第十一話 潜入
人の気配が、完全に消えた。
俺はしばらくの間、微動だにしなかった。目を閉じたまま、呼吸を「死んでいる」と判定されないギリギリのラインまで浅くし、全神経を耳に集中させる。
遠くで地響きのような歓声が聞こえる。廊下を誰かが歩く足音が近づいては遠ざかり、扉の向こうで交わされた短い会話も、やがて消えていった。
「……よし、本当に静かになったな」
ようやく目を開ける。 そこは、薄暗い石造りの部屋だった。小さな窓から差し込む光は心細いほど弱く、部屋の隅には布をかけられた「形」がいくつか並んでいる。
……うん、見ないようにしていたが、要するに今日の試合で負けた連中だ。俺の「同僚」たちである。
俺は静かに、そして慎重に起き上がった。 生きている。傷一つない。そんなことは「仕様」として分かっていたが、改めて自分の五体満足な体を確認すると、妙な実感が込み上げてきた。
「……まじで、あの死んだふり作戦が通ったのかよ」
九十試合無敗の剣姫と、熱狂する数万の観客。
それら全てを相手に「胸に穴を開けて貫かれたふりをする」という、物理法則を悪用したバグ技が機能してしまった。
笑いが込み上げそうになったが、ここで笑ったら「死体が起きて笑い出した」というホラー映画顔負けの事態になる。え?おもしろくないって?
俺は必死に感情を殺し、次のフェーズへと頭を切り替えた。
ここからが、本当の意味での「攻略」だ。
———
まず最初に直面したのは、極めて現実的な問題だった。
「死んだはずの男」が堂々と廊下を歩いていれば、どれだけ間抜けな衛兵でも「……え、ゾンビ?」と気づくだろう。
気づかれた瞬間に、俺の潜入作戦はバッドエンド、あるいは強制リロード行きだ。 つまり、今の俺に必要なのは戦闘力ではなく、「この場所にいて当然の人間」に見せかけるステルス能力である。
俺は部屋の中をデバッガーのような視線で走らせた。
すると、部屋の隅に畳まれた作業着を発見した。くたびれた麻の上着に、同じ素材のズボン。血と汗の染みが何層にもミルフィーユ状に重なっている、年季の入りすぎた一品だ。 おそらく、この部屋で死体を処理する係の人間が脱ぎ捨てたものだろう。
「……まじか。これ着るのか、俺」
自分の格好を見る。剣闘士に支給される薄い服。これは「私は不審者です」と自己紹介しているようなものだ。
選択肢はない。
俺は覚悟を決めて着替えた。
「……くっさ!!!」
思わず絶叫しそうになった。正直、言葉を失うレベルで臭かった。
「異世界に来て最初の変装が、死体処理係の異臭漂う作業着だなんて聞いてないぞ」
という文句が喉元まで出かかったが、それを飲み込まないとやってられなかった。
二十六年の人生で培った「嫌な仕事でも我慢する」という社畜の忍耐力が、今、異世界の地で花開いている。
格好は整えた。次は、情報だ。
この闘技場の構造について、俺はほとんど何も知らない。知っているのは、試合場と血生臭い通路と、あの狭い檻の中だけだ。アリシアがどこにいて、アイリスがどこに閉じ込められ、あのクソオーナーがどこでふんぞり返っているのか。全てが霧の中だ。
「分からないなら、歩いて覚えるしかないか。……フィールドマップの全埋め作業、開始だ」
俺は慎重に、扉に手をかけた。
———
廊下は、地下特有の澱んだ空気に満ちていた。
俺は作業着に身を包んだまま、ゆっくりと歩き出した。背中を少し丸め、視線を落とし、心の中で「俺は清掃員、俺は清掃員……」と自己暗示をかける。
「仕事をしている人間」特有の、あの「やる気のなさと義務感の混じった雰囲気」を出すのがコツだ。
堂々としすぎても怪しいし、挙動不審すぎても目立つ。
この絶妙なライン、日本の満員電車で鍛えた俺の「気配消し」ならいけるはずだ。
最初の角を曲がったところで、中年の男とすれ違った。
同じような作業着を着た男だ。一瞬、心臓が爆発しそうになったが、男は俺を一瞥しただけで、すぐに興味を失ったように視線を外した。
「(……勝った)」
人間は見たいものを見る。
作業着を着た人間がいれば「ああ、作業員か」と判断する。 脳の認識バグを突く、これが社会人のステルス術だ。
歩きながら、俺は建物の構造を頭に叩き込んでいった。
まず、ここは地下だ。天井が低く、窓がなく、湿気が肌にまとわりつく。ここが闘技場の心臓部——試合場と収容所がある階層だ。 剣闘士たちの区画を通り過ぎる際、格子の向こうに座り込む疲れた顔の連中が見えた。彼らは俺を見ても、何の関心も示さない。他人に構う余裕なんて、ここには一滴も残っていないんだろう。
