第十話 奇策
目の前には、これまた見慣れすぎて親近感すら湧いてきた職員のおじさん。
帳面、槍、そして「月曜朝の満員電車に乗るサラリーマン」のような、全てを諦めきった疲れた目。一寸の狂いもなく、世界はまたここから再起動したらしい。
「武器は何にする」
「剣で」
もはや「いつもの」で通じるレベルの注文だ。おじさんから果実を受け取り、迷わず齧る。甘い。安定のクオリティだ。
「初戦の相手があいつとはな。運が悪い」
「ですね」
これまでの「そうですね」から「そう」を抜くくらいの、やる気のない相槌を返しておく。今の俺の頭の中は、これから実行する「攻略チャート」のシミュレーションでいっぱいなのだ。通路の先の光を見据え、耳に届く野蛮な歓声を聞きながら、俺はニヤリと笑った。
計画は、ある。
———
重厚な扉が開き、砂の熱気が肌を焼く。正面には、緋色の髪を揺らすアリシア。
「(さて、さっさと前座を済ませるか)」
合図が鳴ると同時に、俺は自分の手のひらを裂いた。
痛みにはもう、スマホの通信制限にかかった時くらいの苛立ちしか感じない。
傷口から広がる黒い穴、溢れ出す青黒い液体。
そこから魔剣を引き抜けば、体に理不尽なまでの力が満ちていく。そして、今回のメインディッシュ——霧の展開だ。
ただし、今回は闘技場全体を覆うような派手なことはしない。あんなことをすれば、また「運営」からネタバレ禁止のBANを喰らってしまう。
俺は魔障気を、二人の周囲だけに極端に圧縮して展開した。薄く、だが密度を上げて。
観客席からは、陽炎の向こうで二人が激しく切り結んでいるように見える——という「偽装工作」だ。
外側からは戦闘続行、内側では完全な「密談空間」。我ながら、社畜時代に培った「やってる感だけ出す」技術がこんなところで役に立つとは。
静寂が来た。
アリシアは一瞬で警戒を最大まで引き上げ、全方位をカバーする構えに変えた。その琥珀色の瞳が、困惑と鋭い殺気を帯びて俺を射抜く。
俺は剣を構えたまま、さらりと「不審者度マックス」の台詞を投げかけた。
「お前の事情を知っている」
アリシアの目が、ナイフのように細くなった。
「妹のこと。百連勝の条件。オーナーとの取引。……全部だ」
「……何故」
「それは言えない」
本当は「お前に何千回も殺されてる間に、霧の中で聞いたんだよ」と正直に言いたい。だが、それを言えば即座に断頭台行きだ。ルールの範囲内で、俺は先に進むしかない。
「助ける」
はっきりと言い切った。アリシアは即座に「信じられるわけがない」「方法もない」と切り捨ててきたが、その瞳の奥には、ほんの僅かな期待の揺らぎがあった。
「策があるのか」
「ああ。……俺を、殺せ」
沈黙。
それも、今度は「こいつ、ついに頭がイカれたのか?」という、憐れみすら混じった種類の沈黙だ。
アリシアの眉が寄り、感情が表に出た。鉄の仮面を被っていた彼女が、ここまで人間らしい顔をするのを初めて見た気がする。
「合図を出す。その瞬間、胸を剣で貫け。……俺を信じろ」
「理由もなく信じられるか」
「俺もそう思う」
我ながら説得力ゼロの提案だ。だが、他に方法がないのも事実。俺は、自分自身の魔剣を持つという特性を、初めて戦略的に、かつ物理的なバグとして利用することに決めたのだ。
———
「……戦闘再開だ」
霧を解除すると同時に、世界に音が戻った。観客の歓声、砂の熱気。
俺は「勝ちに行かない戦い」を開始した。
ただ受け、いなし、距離を保つ。アリシアの攻撃を流しながら、完璧なタイミングを図る。社畜が会議で「今だ!」と発言するタイミングを伺う、あの集中力だ。
数合、十数合。剣が交差するたび、火花が散る。
「今だ」
俺はわざと、体の右側をガラ空きにした。剣を振った後の体勢をわざと戻さない、明確な「誘い」。プロのアリシアからすれば、あまりにも不自然で、けれどあまりにも魅力的な隙。
彼女の目が、一瞬だけ揺れた。迷い、そして——長年の反射が、その迷いを上回った。
まっすぐに、彼女の剣が俺の胸に向かって突き出される。
ドシュッ。
剣が胸に触れ、そのまま吸い込まれるように入っていった。
◇———
アリシアは、困惑していた。
確かな手応えはある。剣は間違いなく、男の胸に深々と突き刺さった。なのに——肉を裂く感触も、骨に当たる抵抗もない。
まるで、最初からそこに「空間」があったかのような、不気味な軽さ。
次の瞬間、俺は砂の上に崩れ落ちた。動かない。 観客の歓声が、爆発的な音となって頭上で弾けた。
アリシアが剣を引き抜く。その刃には、返り血一滴すらついていなかった。
———
「(……大成功、だな)」
砂の上で倒れたまま、俺は心の中でガッツポーズをした。
種は単純だ。魔剣を取り出す時の「黒い穴」は、自傷と明確な意思さえあれば、体のどこにでも開けられる。試合前に指先で試して確信を得ていた。俺は、アリシアの剣が当たる直前、胸の中心に小さな「穴」を展開したのだ。
外からは致命傷。内側では、剣はただ穴を通り過ぎただけ。血も出ないし、傷もない。アリシアが引き抜いた瞬間に穴を閉じれば、証拠も残らない。
「(九十連勝の剣姫相手に『死んだふり』で勝つ(負ける)とはな……。アガナエルも今頃、開いた口が塞がらないんじゃないか?)」
アリシアの足音が遠ざかっていく。刃に血がついていない違和感に気づいたはずだが、審判と観客が「死亡」と判定すれば、それでこの場は成立するのだ。
———
無言の男たちが俺を担架に乗せた。死体に興味を持つ観客なんていない。
俺は「荷物」として、闘技場の裏側へと運ばれていった。
曲がりくねった石造りの廊下を進み、歓声が遠ざかっていく。重い扉が開かれ、俺は冷たい床に置かれた。扉が閉まり、人の気配が完全に消える。
俺は、ゆっくりと目を開けた。
そこは薄暗い、石造りの部屋だった。小さな窓から差し込む光が、部屋の隅にある「布をかけられた何か(他の死体)」を照らしている。……うん、見ないことにしよう。
俺は起き上がり、胸に手を当てた。傷一つない。当然だ。 だが、心臓はまだ、さっきの「バグ技」のスリルを覚えていて、うるさく鳴っていた。
「笑えるな……。最終的に死んだふりで局面を打開するなんて」
ドアノブに手をかける。鍵はかかっていない。外側から閉めただけだ。
ここから先は、俺が一度も踏み込んだことのない「闘技場の外側」だ。アリシアが、アイリスが、そしてあのクソオーナーがいる、未知の領域。
「……さて、残業といこうか」
戦いは終わったわけじゃない。むしろ、ここからが本当の「攻略」の始まりだ。




