「天下人の退屈」
「……違う」
小さな炎が、指先で弾けた。
次の瞬間、ふっと消える。
「またか」
アルヴィスは、ため息をついた。
五歳になった春。
レーヴェン家の裏庭では、毎日のように奇妙な光景が繰り返されていた。
小さな少年が、掌の上に火を灯そうとしている。
それを、白髪交じりの魔法使いが見守っていた。
「アルヴィス様」
セドリックが口を開いた。
「焦ってはいけません」
「焦ってなどいない」
「では、なぜそんなに怖い顔を?」
「……生まれつきだ」
セドリックは、楽しそうに笑った。
「魔法は、力任せに使うものではありません」
「分かっている」
「本当に?」
アルヴィスは答えなかった。
この一年、彼はセドリックから魔法の基礎を学んできた。
魔力の流れ。
属性との相性。
術式の組み立て。
魔法を使う際の呼吸や集中。
だが、思うようにはいかなかった。
前世であれば、部下に命じればよかった。
城を築くのも、鉄砲を集めるのも、軍勢を動かすのも。
自分がすべてを行う必要はなかった。
しかし、魔法は違う。
自分の身体で覚えなければならない。
「……面倒なものだ」
「だからこそ、面白いのでしょう?」
セドリックが言った。
アルヴィスは顔を上げた。
「先生は、変わったことを言う」
「あなたほどではありませんよ」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
*
その日の訓練は、火を一分間維持することだった。
大きな炎を出す必要はない。
ただ、安定させる。
それだけである。
「始めましょう」
セドリックの合図で、アルヴィスは手をかざした。
魔力を流す。
指先に熱が集まる。
小さな炎が生まれた。
十秒。
二十秒。
三十秒。
炎が揺れる。
「……くっ」
魔力が乱れた。
炎が大きくなりかける。
アルヴィスは慌てて力を抑えた。
その瞬間。
炎が消えた。
「三十七秒ですな」
セドリックが言った。
「昨日より五秒長い」
「まだまだだ」
「十分な進歩ですよ」
アルヴィスは掌を見つめた。
前世の自分なら、三十七秒などという数字に満足しなかっただろう。
だが。
一年前は、火を灯すことすらできなかった。
それを思えば、確かに進歩している。
「もう一度だ」
「今日はここまでにしましょう」
「まだできる」
「魔力を使いすぎると、体調を崩します」
「少しくらい――」
「奥様に報告しますよ」
アルヴィスは黙った。
セドリックが笑う。
「やはり、奥様には勝てませんな」
「……卑怯だぞ、先生」
*
訓練を終えたアルヴィスは、屋敷の裏手にある小さな丘へ向かった。
そこからは、レーヴェン領の町並みがよく見えた。
石造りの家々。
細い道。
畑。
遠くには、山々が連なっている。
「……小さな領地だ」
アルヴィスは呟いた。
前世の自分なら、この程度の土地を治めることなど、取るに足らぬ仕事だと思っただろう。
だが、今は違う。
この小さな領地にも、人が暮らしている。
畑を耕す者。
商いをする者。
子供を育てる者。
そして、その生活を守ろうとする父がいる。
「アル!」
背後から声がした。
振り返ると、長兄ラインハルトが歩いてきた。
十四歳になった兄は、以前よりも背が伸び、肩幅も広くなっていた。
腰には、訓練用の木剣を下げている。
「こんなところにいたのか」
「兄上」
「魔法の訓練は終わったのか?」
「うん」
「どうだった?」
「まだまだ」
「そうか」
ラインハルトは笑った。
「俺も、剣では父上に勝てない」
「兄上でも?」
「ああ。あの人は強いぞ」
アルヴィスは、少し驚いた。
父グレゴールは、普段は穏やかな男だった。
剣を振るう姿など、ほとんど見たことがない。
「父上は、昔、戦に出たことがあるんだ」
ラインハルトが言った。
「国境での小競り合いだけどな。何度も兵を率いたらしい」
「……そうなんだ」
アルヴィスは、父の姿を思い浮かべた。
家族と笑い、領民を気遣う男。
だが、その手には、剣を握って戦った過去がある。
「兄上は、戦に出たい?」
アルヴィスが尋ねた。
ラインハルトは、少し考えた。
