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「レーヴェン家の三男」

織田信長が、アルヴィス・フォン・レーヴェンとして生まれ変わってから、三年が過ぎた。


三年。


かつて幾万もの兵を率い、天下統一を目前にした男にとって、それは驚くほど長い時間だった。


何しろ、生まれて最初の一年は、自分の足で歩くことすらできなかったのである。


「……赤子とは、かくも不自由なものか」


初めて寝返りを打てたときなど、思わず歓喜しそうになった。


だが、その直後に自分が何を喜んでいるのか気づき、ひどく情けない気持ちになったものだ。


かつて尾張から天下へ駆け上がった男が、寝返り一つに一喜一憂する。


人生とは、まことに分からぬものである。


もっとも、三歳となった今では、屋敷の中を自由に歩き回れるようになっていた。


言葉も覚えた。


文字も、少しずつ読めるようになった。


この世界の言葉は、生まれたときから不思議と意味が理解できた。


しかし、文字は別だった。


そこでアルヴィスは、乳母や侍女に絵本を読んでもらいながら、密かに文字を覚えていった。


そして今。


彼が最も好んで訪れる場所は、屋敷の書庫だった。


「……なるほど」


小さな椅子に腰掛け、分厚い本を開く。


表紙には『エルディア大陸諸国史』と書かれていた。


エルディア大陸。


それが、この世界で自分が暮らす大陸の名だった。


大陸には、大小さまざまな国家が存在している。


人間の国。


獣人たちが暮らす地域。


エルフが治める森。


ドワーフが築いた地下都市。


そして、地図の外側には、まだ十分に調査されていない土地も広がっているという。


「……広いな」


アルヴィスは小さく呟いた。


前世で自分が目指したのは、日の本の天下だった。


だが、この世界はどうだ。


海の向こうにも国がある。


異なる種族がいる。


そして、魔法という未知の力まで存在する。


知れば知るほど、興味が尽きなかった。


「アルヴィス様!」


突然、書庫の扉が開いた。


侍女のマルタだった。


二十代半ばの、面倒見のよい女性である。


「またこんなところに!」


「……見つかったか」


「見つかったか、ではありません!」


マルタは腰に手を当てた。


「奥様がお待ちですよ。もうお昼のお食事です!」


「あと少しだ」


「その『あと少し』は、今日だけで三回目です」


「む……」


アルヴィスは本に目を落とした。


あと数ページで、ヴァルディア王国の建国について読み終えるところだった。


だが、マルタの表情を見る限り、交渉の余地はなさそうだった。


「分かった。今行く」


本を閉じ、椅子から降りる。


するとマルタは、ようやく安心したように息をついた。


「本当に、三歳とは思えませんね」


「そうか?」


「普通のお子様は、こんな難しい本を読みません」


「絵が面白いんだ」


「この本、ほとんど文字ばかりですよ?」


「……細かいことは気にするな」


「誰に似たのでしょうねえ」


マルタは呆れながらも、楽しそうに笑った。


アルヴィスは、その後ろを歩きながら考える。


三歳児らしく振る舞うべきだとは、理解していた。


しかし。


退屈なのだ。


あまりにも、退屈だった。


*


レーヴェン家は、ヴァルディア王国の西端に領地を持つ下級貴族だった。


領地には、小さな町といくつかの村がある。


肥沃な土地ばかりではなく、山林も多い。


王都から遠く離れているため、政治の中心からも距離があった。


当主は、グレゴール・フォン・レーヴェン。


四十二歳。


大柄で、武骨な顔立ちをした男である。


茶色の髪と青い瞳は、アルヴィスにも受け継がれていた。


グレゴールは、決して大きな野心を持つ男ではなかった。


だが、領民を大切にし、家族を愛していた。


前世の信長が知る武将たちと比べれば、随分と穏やかな男だった。


母のエレナは、優しく聡明な女性だった。


いつも穏やかに微笑んでいるが、必要なときには父にもはっきり意見を言う。


そして、アルヴィスには二人の兄がいた。


