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第三話 異世界ハードモード

結論から言おう。遠近感というのは、人類にとって最大の詐欺である。


森の切れ間から「お、あそこに煙があるじゃん。チョロいな」と思って歩き出してから、かれこれ一時間以上が経過していた。小学校の理科か何かで「遠くのものは小さく見える」とか習った記憶があるが、今の俺にとっては「遠くのものは一生着かない」という絶望の物理法則として立ちふさがっている 。


喉は砂漠のようにカラカラ、腹は「何か入れろ」とデモを起こし、足の裏は悲鳴を上げている。不満のダイゲンパレードである。だが、俺は足を止めない。いや、止められないのだ 。

後ろを向いても魔獣(四つ目)の出るかもしれない暗い森。前を向けば、少なくとも文明の残り香(煙)がある。

「生きる意欲」なんて高尚なものじゃない。これは単なる「消去法による強制進軍」だ。これに「冒険」なんてキラキラした名前をつけた奴は、一度この麻布一枚の格好で森を彷徨ってみてほしい 。


そんな俺の目の前に、救いの神が降臨した。

岩の間をチョロチョロと流れる、小さな小川だ。


「……水だ。水だよな?」


俺は膝をつき、水面を凝視した。

待て、落ち着け田中遼。ここは異世界だ。見た目が綺麗でも、飲んだ瞬間に内臓が溶ける劇物かもしれないし、謎の寄生虫のバイキング会場かもしれない 。

だが、喉の渇きはすでに理性を上書きしていた。


「……知るか。死んでもリセットされるんだろ」


半ばヤケクソで水を掬い、喉に流し込む。

冷たい。普通に美味い。というか、ただの水の味がする。

飲んでから十分間程、その場で「自分への人体実験結果(休憩)」を待ったが、腹痛が来る気配はない。俺は「よし、セーフ」と雑な判定を下して立ち上がった 。


食料についても、今回は「学習」という名の攻略法を使った。

道端の低木に、昨日——死ぬ前——も見かけた赤い実がなっていた。あの時は「毒々しい色しやがって」とスルーしたが、よく見ると虫が食っているし、鳥が突いた跡もある 。

「他の生物が食べてるなら、人間(?)もいけるだろ」

という、これまた雑なバイオハザード対策を講じて口に放り込む。

……甘い。少し青臭いが、今の俺には高級スイーツも同然だ。

死に戻りで得た最大の収穫は、この「一度死んでるからこその度胸」かもしれない。アガナエルへの殺意は一ミリも減っていないが、この死ねないシステムを「使える」と認めてしまう自分に、少しだけ自己嫌悪を感じた 。


———


さらに一時間。

周囲の景色に、人工的な「ノイズ」が混じり始めた。

折れた枝の切り口、踏み固められた土。そして、決定的なのは「車輪の跡」だ 。


「やっとか……。長かった、俺のプロローグ」


木々の密度が下がり、光が溢れ出す。風が通り抜け、視界がいきなり全開になった。

俺は、思わず足を止めた。


「……マジかよ」


そこにあったのは、石造りの巨大な城壁だった。

見張り台に立つ人影、門を出入りする荷車、談笑する人々。

テレビやゲームでしか見たことのない「ファンタジーの街」が、圧倒的な質感を持ってそこに存在していた 。

俺はしばらく、その光景を呆然と眺めていた。本当に異世界なんだな、ここ。


だが、感動している場合ではない。

現状の俺を確認しよう。

格好: 汚れた麻布一枚の不審者。

所持金:ゼロ。

言語: 通じるか不明。

ステータス:ほぼ詰み。


「宿を探すとか以前に、職質一発でアウトな気がするんだけど」


でも、行くしかない。俺はこの世界のルールも通貨も知らないが、森の中で野垂れ死んでリセットされるよりは、文明の荒波に揉まれる方がまだマシだ……たぶん 。


———


城門に近づくにつれ、周囲の視線が突き刺さるのがわかった。

そりゃそうだ。小綺麗な格好をした商人や住民の中に、森から這い出てきたボロ布姿の男が混じれば、浮かないはずがない 。


門番は二人。槍と鎧。いかにもな装備だ。

一人が俺の前に立ち、槍を向けることはなかったが、鋭い視線で制止してきた。


「止まれ。名前と出身、目的を言え」


「(……通じた! 翻訳機能付きかよ、ありがてぇ!)」


俺は内心でガッツポーズをしながら、できるだけ怪しまれないよう(無理だけど)答えた 。


「……田中、遼」


「タナカ・リョウ?」


「そうです」


「出身は」


「……遠い、ところです」


「日本」と言っても「どこだよその島」で終わるだろうし、嘘の地名を捏造する知識もない。正直に「遠い」と言っておけば、まあ、間違いではないだろう。俺の主観では数億キロ先だし 。


