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第六話 理由



剣を振るのは、余計なことを考えないためだ。

まだ夜の帳が降りている、薄暗い訓練室。他の奴隷たちが、明日来るかもしれない「死」の恐怖から逃れるように眠りにふけっている時間。私——アリシアは、たった一人で冷たい空気を切り裂き続けていた。 許可なんて取っていない。けれど、三年間、毎朝欠かさずここに立ち続けていれば、見張りもわざわざ注意する気を失くすらしい。今では、私の存在はこの部屋の備え付けの調度品と同じくらい、当たり前の風景になっていた。


一振り。 また、一振り。


観客たちは、私の剣を「炎を纏っているようだ」と喝采する。 けれど、そんなのは幻想だ。私の剣は燃えてなどいないし、派手な魔法の類でもない。 ただ、高速で振り抜かれる刀身が空気を摩擦し、歪ませる。その僅かな「熱」が、相手の視界に陽炎のような揺らぎを生む。距離感を狂わせ、判断をコンマ数秒遅らせる。 その、瞬きの隙間にも満たない一瞬があれば、勝負を決めるには十分すぎる

「焔刃流」 その本質は、破壊ではなく「認識」の破壊。 速さや力といった物理的な暴力ではなく、相手が「見えている」と信じている世界を、「見えていなかった」に書き換える技術。 師匠はよく言っていた。「炎は揺れるからこそ、美しいのだ」と。 かつてはその言葉の意味がわからなかったけれど、今は嫌というほど理解できる。揺れているものは、決して掴めない。掴めないものに、刃は届かない。そして、届かなければ——死ぬのは相手の方だ

私は剣を止め、額の汗を拭った。 窓の外には、まだ夜明け前の藍色の空が広がっている。 今日も、死と隣り合わせの「日常」が始まる

———

オーナーの部屋は、この血生臭い闘技場の中で、唯一「人間らしい」場所だ。 足元には、汚れ一つない柔らかな絨毯。周囲には、高価そうな調度品や絵画。 私はこの部屋に通されるたび、無意識に足裏に伝わる毛足の感触を確かめてしまう。自分がまだ泥を啜る奴隷ではなく、こうして生きた人間としてこの場所に立っているのだと、自分に言い聞かせるように

「順調だね、アリシア」

書き物をしていたオーナーが、顔も上げずに声をかけてきた。 穏やかな声。怒鳴ることも、直接的な脅しをかけることもない。だがその「余裕」こそが、逃れようのない支配の形を雄弁に物語っていた

「九十勝。このままいけば、すぐだね」

「……はい」

私は短く答える。 オーナーは、まるで「明日も晴れるといいね」と言うくらいの軽さで、「あと十勝。君にとっては簡単なことだろう」と続けた

簡単。 その二文字を、私は心の中でゆっくりと噛み砕いた。 簡単、なはずがない。九十回。九十人の、それぞれの人生を持った人間を斬り伏せ、その命の灯火を奪ってきた重みが、そんな軽い言葉で括れるはずがない。 けれど、そんな私の内面など、この支配者には関係のないことだ。ここで求められているのは、従順な「道具」としての言葉だけ。


「はい」


「いい返事だ」


オーナーがようやく顔を上げ、満足げな笑みを浮かべた。 そこには敵意も害意もない。ただ、何の保証もない。 「百勝したら、君と妹を解放する」という彼の約束に、確固たる証拠なんてどこにもない。あるのは、従わなければ即座に「最悪の事態」が訪れるという、暗黙の事実だけだった。


「妹さんは元気にしているよ。食欲も戻ったらしい」

その一言に、私の心臓が大きく跳ねた。 鎧を纏っていた心が、一瞬で剥き出しにされる。


「……そうですか」

「会いたいか?」

「……試合の後で構いません」


私は、溢れそうになる焦燥を押し殺して答えた。 オーナーの細められた目が、満足感によるものなのか、それとも私を試しているのかはわからない。分かろうとも思わなかった。私はただ、彼の機嫌を損ねないように、静かに部屋を退出した。


———


廊下を歩いていると、角の先に小さな影が見えた。 警護という名の監視役を連れた、私の唯一の宝物。アイリスだ。 彼女は私を見つけると、十二歳の少女らしい、あの頃と変わらない無防備な笑顔で駆け寄ってきた。


