第4話 緋色
世の中には、時間の流れを歪ませる魔法が実在すると思う。
楽しい時間は秒で過ぎ去るくせに、嫌な時間は一秒が永遠に感じられるアレだ。
今の俺にとって、「いつ呼ばれるか分からないまま、薄汚い檻の中で出番を待つ時間」は、まさにその極致だった。体感速度で言えば、一分が十分、いや、月曜の朝の会議三時間分くらいの密度がある 。
「……はぁ、帰りたい。まだ最終話回まで見てない漫画があるのによー」
鉄格子に背中を預け、代わり映えのしない天井を眺める 。
外からは、鼓膜を直接ナイフで削るような野蛮な歓声が響いてくる。誰かが戦い、誰かが負け、誰かが死ぬ。その音をBGMに自分の処刑(仮)を待つなんて、どんな悪趣味なエンターテインメントだよ 。
隣の檻にいた中年男は、死地へ向かう兵士のような顔で呼ばれていった。そして、二度と戻ってこなかった 。
上がった歓声の大きさからして、たぶん彼は今頃「砂の上のシミ」の一部になっているんだろう。……笑えない。
「次、お前だ」
ついに、運営(見張り)からの呼び出しが来た。
運命のダイスは振られた。あるいは、強制イベントのフラグが立ったと言うべきか 。
石造りの廊下を引きずられるように歩く。
心臓の鼓動が、まるで安物のドラムセットを乱れ打ちしているみたいにうるさい 。
途中で、槍を担いで帳面を持ったおじさんに声をかけられた。どうやらここでの「装備選択」を受け付けているらしい。
「武器は何にする」
「……あ、選べるんですか。じゃあ、核ミサイルとかあります?」
「あ?」
「……冗談です。剣でお願いします」
投げやりな配慮の結果、俺は「剣」という、素人には一番扱いに困る武器を選択してしまった 。
職員のおじさんは「そうか」とだけ書いて歩き出したが、数歩進んでから、ポツリと、お通夜のようなトーンで言った。
「初戦の相手があいつとはな。運が悪い」
「……え、今のフラグ? 盛大な死亡フラグ?」
おじさんはポケットから赤くて艶やかな、林檎に似た果実を取り出して、俺に押し付けてきた 。
「食っとけ。空腹で動けないまま死ぬのは、さすがに見てられねえ」
……なんだろう、この「死刑囚への最後の晩餐」感。
ぶっきらぼうな善意が、逆に「お前、もう助からないからな」という宣告に聞こえて、余計に胃が痛くなる 。
「相手は"緋色の剣闘士アリシア"だ」
その名前が出た瞬間、通路の空気がマイナス四十度くらいに凍りついた。
周囲の奴隷や見張りまでが「うわぁ……」という顔で視線を逸らす。これ、絶対に関わっちゃいけないタイプの有名人ですよね? 死ぬか?死ぬんだな?
「……有名な人、なんですか?」
「九十試合、無敗だ」
「……はい?」
九十試合。無敗。
それ、格闘ゲームならアップデートで即下方修正が入るレベルのぶっ壊れキャラじゃないか。
しかも、この闘技場で三年間一度も負けていないという。そんなレイドボス相手に、レベル1の村人A(俺)をぶつけるとか、この街の運営はマッチングシステムが機能してないのか? ランクマッチとかないんか?
「せめて、すぐには終わらないことを祈れ。長く魅せれば、印象が変わることもある」
「あ、はい。……いや、無理ゲーすぎませんかそれ」
通路の先に、光が見えた。
扉が開いた瞬間、物理的な衝撃を伴うほどの轟音が俺を包んだ 。
———
闘技場。
円形の戦場。四方を囲む観客席。そして、砂の上には生々しい赤黒い染み [4]。
その中央に、彼女は立っていた。
緋色の髪。
腰まで届く鮮やかな赤が風に揺れている。
年齢は、俺より年下。十七か、十八くらいか。顔立ちも整っていて、モデルか何かかと思う美貌だが、その瞳を見た瞬間に脊髄が「逃げろ」と警報を鳴らした 。
迷いがない。感情がないわけじゃない。ただ、そこには「勝利」と「生存」以外の不純物が一滴も混じっていない、透明な殺意があった [4]。
「アリシア! アリシア! アリシア!」
観客のコールが地鳴りのように響く。
少女——アリシアは、その熱狂に一切応えない。ただこちらを見ている 。
構えすらしていない。なのに、どこにも隙がない。俺が支給された剣を握る手は、情けないほど震えていた 。
(落ち着け、俺。死んでも戻ってくる。アガナエルがそう言ったんだ。てかさっきも実際死に戻ったし……いや、やっぱり怖いもんは怖いよ!)