「出たくはないな」
「……意外だね」
「そうか?」
「兄上は、強くなりたいんでしょ?」
「ああ」
「だったら、戦で手柄を立てたいんじゃないの?」
ラインハルトは首を振った。
「手柄のために戦いたいわけじゃない」
「じゃあ、どうして?」
兄は、町を見下ろした。
「守りたいからだ」
アルヴィスは黙った。
「父上も、母上も、ユリウスも、お前も。それに、領地の人たちも」
ラインハルトは、木剣の柄に手を置いた。
「戦わずに済むなら、それが一番いい。でも、誰かが攻めてきたら、俺は剣を取る」
その言葉には、迷いがなかった。
アルヴィスは、兄を見上げた。
前世の自分は、戦う理由を何度も口にしてきた。
天下布武。
乱世を終わらせる。
新しい世を作る。
それらは、決して嘘ではなかった。
だが、その過程で、多くの者を犠牲にした。
戦わずに済むなら、それが一番いい。
兄の言葉は、あまりにも単純だった。
しかし。
その単純さが、妙に胸に残った。
「……兄上らしいね」
アルヴィスが笑う。
「そうか?」
「うん」
「お前はどうなんだ?」
「僕?」
「強くなって、何がしたい?」
アルヴィスは、すぐには答えられなかった。
天下を取る。
かつてなら、迷わずそう答えただろう。
だが、今は。
「……まだ、分からない」
正直に答えた。
ラインハルトは、少し驚いたようだった。
そして、笑った。
「なら、これから考えればいい」
「……うん」
「まだ五歳だろ?」
その言葉に、アルヴィスは思わず苦笑した。
確かに。
今の自分は、まだ五歳なのだ。
*
その夜。
アルヴィスは、一人で机に向かっていた。
紙の上には、いくつもの図が描かれている。
魔力の流れ。
炎の大きさ。
維持できた時間。
そして、魔力を使った後の疲労。
「……なるほど」
アルヴィスは、記録を見比べた。
炎を大きくしようとすると、魔力の消耗が激しくなる。
だが、小さな炎を維持するだけなら、消耗は少ない。
つまり。
大切なのは、力の大きさではない。
使い方だ。
前世で鉄砲を使ったときも、同じだった。
一挺の鉄砲が、戦のすべてを変えたわけではない。
それをどう運用するか。
どこに配置し、いつ撃たせるか。
そこに意味があった。
「魔法も、同じか」
アルヴィスは、紙に新しい線を引いた。
小さな炎。
細い通路。
一点への集中。
まだ、実現できるかは分からない。
だが、考えるだけなら自由だった。
「……面白い」
久しぶりに、心が躍った。
天下を目指すためではない。
誰かを倒すためでもない。
ただ、知らないことを知る。
できなかったことが、できるようになる。
それが、こんなにも楽しいとは。
アルヴィスは、ふと笑った。
「儂も、随分と変わったものだ」
そして、すぐに首を振った。
「……いや」
まだ何も変わっていないのかもしれない。
新しいものを見れば、試したくなる。
使えるものがあれば、取り入れたくなる。
それは、前世から変わらぬ性分だった。
ただ一つ違うのは。
今は、その先に家族の笑顔があることだった。
*
翌朝。
アルヴィスは、いつものように裏庭で訓練を始めた。
セドリックが見守る中、掌に小さな炎を灯す。
十秒。
二十秒。
三十秒。
四十秒。
炎は、まだ消えない。
「……ほう」
セドリックが目を細めた。
五十秒。
五十五秒。
そして。
「一分です」
セドリックが告げた。
アルヴィスは、ゆっくりと魔力を止めた。
炎が消える。
「……できた」
小さく呟いた。
セドリックは微笑んだ。
「お見事です」
アルヴィスは、自分の掌を見つめた。
かつて、天下を取ろうとした男。
その男が今、小さな炎を一分間維持できたことに喜んでいる。
何とも奇妙な話だった。
だが。
「先生」
「はい」
「次は、何を覚えればいい?」
セドリックは、少し呆れたように笑った。
「本当に、休むことを知りませんな」
アルヴィスも笑った。
「まだ、始まったばかりだからね」
その言葉を聞いたセドリックは、ふと空を見上げた。
春の空は、どこまでも青かった。
だが、その向こうに。
何かが、静かに動き始めているような気がした。




