第10話 合同点検
儀典長が停職になって、式次第の担当はわたくしのままでした。上がいなくなると、決裁が止まります。止まったものを動かすには、次席が代行を申請します。申請には根拠条文が要ります。書きました。
書いているあいだは、静かでした。
三つ潰して、残りは三つ。口に入るもの、時、署名。目録の申告はまだ届きません。時と署名は、まだ手をつけていません。
手をつけようとして、手が動きませんでした。
――数えさせて、どうなるのでしょう。
紙の隅に書いた問いが、そのままになっています。数えている人間は、数え終わるまで他のことをしません。では、わたくしがしなかったことは何でしょう。
三月のあいだ、わたくしは式次第だけを見ていました。
条約は、見ていません。第九条の三行を読んだだけです。
式典官の仕事ではありませんので、と思っていました。
思っていたのですが。
その日、門から知らせが来ました。
グラナートの合同点検団が入る、と。
合同点検は慣例です。式の一月前に、両国の儀典担当が式次第を突き合わせます。ただ、今回は三月前でした。早すぎます。
前庭で待ちました。馬車が一台。降りてきたのは女性でした。
三十代の半ばでしょうか。黒の外套に、襟に銀の徽章。グラナート公国儀典局の徽章です。
「オデット・ラ・トゥール。グラナート主席儀典官」
わたくしは礼をしました。
「王宮儀典課次席、セラフィーナ・ヴェルニエと申します」
「次席」
彼女は、その一語を繰り返しました。
「主席は」
「儀典長が職務停止中でございます」
「では誰が組んだの」
「わたくしが」
オデット殿は、手袋を外しました。
「見せて」
記録倉庫へ案内しました。執務室ではなく記録倉庫へ通したことについて、彼女は何も言いませんでした。棚を一度だけ見上げて、それから卓に着きました。
束を置きました。式次第、四十二項。彼女は読み始めました。
速い方でした。一枚に三十呼吸ほど。読みながら、指で条番号をなぞります。
四枚目で、止まりました。
「第七項。旗」
「はい」
「王家の旗の掲揚を、あなたが書き足したのね」
「はい」
「うちの作法では同時掲揚よ」
「存じております。三本目の柱を半歩下げて、高さは同一のまま位置で段を作りました」
オデット殿は、そこを二度読みました。
「……逃げたわね」
「逃げました」
「褒めていないわ」
「存じております」
彼女は次をめくりました。
「第十九項。服制。紫が重なる」
わたくしは、少し驚きました。その仕掛けに気づくのに、わたくしは三日かかっています。彼女は今、初めて読んで、三十呼吸で見つけました。
「燭台を三本、聖障の中央へ寄せております」
「火で目を逸らすの」
「はい」
「小手先ね」
「はい」
「他に手があった?」
「ございませんでした」
オデット殿は、わたくしを見ました。
初めて、紙から目を上げました。
「無いわね」彼女は言いました。「聖職者は減らせない。祭服の色は暦。うちの正装に口を出せば侮辱。動かせるのは祭具だけ」
彼女は次の頁をめくりました。
「小手先だけれど、それしかない。それを三日で見つけたなら、あなたは仕事ができるほうよ」
「四日かかっております」
「なお悪いわ」
彼女は最後まで読み切りました。読み切って、束を閉じて、指で表紙を二度叩きました。
「七項、十一項、十九項、二十三項、三十一項。この五つは話にならない」
「十九項は、ただいま」
「服制の話ではないわ。十九項の三行目、参列者の入場順。うちの司教は公爵より先に入る決まりよ。あなたの案は逆」
「儀礼書の入場の部には」
「二年前に改正されている」
わたくしは、筆を取りました。
「改正後の条番号を」
「十七条。書き直しておいたわ」
彼女は、外套の内側から紙を出しました。五枚。
わたくしの式次第の、五項ぶんです。全部、書き直してあります。字は角ばっていて、速く書いた形跡がありました。ここへ来る馬車の中で書いたのだと思いました。
「……なぜ、書き直されるのですか」
「点検に来たのだから」
「叩くだけでも、点検になります」
オデット殿は手袋をはめ直しました。
「王国の儀典は二流よ」彼女は言いました。「二流の式で結ぶ条約は、二流の紙になる。そんなものを持って帰れないの」
立ち上がって、棚を見上げました。
「六十年分あるのね」
「はい」
「うちには四十年分しかないわ。焼けたから」
それだけ言って、彼女は扉のほうへ行きました。扉のところで、振り向きました。
「ヴェルニエ殿」
「はい」
「あなた、女だから式典官になったのだろうと言われたことは」
わたくしは、答えませんでした。
「……私はあるわ」
その日の夕方、厨房へ寄りました。
「……で、何時だ」
「三日でございます。グラナートの主席儀典官が来ております」
「聞いた。宿の献立を出せと言われた」
「なんと申し上げましたか」
「何が食えんのか先に言え、と言った」
わたくしは、手が止まりました。
「そう伺いましたか」
「向こうさんの料理番に訊いた。豚は駄目だそうだ。あと、血の入ったものと、鱗の無い魚」
三つです。
目録の申告は、まだ外務府から届いていません。届く前に、厨房が現場で確かめていました。
「……バティスト殿」
「なんだ」
「その三つを、書き留めてもよろしいですか」
「好きにしろ。おれは訊いただけだ」
「目録が届きましたら、突き合わせます」
「届かなかったら」
「これを使います」
彼は木べらで鍋の縁を二度叩きました。
「聞いたことは覚えてる。書いたものは無くす。おれはそういう順でやってる」
わたくしは、その言い方を、少し覚えておきました。
記録倉庫へ戻りました。卓の上に、五枚が残っています。
わたくしは、その五枚を読みました。どれも正しい。正しいうえに、わたくしの書き方の癖に合わせて直してあります。余白に二重線が引いてありました。
消さずに、残したまま、上から正しいほうを書く形でした。
――同じ作法です。
わたくしは、しばらくその二重線を見ていました。母のものだと思っていた作法が、隣の国の主席儀典官にもあるということは、これは母のものではなく、式典官のものだということです。
うれしいような、少し寂しいような気持ちになりました。
五枚を式次第に綴じ込んで、それから、気づきました。
――なぜ、三月前に来たのでしょう。
合同点検は一月前です。二月早い。
早く来る理由は、一つしかありません。
――一月前では、間に合わないものがある。
オデット殿が叩いた五項を、もう一度並べました。
七項、十一項、十九項、二十三項、三十一項。
旗、賓客の宿割、服制、乾杯、署名順。
六つの階層のうち、四つが入っています。
彼女は、わたくしと同じものを探しているのかもしれませんでした。
次は、条約の副本を開きます。