「お姉ちゃん!」


「アイリス」


近づくと、彼女は私の袖をぎゅっと掴んだ。 三年前よりは少し大きくなったけれど、それでもまだ、折れてしまいそうなほど小さな手だ。


「今日も、試合なの?」

「そうよ」

「……勝てる?」

「勝つわ」


断言する。迷いを見せることは、自分を疑うことと同じだ。 アイリスは少し俯き、不安そうな声を漏らした。

「……怖くないの?」

私は答えなかった。 怖い、という感情を捨てたわけじゃない。 けれど、それを戦場に持ち込むことは許されない。余計な感情は、剣の揺らぎに繋がる。それは焔刃流の教えであり、私がこの地獄で三年間生き残るために身につけた、自己防衛の手段でもあった。


「大丈夫よ」


代わりに、私はそう言って彼女の頭を撫でた。 アイリスは、疑うことを知らない瞳で私を見上げ、頷いた。 その純粋な信頼は、私にとっての救いであると同時に、肩にのしかかる巨大な岩のような重さでもあった。


この子が笑っている間は、私は止まれない。 この子を守るために戦う。けれど、戦い続ける限り、私は「人殺しの道具」としてこの闘技場に繋ぎ止められ続ける。 百勝すれば、本当に解放されるのか。 その問いの答えは、あえて出さないようにしていた。 考えてしまえば、剣を振る理由が「生存」から「絶望」に変わってしまうかもしれない。理由が変われば、剣が鈍る。剣が鈍れば、私が死に、この子も死ぬ。


「……行くね」

「うん。勝ってね、お姉ちゃん!」


背後から届くアイリスの声を背負って、私は歩き出した。


———


控え室の空気は、いつも通り澱んでいた。 先に入っていた他の奴隷たちが、私の姿を見た瞬間に視線を逸らし、蜘蛛の子を散らすように壁際へ退いていく。 恐怖、あるいは崇拝。 彼らが私をどう見ていようと、どうでもいい。私の強さは、誰かに誇るためのものでも、称賛を浴びるためのものでもないのだから。


装備を整えていると、顔見知りの職員が事務的な口調で話しかけてきた。


「次の相手、新入りだ。昨日入ってきたばかりのやつだよ」


私は無言で、手入れされた愛剣の重みを確かめる。


「まあ、すぐ終わるだろ。あんたには楽勝だ」


楽勝。その言葉も、今の私には空虚に響くだけだ。

相手が誰であれ、私がやるべきことは一つしかない。 見て、読んで、崩して、終わらせる。 相手が強ければ数分かかり、弱ければ数秒で終わる。ただそれだけの、無機質な作業だ。


剣を取り、柄の感触を確かめる。 三年間、何百回、何千回と握りしめてきたこの感触は、今や私の肉体の一部として馴染んでいた。 頭の中で「燻り(いぶり)」の構えを確認する。 低く、静かに。相手の初撃を誘い、その呼吸が乱れた瞬間に全てを奪うカウンターの形。 相手が新入りなら、それだけで十分すぎるはずだ。


深く、長く、呼吸を整える。 そして、自分の中から余計なものを一つずつ、削ぎ落としていく。


恐れ。 躊躇。 罪悪感。


そんなものは、後でいい。今は邪魔なだけだ。 今の私に必要なのは、ただ敵を断つための「剣」そのものになることだけ。


———

石造りの通路を抜けると、大気に混じる熱気が肌を刺した。 耳を劈くような歓声。この音も、今となっては日常の背景音でしかない。 懐かしさも、興奮もない。ただの合図だ。


目の前に、大きな扉がそびえ立っている。 この向こう側に足を踏み出せば、また血と砂の物語が始まる。


私は扉の前で、ほんの一瞬だけ立ち止まった。 瞳の奥に、アイリスの笑顔を浮かべる。 「勝ってね」という、あの子の声が、耳の奥で確かな重りとなって私を支えていた。


理由は、それでいい。 戦うための「緋色の理由」は、今も私の中に燃えている。

扉が、開いた。


溢れ出す光の中へ、私は迷わず一歩を踏み出した

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