「本能寺の炎」
天正十年、六月二日。
京の空が、赤く染まっていた。
夜明けには、まだ早い。
だというのに、本能寺の障子の向こうでは、無数の松明が揺れていた。
「何事じゃ」
織田信長は、静かに目を開いた。
廊下を駆ける足音。
怒号。
そして、遠くから聞こえる金属のぶつかり合う音。
尋常ではない。
信長が身を起こすと、襖が勢いよく開かれた。
「上様!」
駆け込んできた小姓の顔は、青ざめていた。
「敵襲にございます!」
「敵?」
信長は眉をひそめた。
ここは京の本能寺。
天下統一まで、あと一歩。
西国では羽柴秀吉が毛利と戦い、畿内には明智光秀がいる。
この京で、自分に刃を向ける者など、いるはずがなかった。
「旗印は」
小姓は一瞬、言葉を詰まらせた。
「……桔梗にございます」
信長の表情が変わった。
桔梗。
その紋を掲げる者を、信長はよく知っていた。
「光秀か」
口にした名が、妙に遠く感じられた。
明智光秀。
才覚があり、礼節を知り、戦も政も任せられる男。
信長が重用してきた家臣の一人だった。
「兵の数は」
「数千……いえ、それ以上かと!」
対する本能寺の守りは、わずか。
勝敗など、考えるまでもなかった。
信長はしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「是非に及ばず」
その声に、震えはなかった。
*
火の手が上がった。
乾いた木が爆ぜ、黒い煙が天井を這う。
信長は弓を取り、迫り来る敵兵に矢を放った。
一人。
また一人。
だが、敵は尽きない。
やがて弓を捨て、槍を手にした。
「上様! お逃げください!」
「どこへ逃げる」
信長は短く答えた。
逃げ道は、すでに塞がれている。
炎は柱を伝い、屋根へと広がっていた。
熱気が肌を焼く。
煙が喉を刺す。
それでも信長は、不思議と冷静だった。
思い浮かぶのは、これまでの人生だった。
尾張の小さな大名家に生まれたこと。
うつけと呼ばれた若き日。
桶狭間で今川義元を討ったこと。
美濃を手に入れ、岐阜の地から天下を見据えたこと。
そして、幾度となく味わった裏切り。
「……あと少しであったものを」
天下は、もう目の前だった。
だが、それ以上に胸に残ったものがある。
家臣たちの顔だった。
自分のために命を落とした者。
自分が切り捨てた者。
最後まで信じてついてきた者。
信長は、誰よりも天下を欲した。
そのためなら、情を捨てることもあった。
それが間違いだったとは思わない。
しかし。
もし、もう一度やり直せるなら。
同じ道を選ぶのだろうか。
「……くだらぬ」
信長は自嘲するように笑った。
死を目前にして、今さら何を考えている。
炎が迫る。
信長は奥の間へと退いた。
外では、まだ戦いの音が続いていた。
最後まで自分を守ろうとする者たちがいる。
その事実が、胸の奥に重く沈んだ。
「すまぬな」
誰に向けた言葉だったのか。
信長自身にも、分からなかった。
やがて、燃え盛る梁が崩れ落ちた。
視界が赤く染まる。
熱も、痛みも、音も。
すべてが遠ざかっていった。
そして――
織田信長の人生は、終わった。
はずだった。
*
最初に感じたのは、寒さだった。
次に、柔らかなものに包まれている感覚。
誰かの声が聞こえる。
「……元気な男の子ですよ」
女の声だった。
聞き慣れない言葉。
いや。
不思議なことに、その意味は分かった。
「よく頑張った、エレナ」
今度は男の声。
低く、温かい声だった。
信長は目を開けようとした。
だが、視界がぼやけている。
身体も思うように動かない。
手を上げようとして、奇妙なことに気づいた。
小さい。
あまりにも、小さい。
「……あ?」
声を出したつもりだった。
しかし、口から漏れたのは、か細い泣き声だった。
「まあ、泣いたわ」
「ははは! 元気な証拠だ!」
男が笑う。
信長は混乱していた。
何が起きた。
本能寺はどうなった。
光秀は。
京は。
そして、自分は。
必死に身体を動かそうとする。
しかし、手足は短く、力も入らない。
そこで、ようやく理解した。
――赤子だ。
自分は、赤子になっている。
「名前は決めているの?」
女が尋ねた。
「ああ」
男の声が近づいた。
大きな顔が、視界を覆う。
茶色の髪。
青い瞳。
見たこともない顔立ちだった。
「アルヴィス」
男は優しく言った。
「アルヴィス・フォン・レーヴェン。我が家の三男だ」
アルヴィス。
それが、新しい自分の名らしい。
信長は、心の中で繰り返した。
織田信長ではない。
アルヴィス。
何とも奇妙な響きだった。
だが、それ以上に奇妙なことがあった。
男の背後。
石造りの壁に掛けられた灯りが、青白く輝いていた。
炎ではない。
油の匂いも、煙もない。
それなのに、光っている。
「魔石灯もそろそろ替え時ね」
女が言った。
魔石灯。
聞いたことのない言葉だった。
男は灯りに手をかざした。
「灯れ」
その瞬間。
青白い光が、ひときわ強く輝いた。
信長は目を見開いた。
術か。
いや、南蛮の技術か。
だが、あの男は何も持っていない。
ただ手をかざし、言葉を発しただけだ。
「……あ、ああ!」
驚きの声を上げたつもりだった。
しかし、またしても赤子の泣き声になった。
「おやおや、驚かせてしまったかな」
男が苦笑する。
女は信長を抱き直し、優しく揺らした。
「大丈夫よ、アルヴィス」
その声には、何の打算もなかった。
何かを求めるわけでもない。
ただ、目の前の小さな命を慈しむ声だった。
信長は黙った。
前世にも母はいた。
だが、母に抱かれた記憶など、もはや遠い昔のことだった。
この温かさを、どう受け止めればよいのか分からない。
やがて、身体が眠りを求め始めた。
抗おうとしても、まぶたが重い。
天下人であった男が、赤子の眠気一つに勝てない。
何とも情けない話だった。
――まあよい。
信長は、心の中で呟いた。
何が起きたのかは分からぬ。
ここがどこかも分からぬ。
だが。
生きている。
あの炎の中で終わったはずの命が、今、確かにここにある。
ならば、まずはこの世界を知ろう。
天下を望むかどうかは、その後に決めればよい。
そう考えたところで、信長の意識は眠りに落ちた。
*
同じ夜。
レーヴェン領から遥か東方。
大陸の中央にそびえる、古びた塔。
その最上階で、一つの水晶が赤く輝いた。
誰もいないはずの部屋に、声が響く。
『一つ目の魂を確認』
水晶の内部に、見知らぬ文字が浮かび上がる。
『記憶継承、成功』
『適合率、測定不能』
しばらくの沈黙。
そして、別の声が答えた。
『……また、始まるのか』
『ええ』
『今度こそ、変わると思うか?』
赤い光が、ゆっくりと脈打った。
『分かりません』
声は、静かに続けた。
『ですが、今回の魂は少し違います』
『何が違う』
『この者は、すでに一度、天下を失っています』
水晶の光が消える。
闇の中に、最後の言葉だけが残った。
『次は、何を選ぶのでしょうね』