だが、そこにアリシアの姿はなかった。 「九十試合無敗の稼ぎ頭」を、一般の奴隷と同じ劣悪な場所に閉じ込めているはずがない。そう自分に言い聞かせ、俺は地上へと繋がる階段を探し当てた。
———
地上一階に上がると、空気が劇的に変わった。
廊下の壁はきれいになり、地下のような不快な湿気も消えた。代わりに増えたのは、人間だ。
商人、観客、警備の兵士。多種多様なモブキャラたちが行き交い、活気に満ちている。
扉越しに、あの野蛮な歓声がはっきり聞こえてくる。
俺が死んだふりをして運び出されている間も、この場所では次の使い捨ての命が砂を汚していたわけだ。つくづく、胸糞の悪いエンタメ施設である。
地上二階も、似たような構造だった。 少し装いのいい連中が集まっているところを見ると、より高い席を買った貴族や成金の区画らしい。
態度が無駄に大きいのが、何よりの証拠だ。
「……ここにもいないか」
俺は廊下の隅で立ち止まり、考えた。 地下、一階、二階。どこにもアリシアやアイリスの気配はない。となれば、残る選択肢は一つしかない。 ちょうど通り過ぎた案内板に、おあつらえ向きな文言が書いてあった。
『貴賓区画・関係者以外立入禁止』
「……ラスボスの部屋は、いつだって最上階って決まってるからな」
闘技場の稼ぎ頭であるアリシアを、最も管理しやすく、かつオーナーの目の届く場所に置く。経営者の視点に立てば、当然の判断だ。
目的地は三階。決まりだ。
だが、問題がある。この臭い作業着では、さすがにVIPフロアには入れない。入り口には、見るからに強そうなフルプレートの兵士が二人、門番として立ちはだかっていた。
「次は……警備兵の格好か。わらしべ長者みたいになってきたな」
俺は壁に背中を預け、思案した。
正直に言って、潜入捜査官ごっこなんて俺のキャラじゃない。
元の世界では会社と家を往復するだけの、変装とは無縁の人生を送ってきたんだ。
「でもまあ、何千回も死んで覚えた魔剣もあるし、なんとかなるだろ」 という、あまりにも脳筋な、だがこの世界で唯一頼れる根拠を支えに、俺は警備の薄そうな通路を探して歩き出した。
———
廊下の突き当たりに、絶好の「獲物」を見つけた。 一人の兵士が壁に寄りかかり、手元の食べ物を必死に貪っている。巡回中のはずなのに、注意力が完全に空腹に負けているようだ。
「(……バイトリーダーに怒られるぞ、お前)」
俺は忍び寄り、「すみません」と声をかけた。
兵士が驚いて顔を上げた瞬間——その後は速かった。魔剣を使うまでもなかった。不意打ちに近い形で、相手の意識を効率よく刈り取る。
倒れるより先に体を支え、寝たふりをさせるように壁際に座らせた。息はあるから、数時間もすれば「あれ、俺寝てた?」と起きるだろう。
俺は素早く装備を拝借した。 兜、鎧、腰帯。どれも俺の平均的な体格には少し大きかったが、文句を言っている場合じゃない。 「……うん、まあ及第点だろ」 兜を深く被れば顔も隠れるし、遠目に見れば立派な「警備兵B」だ。臭い作業着を壁の隅に押し込み、俺は大きく息を整えた。
———
ふと、頭をよぎった考えがあった。 魔剣の力を使えば、最初から力押しで行くこともできたんじゃないか? 試合前にあのおじさん——いつも果実をくれるあの人を——倒して、そのまま強行突破する。障害を片っ端からぶった斬って、血の海を渡って目的地まで最短距離を走る。一見、効率的だ。
だが、俺はすぐにその考えを捨てた。 それじゃ、意味がないんだよ
アリシアの居場所も特定せず暴れれば、施設全体が警戒態勢に入る。
そうなれば、オーナーはアイリスをより強固な守りの中に隠すだろう。結果的にアリシアと敵として再会することになり、俺が暴れれば暴れるほど、助けたい相手を窮地に追い込むことになる。
「死んだふり作戦、正解だったな」 騒がしい場所でこそ、静かに動く。
それがこのクソみたいな闘技場で届く場所を広げるための、唯一の攻略法だと分かってきた気がした。
俺は三階への階段を見据えた。 突き当たりに立っている二人の兵士。俺と同じ鎧を着た、「同僚」たちだ。
「……ふぅ」
深呼吸をし、背筋を伸ばし、兜の位置を微調整する。 自分に言い聞かせる。「警備兵が、警備兵のいる場所を歩く。何もおかしくない」と。 自分自身を騙せない嘘は、プロには通用しないからな。
一歩、また一歩。
石段に響く自分の足音を聞きながら、俺は階段を上り始めた。
歓声が遠ざかり、代わりに「支配」の気配が濃くなっていく。 三階。アリシアがいる場所。アイリスがいる場所。
そして、この全ての悲劇を司るオーナーが待つ場所へ。