「目的は」


「……えっと、街に入って、宿を探そうかと」


「…………」


門番の目が「金もなさそうな奴が何を言ってるんだ」という冷ややかなものに変わった。しまった、嘘でも「仕事探し」と言うべきだったか。

もう一人の門番が、低い声で相方に何かを耳打ちした。空気が一気に「不審者を見る目」から「獲物を見る目」に変わる 。


「逃げてきた口か」


「え?」


「奴隷か、逃亡者か。どちらだ」


「違います、ただ迷い込んだだけで——」


「怪しい格好で森から現れ、出身も言えない。金も持っていない。……決まりだな」


「あ、ちょっと待って、話せばわかる、民主的な話し合いを——!」


俺の貧弱な抗議は、鍛え上げられた門番の腕力にかき消された。

一瞬で腕を捻り上げられ、視界が地面と急接近する。鎧の冷たい感触と、抵抗を許さない圧倒的なパワー。

「終わった……」

俺の異世界ライフ・街編は、入城前にバッドエンドを迎えたらしい 。


———


連行される最中、俺は街の風景を必死に目に焼き付けた。

石畳の道、活気ある露店、楽しげな子供たち。

だが、捕まって引きずられている俺に対し、人々は驚くほど無関心だった。

「ああ、またか」というような、ゴミを見るかのような一瞥。

その反応だけで、この世界の「日常」がどれほど残酷なものか理解できてしまった [5]。


道が次第に狭く、汚くなっていく。華やかな大通りを外れ、建物の影が濃い場所へ。

たどり着いたのは、窓の少ない、異様に頑丈な石造りの円形施設だった。

中からは、地響きのような歓声と、血の匂いが混じった熱気が漏れ出している。


「(嫌な予感しかしないんだけど。これ、歴史の授業でやった『パンと見世物』みたいなやつだろ……)」


内部は薄暗く、鉄格子の並ぶ区画——いわゆる「牢獄」へ押し込まれた。

鉄扉が閉まる重厚な音が、俺の自由の終わりを告げる。


「話はシンプルだ。戦って勝てば生きる。負ければ死ぬ。それだけだ」


「……それ、ストレートに言うと『剣闘士』ですよね?」


「好きに呼べ」


見張りは事務的にそう言い捨てて去っていった。

俺は冷たい床にへたり込んだ。

剣闘奴隷。闘技場。勝てば生存、負ければ死亡。

ラノベなら「ここから俺の無双が始まるぜ!」とか言う場面かもしれないが、俺にあるのは「死んでもリセットされる」という、拷問のような呪いだけだ 。


「……森から来たのか」


隣の格子から、中年の男が声をかけてきた。

敵意はないが、その瞳には諦観の色が濃く滲んでいる。


「……そうです」


「見慣れない格好だな。どこの出だ」


「遠いところです」


「そうか」


それ以上は聞いてこなかった。どうやらこの世界では、事情を深く詮索しないのが「死に際」の礼儀らしい 。


外から、耳を劈くような歓声が聞こえてきた。

その中心で、今この瞬間も誰かが殺し、殺されている。

次は、俺だ。


俺は自分の胸に手を当てた。

「じくり」と、魔剣が脈打っている。

使い方も、解放の仕方もわからない。だが、あいつは言った。

「君の罰は、生きることだ」と。


「……生きるのが罰なら、とことん付き合ってやるよ」


死という出口すら奪われた俺には、どんなに泥を啜ってでも、どんなに惨めに戦ってでも、生き続ける以外の選択肢がないのだから 。


外の歓声が一際大きく跳ね上がった。

誰かの命が、砂の上に散った合図だ。

俺はゆっくりと目を閉じ、次の「死」と、その先の「生」に備えた 。

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