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第七話 未知

砂の感触は、いつもと同じだ。

 足を踏み出すたび、靴底越しに伝わってくる細かな粒の沈み込み。蹴り出す時の確かな抵抗。三年間、この円形の檻の中で何百回、何千回と繰り返してきた感覚だ。私の体はこの砂の質感を、まるで自分の皮膚の一部であるかのように完璧に記憶している。


 頭上からは、滝のように歓声が降り注いでいた。 「アリシア!」「殺せ!」「緋色の剣姫!」 熱を帯びた、無責任で野蛮な人間の叫び。けれど、今の私にとってそれは「意味のある音」ではない。ただの背景だ。窓を打つ雨音や、森を抜ける風の音と同じ。私の意識の表面を滑り落ちていくだけの、無機質な情報だ。


 視線の先に、今日の「獲物」がいた。


「(新入り、だと聞いていたけれど……)」


 私は対面した瞬間から、無意識に、そして機械的に「観察」を開始していた。 立ち方、重心のわずかな偏り、視線の配り方、呼吸の周期、そして剣を握る指の力加減。それら全てを、一秒にも満たない時間でスキャンし、脳内のデータベースと照合する。それが、この地獄で生き残るために私が身につけた「呼吸」と同じくらい当たり前の習慣。


 ……おかしい。 立ち方が、悪くない。


 重心は正中線からぶれず、視線には迷いがない。この殺気と熱狂が渦巻く闘技場のド真ん中に立たされて、足が竦んでいない。普通の新入りなら、この時点で既に勝負はついている。歓声に呑まれ、視野が狭まり、体が岩のように硬直する。それが「殺される側」の正しい反応だ。


 だが、この男は違った。 異様に、場慣れしている。

 どこかの戦場で死線を潜り抜けてきたのか。それとも、よほど壊れた胆力の持ち主なのか。どちらでもいい。私の出す結論は、常に一つだ。


「問題なく、斬れる」


 ———


 私は「燻り」の構えに入った。 低く、静かに。重心を極限まで落とし、全身をバネのように溜める。 相手の出方を見るための構えだが、実際のところ、相手に出方など選ばせない。私が仕掛け、私が終わらせる。最初の一歩の精度を、神の領域まで高めるための静止だ。

 合図が鳴り響く。

 踏み込んだ。

 一歩。たった一歩で、私と彼の間の距離という概念を消滅させる。 「焔刃流」の初撃。剣筋の周囲に凄まじい熱量が発生し、空気が陽炎のように歪む。 この歪みが、相手の網膜が捉える距離感を狂わせる。見えるはずの刃が、コンマ数秒、本来の軌道から「ズレて」認識される。その瞬間にはもう、私の剣は相手の肉を裂いている。

 ——はずだった。


「……っ!?」


 ズレなかった。 彼の体は、まるで最初からそこへ刃が来ることを知っていたかのように、滑らかな動作で横へ動いた。

 完全に、避けた。 私の剣が、虚空を切り裂く。

 一瞬、私の思考回路が処理落ちを起こした。 この初撃を、初見で、しかも完璧に回避されたのはいつ以来だろうか。 記憶を遡るが、該当するデータが見当たらない。少なくとも、この闘技場に立ってからの三年間、一度としてなかったことだ。


「……避けるか」


 自分の口から声が漏れたことに、自分自身で驚いた。 驚きはある。けれど、それは動揺ではない。ただの情報の更新だ。感情を排し、冷徹に思考を切り替える。


(反応がいい……。いや、それ以上だ。私の軌道を『予測』していた?)


 だとしたら、二撃目。 間を置かず、連撃へと移行する。これで崩れない相手はいない。 一撃を避けても、重力さえ無視するような連続した圧力には対応できないはずだ。動いた体を元の位置に戻す暇も、呼吸を整える猶予も与えない。それが焔刃流の鉄則。


 ———


 ……崩れない。

 防いでいるわけでも、受けているわけでもない。 「流して」いるのだ。 私の攻撃の軌道を完璧に読み切り、最小限の動きで回避を選択し続けている。 彼の動きには、確かに無駄がある。洗練されていない。洗練とは程遠い、素人の泥臭さがある。……だが、当たらない。


「(なら、これならどう?)」


 私は出力を上げた。 大気の「揺らぎ」を強める。剣筋の歪みをさらに増幅させ、陽炎の密度を上げる。 どこから来るか分からない、いつ届くか分からない。相手の視界を錯覚の地獄へと叩き落とす動き。


 けれど、対応される。 完全ではない。服の端を掠め、皮膚の表面を僅かに裂いた。 けれど、致命傷には程遠い。

 私の脳内で、彼に対する評価が再び書き換えられた。 新入りなどではない。こいつは、何か別の——。

 同時に、確信も深まる。


「だが、勝てる」


 反撃は来ている。彼には明確な殺意と、反撃の意志がある。 けれど、剣に重みがない。届いても浅い。 何より、「殺しに来ていない剣」だ。技術の不足なのか、それとも信念の問題なのか。どちらでもいい。結果として、彼の剣は私を終わらせる力を持っていない。


