第11話 副本の空欄
合同点検は三日続きました。二日目、オデット殿は条約の副本を持ってきました。
式次第の点検に条約の本文は要りません。要りませんが、彼女は卓に置きました。
「引き合わせるわ。式次第の各項が、条約のどの条を履行するものかを対照させる」
「そこまでなさいますか」
「うちではそうするの」
王国では、そうしません。式次第は式次第、条約は条約です。だから第九条の三行を読んだだけで、わたくしは自分の仕事に戻りました。二日目の午後は、その対照表を作って過ぎました。
四十二項のうち、三十九項は条約のどこかに紐づきました。残る三項は儀礼上の慣行で、条約とは無関係です。紐づけを書き込みながら、わたくしは第九条のところへ来ました。
オデット殿の副本を開きました。
――第九条(付帯事項) 両締約国は、本条約の履行を保証するため、別紙に定める婚姻を成立せしめるものとする。婚姻の当事者、条件その他は別紙のとおりとする。
同じ三行です。
副本には、別紙が綴じてありました。わたくしの写しには無かった二枚です。
指が止まりました。
オデット殿が、こちらを見ました。
「第九条がどうかしたの」
「……別紙が、綴じてございます」
「当たり前でしょう」
「王国側の写しには、綴じられておりません」
彼女の眉が動きました。
「見せて」
わたくしの束を出しました。彼女は末尾の綴じ糸を見て、二枚分の跡が余っていることを確かめました。
「外してあるわね」
「はい」
「なぜ」
「存じません」
オデット殿は、自分の副本の別紙を開いて、こちらへ向けました。
「読みなさい」
読みました。
――別紙 第九条に定める婚姻について
一、当事者は、グラナート公国公爵アルベリク・ド・グラナート及び、王国側の指名する者とする。
二、王国側の指名は、調印の日までに書面をもって行うものとする。
三、婚姻は、調印の日をもって成立したものとみなす。
四、当事者双方は、婚姻の解消を求めることができない。
わたくしは、四項目を二度読みました。
花嫁の欄が、ありませんでした。
名前を書く欄そのものが無いのです。あるのは「王国側の指名する者」という書き方だけです。
「……名がございません」
「そうよ」
「王国側の指名は、調印の日までに書面をもって、とございます」
「そうね」
「では、まだ誰も指名されていない、ということでしょうか」
オデット殿は、少し不思議そうな顔をしました。
「うちに届いた副本ではそうよ。あなたのところでは違うの」
わたくしは、招待予定者の一覧を出しました。
招待客の欄。実務の者十八名の、いちばん下。
次席 セラフィーナ・ヴェルニエ。
彼女は、それを見ました。見て、しばらく黙りました。
「……あなた、招待客なの」
「はい」
「式を組む者が」
「はい」
オデット殿は、一覧を手に取りました。角度を変えて、透かしました。
「この行、あとから足してあるわ」
「え」
「罫線と字の重なり方が違う。他の行は罫の上に字が乗っているけれど、この行だけ罫を避けて書いてある。一覧を作ったあとで、余白に書き足した字よ」
わたくしは、その一覧を受け取りました。角度を変えました。
――そのとおりでした。
わたくしの名だけが、罫を避けています。字は、小さくて、丁寧で、行がまっすぐです。
「同じ字です」
「何が」
「わたくしの配置辞令の副印の脇と、同じ字でございます」
オデット殿は、何も訊きませんでした。訊かずに、副本を閉じました。
「ヴェルニエ殿」
「はい」
「その名前は、まだ条約に入っていないわ」
「……はい」
「入るのは、王国側が調印の日までに書面で指名したときよ。一覧に書き足してあるだけでは、指名にならない。あれは招待の書類で、条約の書面ではないもの」
わたくしは、その言葉を、しばらく飲み込めませんでした。飲み込んでから、手が震えました。
震えたのは、怖かったからではないと思います。
――間に合うのです。
三月あります。書面が出る前に、この一行を止められるかもしれない。
「オデット殿」
「なに」
「王国側の指名の書面は、どなたが出されますか」
「知らないわ。うちの話ではないもの」
彼女は手袋をはめました。
「ヴェルニエ殿。一つ訊くけれど」
「はい」
「その一行を止めたいの」
わたくしは、答えるのに時間がかかりました。止めたいかどうかを、まだ考えていませんでした。名が書かれていることに気づいてから、ずっと、誰が書いたかだけを追っていたのです。
「……存じません」
「存じませんとは」
「止めたいかどうかを、まだ考えておりませんでした」
オデット殿は、あきれた顔をしました。
「あなた、自分の婚姻の話よ」
「はい」
「三月あるのに、考えていないの」
「式次第が四十二項ございましたので」
彼女は、そこで少し笑いました。この三日で初めてでした。
「……ああ、そう。あなたはそういう人」
「申し訳ございません」
「謝ることではないわ。ただ、覚えておきなさい」
彼女は卓に指を置きました。
「式次第を組む者は、式次第に書かれた者ではないの。組む側と組まれる側は違う。あなたは今、両方にいるわ」
「両方」
「そう。だから、どちらの側で考えるかを、自分で決めないといけない。誰も決めてくれないもの」
わたくしは、その言葉を書き留めようとして、筆を持ったまま止めました。書き留めるようなことではない気がしたのです。
「ただ、一つ言っておくわ」
「はい」
「うちの公爵は、この条項に署名していない」
わたくしは、顔を上げました。
「条約の本体には署名の予定があるわ。でも別紙には、まだ誰も署名していない。うちの副本の署名欄は空のまま。それは……」
彼女は、そこで言葉を切りました。切って、少し違う顔をしました。今まで見せていなかった顔です。
「二十年前と、同じ形よ」
その日はそれで終わりました。オデット殿が宿へ帰ったあと、わたくしは記録倉庫に残りました。
卓の上に、三つ並べました。
配置辞令。招待予定者の一覧。二十年前の写し。
同じ字が、三つ。
それから、四つ目を出しました。母の白墨です。二重線の作法を教わったとき、母は理由を言いませんでした。消さずに残せ、とだけ。
――何をどう直したかが、後から読めるように。
そう思っていました。
今、卓の上の三枚を見ていて、別の読み方が浮かびました。
消さずに残すのは、後から読む人のためだけではありません。
書いた人を、後から追えるようにするためでもあります。
わたくしは灯りを引き寄せて、二十年前の写しを、もう一度いちばん最初から読み直しました。
次は、王家の旗の意匠を確かめます。




