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第九話 サイレントレギュレーション

気づけば、俺はまた「あの場所」に立っていた。 目の前には、使い回しのテクスチャかと思うほど見慣れた職員の顔。槍を持ち、帳面を抱え、人生の全てを諦めたような疲れた目——うん、いつものおじさんだ。


「武器は何にする」


「剣で」


もはや「いつもの」と注文する定食屋の常連気分である。

俺の思考は、すでに次の工程——いわゆる「攻略チャート」の確認へとシフトしていた。


今回は様子見という名の無駄残業はしない。試合開始のブザーが鳴った瞬間に、俺の全リソースを投入して動く。やることは、もう決まっているんだ。


おじさんから、いつもの果実を受け取って齧る。 安定の甘さ。このブラックなループの中で、唯一品質が保証されているのがこの味だ。


「初戦の相手があいつとはな。運が悪い」


「そうですね」


テンプレ通りの同情に、俺は初めて「台本通りではない」返信をした。 今日に限っては、そうでもない。この「運の悪さ」を逆手に取って、盤面をひっくり返してやるつもりだからな。


———


重厚な扉が開き、視界に光が飛び込んでくる。


地響きのような歓声、靴底から伝わる砂のざらついた感触。そして正面には、緋色の髪を揺らすアリシア。


彼女が俺を捉えた瞬間、その瞳がわずかに細くなった。 向こうには前回の記憶なんて一ミリもないだろうが、俺には「彼女が妹のために戦っている」という重要機密を含め、全てのデータが揃っている。

そして、試合開始の合図。


俺は、一秒の躊躇もなく自分の手のひらを裂いた。 あらかじめ握りしめていた石の欠片を、迷わず肉に食い込ませる。


痛み? ああ、もうそんなもの、毎日の残業代が出ないことへの怒りに比べれば些細なものだ。 切り裂かれた傷口が、物理法則を無視した黒い穴へと変わる。青黒い液体がドロリと滲み、その内側から魔剣の柄がせり出してきた。それを一気に引き抜く。


ここまでの所要時間、わずか数秒。 自分でも惚れ惚れするような、鮮やかな自傷セルフ・ハックである。


魔剣が、俺の意思に応えて脈打った。


全身に力がみなぎり、重心がどっしりと安定する感覚。霧がかった視界がパッと晴れ、世界が鮮明に補完される。


この「呪いの装備」を手にするたびに、俺の体は「ここからが本番のデスゲームだ」と勝手に理解してしまうらしい。


そして、俺は奥の手を繰り出した。


今回は、手加減も出力制限も一切なしだ。


胸の奥に沈んでいる〈抑鬱の魔障気〉を、バケツをひっくり返すどころか、ダムを決壊させる勢いで一気に解放した。


紫がかった不気味な霧が、俺の足元から爆発的に広がっていく。砂の上を這い回り、壁を駆け上がり、やがて観客席全体を飲み込む巨大なドームへと成長した。通路の奥、控室の隅々まで、俺の放ったデバフの霧が届いていくのが分かる。


「(あまり広げすぎると一人当たりの効果が薄まるんだけどな……)」


そんな懸念を打ち消すように、俺は全意識を「脱力」という一点だけに注ぎ込んだ。 敵意を削ぐんじゃない、生きたいという気力すら奪い去る、最強の「やる気ゼロ」空間だ。


効果は劇的だった。


霧に触れた観客たちが、まるで電池の切れたおもちゃみたいに、前列から順番に崩れ落ちていく。どさり、どさり。 そこには怒号も悲鳴も、ドラマチックな別れの言葉もない。


ただただ、重力に逆らうことをやめた肉体が、砂や椅子の上に沈んでいくだけだ。 威張っていた看守も、利権を貪る関係者も、等しく昏睡の淵へ。


会場を支配していた耳障りな歓声は、ぷつりと途切れて、完全に消滅した。

静寂が、来た。 不自然なほど、純粋で、濃密な無音。このクソみたいな闘技場に来てから、一度も聞いたことのないタイプの「本当の静寂」が、円形の空間を満たしていた。


「ふぅ……」


俺は小さく息を吐き出した。 ぶっつけ本番の無差別広域デバフだったが、制御は完璧だ。 アリシアは立っている、俺も立っている。それ以外のモブは全員、気持ちよく夢の向こう側だ。