長男のラインハルト。


十二歳。


剣術に優れ、将来は父の跡を継ぐと期待されている。


次男のユリウス。


九歳。


こちらは剣よりも書物を好む、物静かな少年だった。


「アル!」


食堂に入ると、ラインハルトが手を振った。


「また書庫にいたのか?」


「うん」


「お前、本当に変わってるな!」


「兄上ほどではないよ」


「どういう意味だ?」


「昨日、木剣を振りすぎて腕が上がらなくなったって聞いた」


「なっ……誰から聞いた!」


ユリウスが、静かに手を挙げた。


「僕だよ」


「ユリウス!」


「事実だろう?」


「お前まで!」


二人の兄のやり取りを見て、アルヴィスは思わず笑った。


前世にも兄弟はいた。


だが、そこには常に家督や権力が絡んでいた。


血を分けた者同士でさえ、争わねばならない時代だった。


実際、自分も弟と争った。


あの頃は、それが当然だと思っていた。


だが、今は違う。


ラインハルトは、弟たちを守ることを当然だと考えている。


ユリウスは、兄の剣術を素直に尊敬していた。


そして二人とも、アルヴィスを可愛がってくれている。


不思議な家族だった。


いや。


本来、家族とはこういうものなのかもしれない。


「アルヴィス」


父の声がした。


「最近、領地の地図を見ているそうだな」


「はい」


「何か気になることでもあるのか?」


アルヴィスは少し考えた。


三歳の子供が領政に口を出せば、不審がられるだろう。


だが、以前から気になっていたことがあった。


「お父様」


「うむ」


「どうして、南の村には畑が少ないの?」


父の手が止まった。


「南の村?」


「川があるのに、畑が少ない」


グレゴールは目を細めた。


「……地図を見て、そう思ったのか」


「うん」


「南は土地が痩せている。それに、春には川が氾濫することもある」


「じゃあ、川の水を別のところに流せば?」


「簡単に言うな」


父は苦笑した。


「水路を造るには、人手も金もいる。それに、川の流れを変えれば、別の村に被害が出るかもしれん」


アルヴィスは黙った。


なるほど。


前世でも、治水は重要だった。


だが、この世界には魔法がある。


土を動かす魔法。


水を操る魔法。


それらを使えば、工事の手間を減らせるのではないか。


「魔法でできないの?」


その問いに、父は意外そうな顔をした。


「魔法か」


「うん」


「確かに土魔法を使う者なら、工事を助けられる。だが、魔法使いを雇うには金がかかる」


「そうなんだ」


「それに、魔法も万能ではないからな」


グレゴールはパンをちぎりながら続けた。


「大切なのは、できることと、できないことを見極めることだ」


アルヴィスは、その言葉を心に留めた。


この父は、決して愚かな男ではない。


野心は薄くとも、現実を見ている。


かつての自分なら、どうしただろう。


金が足りぬなら、商人を動かす。


人が足りぬなら、集める。


必要とあらば、力ずくでも道を切り開く。


そう考えたかもしれない。


だが、今は違う。


少なくとも、この家の者たちを危険にさらしてまで、何かを成し遂げたいとは思わなかった。


「アルヴィス」


母が微笑んだ。


「難しいお話は、食べ終わってからにしましょうね」


「……はい」


アルヴィスは素直にスープを口に運んだ。


その様子を見て、ラインハルトが笑う。


「アルも母上には勝てないな!」


「兄上もでしょ」


「それはそうだ!」


食堂に笑い声が広がった。


アルヴィスは、ふと不思議な気持ちになった。


天下を取るためでもない。


誰かを従わせるためでもない。


ただ、同じ食卓を囲み、笑っている。


それだけの時間が、妙に心地よかった。


*


食事を終えた後。


アルヴィスは、屋敷の庭を歩いていた。


春の風が、頬を撫でる。


庭の向こうでは、ラインハルトが木剣を振っていた。


「はっ!」


鋭い声とともに、木剣が振り下ろされる。


何度も。


何度も。


その動きには、無駄が少なかった。