理屈と感情の殴り合いをしている最中に、非情な開始の合図が鳴り響いた 。
———
——消えた。
そう思った。
理解が追いつかない。さっきまで数メートル先にいたはずなのに、瞬きをした瞬間、彼女の顔が目の前にあった。
フレームスキップか何かか?
「——っ!?」
避けられない。
右腕の外側を、薄く撫でるように斬られた。
痛みより先に、焼けるような「熱」が来た。傷口から内側へ、火を注ぎ込まれたような感覚 。
続けて、左の脇腹。肩。
どれも致命傷じゃない。でも、確実に削られていく。
反撃しようと剣を振っても、そこにはもう誰もいない。残像すら掴めない。
俺は、自分が今「何」と戦っているのかさえ、全く認識できていなかった 。
「なんだよこれ……速すぎ……」
恐怖が、遅れて全身を支配する。
強いとか弱いとか、そんなレベルじゃない。自分という存在が、彼女の手のひらの上でただ解体されるのを待つだけの肉片になった気分だ 。
砂に足を取られ、体勢が崩れる。
あ、詰んだ。
視界の端に、鮮やかな緋色が閃いた 。
ドシュッ!
音が来たのは、衝撃の後だった。
風を切る音じゃない。何かが炸裂したような、重い音。
痛みを認識する暇さえなかった。視界が真っ赤に染まり、次の瞬間には、意識がプツリと断線した 。
(あー……今回も、駄目だったか……)
———
「次、お前だ」
耳に馴染んだ、不愉快な声。
目を開けると、そこはさっきと同じ石壁。同じ薄暗い廊下。
目の前には、帳面を持って槍を担いだおじさんが立っていた 。
「……武器は何にする」
デジャヴなんてレベルじゃない。完全なるコンティニューだ。てか死に戻りするポイントが変わっているな?条件はなんなんだ?
俺はしばらく言葉が出なかった。
さっきまで、俺の首か胸かどこかは分からないが、とにかくアリシアの剣に貫かれて死んだ。その記憶は、指先に残る痺れのように鮮明に刻まれている
「死んでも戻ってくる」
アガナエルの呪いが、今、最も残酷な形で現実を突きつけてきた 。
嫌悪感はある。反吐が出る。
またあの恐怖を繰り返さなきゃいけないのかという絶望感。
だが、それと同時に——心の片隅で、別の回路がカチリと音を立てた。
(……待てよ。これ、攻略できるんじゃないか?)
俺はただの一般人だ。剣なんて振ったこともない。
でも、さっきの「死」の記憶は残っている。彼女がどのタイミングで踏み込み、どこを狙ってきたか、俺だけは「知っている」のだ。
一回目は何も見えなかった。でも、二回目なら、最初の一手くらいは目で追えるかもしれない 。
「……剣で」
「そうか」
おじさんは帳面に書く。
「初戦の相手があいつとはな。運が悪い」
全く同じセリフ。全く同じ、同情の視線 。
俺は差し出された果実を齧った。
甘酸っぱい味が、今は妙に脳を覚醒させる。
一回目はノーヒントの初見殺しだった。
でも次は、最初の一手がどこから来るか分かっている。
九十勝無敗のバケモノ相手に、そんなアドバンテージがどれほどの意味を持つかは分からない 。
「……でも、ゼロよりはマシだ」
俺は果実を飲み込み、光の射す出口を見据えた。
轟く歓声。俺を殺した、あの少女の待つ戦場へ。
死んでも死にきれない、このクソみたいな罰ゲームを攻略するために、俺は二度目の砂を踏んだ