アリシアが、俺を見ていた。 その表情は、明らかな困惑に染まっている。三年間、鉄の仮面を被り続けてきた彼女が、これほどまでに動揺を露わにしたことがあっただろうか。あの分類不能な魔剣を抜いた時でさえ一瞬で持ち直した彼女が、今は闘技場ごと塗り替えられた光景を前に、処理能力が限界を迎えているようだった。


警戒のレベルがさらに一段階跳ね上がるのが分かった。 俺は剣を構えたままでいたが、あえて踏み込まなかった。


「(さて、ここからが本番の商談だ)」


話すべきことは山積みだ。死に戻りのループのこと、何千回、何万回とここで彼女に殺され続けてきたこと、その度にお前の悲しそうな顔を見てきたこと。 そして何より——俺がお前を助けに来たんだという、一番恥ずかしい告白を。


俺は、意を決して口を開いた。



———


その瞬間。 プツン、と世界の電源が落ちた。


視界が真っ暗になり、音という音が消失した。 砂の熱も、魔障気の冷たさも、アリシアの困惑した顔も、全てがコンセントを抜かれたモニターみたいに消え去った。

次に意識が再起動したとき。 俺は、あの不吉なインテリアしかない空間にいた。

果てしない闇、血塗られた断頭台。そして——。


「久しぶりだね」


「運営」のお出ましだ。アガナエルが、そこにいた。 黒紫のローブに、フードの奥で怪しく光る琥珀色の瞳。 俺はこっちの世界で何千回死んだか分かったもんじゃないが、この神様気取りの管理者は、最初に出会った時からドットの欠け一つなく、何一つ変わっていなかった。


俺はしばらく無言で、そのうさんくさい姿を眺めた。


「……呼んだのか」


「そうだよ」



アガナエルは、冷やし中華でも注文するような淡々としたトーンで答えた。


「それはやってはいけないことだ」


何を、なんて聞く必要はなかった。 死に戻りの内情を他人に話そうとしたこと。システムの核心部分に触れようとしたこと。


それが規約違反(BAN対象)だったらしい。 この呪いには、他言無用という鉄のルールがあることを、俺は今、身をもって理解した。


「分かった」


俺は短く答えた。 アガナエルは、俺の反応が予想外だったのか、わずかに目を細めた。



「怒らないのか」


「怒っても、仕様が変わるわけじゃないだろ」


「そうだね」


重苦しい沈黙が流れる。


アガナエルの視線は、まるで希少なバグを発見したデバッカーのように、俺をじっと観察していた。


「正直に言うと、君がここまでやると思っていなかった」


アガナエルがポツリと漏らした。 俺は眉をひそめた。


「何千回とあの相手に挑み、勝てない相手にそれでも繰り返した。私の予想では、君は途中で折れると思っていたよ」


「折れる、って?」


「永遠に殺され続ける側に落ちる、ということだ。心を殺し、動くことをやめて、ただ何度も機械的に死を繰り返すだけの肉塊になる。そういう形の『罰』もあるからね」


俺は少し考えてみた。 確かに、そのルートもあり得たかもしれない。何百回、何千回と同じ少女に殺され続けて、心が粉々に砕けて、ただリセットされるのを待つだけの廃人になる未来。


それを想像するのは、決して難しくなかった。


「なかったとは言えないけどさ」


俺はアガナエルを見据えて言った。


「でもやめなかったのは、特別な正義感とかがあったわけじゃない。ただ、ここでやめたら全部が無意味になって、本当に終わってしまうと分かってたからだ。だから、やめなかった。それだけだ」