「……ほう」


アルヴィスは、思わず足を止めた。


前世で幾人もの武将を見てきた。


剣の達人も、槍の名手もいた。


その目から見ても、兄の動きは悪くない。


「アル?」


ラインハルトが気づいた。


「どうした?」


「見てた」


「そうか!」


ラインハルトは嬉しそうに笑った。


「お前も剣をやるか?」


「まだ重いよ」


「ははは! 確かにな!」


兄は木剣を肩に担いだ。


「でも、いつか一緒に稽古しような」


「うん」


「俺が教えてやる!」


アルヴィスは、小さく頷いた。


前世の自分は、剣だけで天下を取ったわけではない。


鉄砲を集めた。


城を築いた。


人を動かした。


そして、時には古い考えを捨てた。


だが、武を知らぬ者が、武を語ることはできない。


この世界でも、剣は重要な力なのだろう。


「兄上」


「何だ?」


「剣だけで、どこまで強くなれる?」


ラインハルトは少し考えた。


「そうだな……」


そして、笑った。


「少なくとも、お前を守れるくらいにはなりたいな!」


アルヴィスは、思わず言葉を失った。


「……僕を?」


「ああ!」


兄は当然のように頷いた。


「俺は兄だからな!」


その言葉には、何の迷いもなかった。


アルヴィスは、しばらく兄を見つめた。


前世では、強さは支配するためのものだった。


敵を倒すため。


国を奪うため。


天下を取るため。


だが、この兄は違う。


誰かを守るために、強くなろうとしている。


「……そうか」


アルヴィスは、小さく笑った。


「じゃあ、僕も強くなるよ」


「おう!」


ラインハルトは、豪快に笑った。


「楽しみにしてるぞ!」


*


その夜。


アルヴィスは、自室の窓から外を眺めていた。


屋敷の向こうには、小さな町が広がっている。


そのさらに先には、暗い森と山々。


前世で見た尾張の景色とは、まるで違った。


「……天下か」


思わず、口にする。


この世界にも国がある。


王がいる。


戦争がある。


そして、人は争う。


ならば、天下というものも存在するのだろう。


だが、今世でもそれを求めるべきなのか。


信長には、まだ答えがなかった。


そのとき。


窓の外を、一筋の青い光が横切った。


「……何じゃ?」


光は庭の上を漂い、やがて消えた。


小さな虫のようにも見えた。


だが、あれほど明るく輝く虫など、前世では見たことがない。


「魔法、か」


信長は、小さく笑った。


どうやら、この世界にはまだまだ知らぬことがあるらしい。


そして。


その夜、アルヴィスは初めて、炎の夢を見なかった。


代わりに夢に現れたのは、母と兄たちが笑う食卓だった。


*


翌朝。


アルヴィスが食堂に入ると、父と母が何やら話していた。


「王都から?」


「ああ。古い知人だ」


グレゴールが答える。


「しばらく領内に滞在することになった」


「どなたなの?」


「魔術学院で学んだことのある男だ。少し変わり者だが、腕は確かだよ」


アルヴィスの足が止まった。


魔術学院。


その言葉に、胸が高鳴る。


「お父様」


「ん?」


「その人、魔法使いなの?」


グレゴールは、少し驚いたように目を丸くした。


そして、笑った。


「ああ。そうだよ」


アルヴィスは、窓の外を見た。


昨日の夜、庭を横切った青い光。


あれは、何だったのだろう。


魔法。


この世界に存在する、未知の力。


前世では、どれほど望んでも手に入らなかったもの。


それを、学べるかもしれない。


「……面白い」


小さく呟く。


かつて、鉄砲という新しい武器に可能性を見出したとき。


あの胸の高鳴りを、思い出した。


そして、数日後。


レーヴェン家の屋敷に、一人の魔法使いが訪れることになる。


その出会いが、アルヴィスの新たな人生を大きく変えていくことを。


このときの彼は、まだ知らなかった。

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