ではありませんでした。
わたくしは、その方が回廊の角を曲がるまで、頭を下げたままでいました。顔を上げて、記録倉庫のほうへ歩き出しました。
歩きながら、数えていました。
六つの階層のうち、四つ潰しました。残りは口に入るものと、署名。
そして、数えなくてよいはずのものが、一つ増えています。
――王姉宮の紋。二十年、改定なし。
それは妨害ではありません。妨害ではありませんが、同じ場所から来ています。
記録倉庫の扉を開けて、卓に紋の写しを置きました。
辞令と、招待名簿と、二十年前の写しと、紋の写し。
四枚になりました。
四枚を並べて、順に見ていきました。辞令は三月前。招待名簿は、書き足された行だけが日付を持ちません。二十年前の写しは二十年前。紋は二十年前に定めて、そのまま。
二十年と三月。
そのあいだの十九年と九月に、この方は何をなさっていたのでしょう。
――何も、なさっていないのです。
記録係が言ったとおりです。何も出しておられない。
二十年、何もせずにいて、三月前に動いた。動いた理由が、この四枚のどこかにあるはずでした。
わたくしは灯りを引き寄せて、二十年前の写しの、いちばん端に書かれた日付を見ました。
写しが取られた日は、条約が流れる十一日前でした。
次は、二十年ぶりに使われる紙の読み上げです。