「それで十分だ」


アガナエルは、それだけを言った。 肯定とも否定とも取れないが、俺の「社畜並みのしぶとさ」を認めたような言い方だった。


「それと」とアガナエルが続ける。


「魔剣の引き出し方に自力で到達したこと。教えていなかったはずだが、驚いたよ」


「怪我をすれば中身が出てくるってことは、最初の頃に偶然気づいただけだ」


「偶然ではないが、君にはそう見えたのかもしれないね」


相変わらず意味深なことを言う奴だと思ったが、あえて突っ込まなかった。どうせまともに答える気なんてないだろう。この数千回のループで、こいつとのコミュニケーションコストの高さだけは嫌というほど学んでいたからな。アガナエルが、少しの間を置いてから、真っ直ぐな問いを投げかけてきた。


「何故、あの女を救おうとする?」


問いかけは、あまりにストレートだった。


俺は自分の中に答えを探した。 義侠心? 英雄願望? いや、そんな高尚なものじゃない。元の世界での俺は、他人の不幸なんてニュースの天気予報くらいにしか思っていなかった、ただの冷めた社会人だ。


「自分が苦しむのは、別に構わないんだ」


俺は口を開いた。


「それはもう、自分のしでかしたことへの『罰』として受け入れてる(なわけあるかバーカ)。何千回死のうが、痛い思いをしようが、それは俺一人の話だ。でも——」


脳裏に、アリシアの顔が浮かぶ。 俺を斬る瞬間の、あの顔。何かを必死に守り、悲しみを押し殺し、感情をすり減らしながら剣を振り続けてきた、あの孤独な顔。


「あれだけ何度も、あんな苦しそうな顔を見せられてさ。助けないなんて選択肢、俺のリストには入ってなかったんだよ」


それだけだ。 格好いい英雄譚でも、論理的な最適解でもない。ただ、見てしまったから。何千回も、嫌というほど見続けてしまったから。たったそれだけの理由で、俺は動いている。


アガナエルは、しばらく俺を見ていた。 肯定も否定もしなかったが、わずかな沈黙の後、その視線は断頭台へと動いた。


「そろそろ時間だ」


「……だろうな」


俺は小さく息を吐いた。


またこのパターンか。


思わず苦笑が漏れたが、今さら抵抗する気にもなれなかった。どうせ無駄だってことは、最初の一回で学習済みだ。 それに——今回は、なぜか怒りはなかった。

俺は自分の足で歩いた。 断頭台の前で、慣れた手つきで(嫌な慣れだが)膝をつく。首を差し出すと、枷が冷たくはまった。 頭上で、刃がギチギチと軋む嫌な音が響く。


(また死ぬのか、俺……)


と思ったが、まあいいか、とも思った。 どうせ戻る。戻ったら、今度はこの「ネタバレ禁止」というクソみたいなルールを守りながら、別の攻略法を考えるだけだ。 ルールの範囲内で、できることを全部やる。 それだけだ。


刃が、落ちた。


———


次に目を開けたとき、俺はまた通路に立っていた。 目の前には、職員。帳面、槍、疲れた目。


「武器は何にする」


「剣で」


答えながら、俺は今回の「BAN」で得た教訓を頭の中で整理していた。

死に戻りの内情は話せない。


それがこのゲームの仕様だ。 でも——救うことはできる。


「俺は死に戻りしてるんだ!」なんて叫ばなくても、彼女を助けるルートは必ず存在するはずだ。 集めた情報を使いながら、でもネタバレはせずに動く。


その繊細な立ち回りを、次のターンで考えなければいけない。


おじさんから、果実を受け取る。


「初戦の相手があいつとはな。運が悪い」


「そうですね」


職員が先を歩き、通路の先に光が見えた。 ルールは分かった。禁止区域も分かった。


あとは、その中でできることをやる。 それだけだ。

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