 戦闘は続いた。 信じられないことに、彼は折れなかった。

 呼吸は荒れ、肩は上下している。動きの端々に隠しようのない疲労が滲み、限界が近いのは明らかだ。 それでも、彼は最適に近い回避を選び続けている。

 一つ、どうしても拭えない違和感があった。


「経験量に対して、完成度が高すぎる」


 剣を振る技術自体は、素人に毛が生えた程度だ。 それなのに、戦い方の「質」が異常に高い。 剣を知らないのに、戦い方——あるいは「私の殺し方」を知っている。 そんな、パズルのピースが無理やり嵌め込まれたような、奇妙な乖離。


 ———


 けれど、警戒するほどではない。 勝敗に直結しない違和感は、後回しだ。今の私には、確認すべき優先事項が他にある。

 私は構えを「昇炎」へと切り替えた。 剣先を僅かに上げ、踏み込みの圧力を最大化する。 逃げ場を焼き尽くし、力で圧殺する形。これ以上、長引かせる必要はない。終わらせる。


 踏み込む。 連撃。


 彼の回避が、ようやく遅れ始めた。 左に動けば、次の刃がそこにある。右に逃げれば壁が迫る。後退すれば、私の速度がそれを上回る。 選択肢を一つずつ、丁寧に、確実に潰していく。 炎が周囲を囲むように、逃げ場を奪い、追い詰める。これが私の「終わらせ方」。


 彼の足が、止まった。 呼吸が完全に崩れ、膝が砂につく。

 勝負は決まった。 私はそう判断した。 この距離、この体勢。次の一撃をどこに入れるか、私は既に決めていた。


 一気に踏み込もうとした、その瞬間。

 彼は——地面に手を伸ばした。


 ———


 石を、拾った。


 一瞬、理解が追いつかなかった。 投げるのか? いや、この至近距離でそんな小細工は意味がない。 防御に使うのか? 石ころ一つで、私の焔刃を止められるはずがない。


 だが、彼は投げなかった。 防御にも使わなかった。

 あろうことか、彼は自分の手のひらに、その鋭い石の角を押し当てた。 そして、躊躇なく、引いた。


「……何をしている」


 言葉が、漏れた。 二度目だ。一試合の中で二度も言葉を発するなど、三年間で初めてのことだった。


 けれど、その疑問はすぐに、もっと巨大な困惑に塗り替えられた。


 血が、出ない。 裂けたはずの手のひらから、赤い液体が流れてこない。 代わりに現れたのは——「穴」だった。 皮膚の下に、光さえ届かない漆黒の空洞が、不気味に口を開けていた。


 そこから溢れ出したのは、青黒い液体。 ドロリと指を伝い、砂を汚しては消えていく。


 そして、見えた。 剣の、柄。


 人間の、血肉の通ったはずの手のひらから、無機質な剣の柄が突き出している。

 私の思考が、初めて、完全に停止した。


 理解不能。 この三年間、闘技場で数えきれないほどの人間を見てきた。 強い者、速い者、狡猾な者。絶望した者、狂った者、泣き喚く者。 けれど、これは違う。分類できない。どの記憶の引き出しにも入らない。


「止まれ」という本能的な思考が脳をよぎる。 けれど、私の体は止まらなかった。 止める「理由」がないからだ。 相手が何であれ、私のやるべきことは変わらない。 斬る。ただそれだけだ。


 踏み込もうとした。 けれど、視線が逸らせない。


 彼は、迷っていなかった。 その異形の「穴」から突き出した柄を、迷わず掴んだ。 初めて触れるものを手探りで掴むような動きではない。最初からそこにあると、自分の体の一部であると熟知している——そんな動き。


 ———


 引いた。


 肉体の内側から、魂を引きずり出すかのように。 音がするはずのない場所から、金属が擦れる「剣を抜く音」が響いた。


 刀身が現れる。 黒く、青みを帯びた不気味な刀身。 刃に沿って、薄紫の光が生き物のように揺らめいている。


 観客の歓声が、一変した。 耳を劈く轟音だったものが、一瞬で「ざわめき」へと変わる。 熱狂が困惑に、興奮が恐怖に。 それだけの「異常」が、今、目の前の砂の上に顕現していた。


 私は構え直した。 「燻り」でも「昇炎」でもない。 ただ、正面から相手を見据える。 一人の「未知の敵」として。


 理解はできない。説明もつかない。 あの剣が何なのか、なぜ人間の体内にあったのか。何一つ分からない。


 けれど、一つだけはっきりと分かることがある。 「さっきまでとは、別物だ」

 それでも、私の結論は変わらない。


 勝つ。そのために私はここに立っている。 あと十勝。百勝すれば、アイリスをこの地獄から連れ出せる。 その約束だけが、私の命を支えている。この試合を落とすわけにはいかない。


 どんな化け物だろうと、同じことだ。 見て、読んで、崩して、終わらせる。

 私は一歩、深く砂を踏みしめた。 魔剣を手にした男と、緋色の剣姫。 二人の間合いが、再び、爆発的な速度で消えようとしていた。


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