第二話罰が始まった
最初に認識したのは、耳に痛いほどの「静寂」だった。
次に、背中から這い上がってくる「冷たさ」。地面の湿気がじわじわと服に染み込んでくる不快感で、俺の意識は強制的に覚醒させられた
指先が湿った土を掴む感触。肺が、俺の意思とは無関係に酸素を欲してベコベコと動いている音。
……ああ、最悪だ。
「生きてる……のかよ」
その最悪な事実を俺は再認識する。
ゆっくりと上体を起こして、周囲を見渡す。
視界に広がるのは、木、草、土、そして眩しすぎる日光。
どこをどう切り取っても、都会の喧騒とは無縁の「ザ・森」である。どこまでも続く緑の中に、俺はたった一人で放り出されていた
そうだ、思い出した。ここは異世界だ。
俺は断頭台で一回「終了」したはずなのに、アガナエルとかいう胡散臭い管理者に呪いの剣を埋め込まれて、気づいたらこの有様だ。首を落とされたはずなのに、首がつながっている。これ、マジックの種明かしなら拍手喝采ものだけど、現実だと思うとただのホラーでしかない
「……生きて、るんだよな。一応」
俺は自分の胸に手を当てた。
「じくり」という、鈍い違和感。
出血もないし、傷跡すらない。なのに、そこには確実な異物感が居座っている。「憂鬱の魔剣」。名前からして中二病全開のそれが、俺の心臓のすぐ隣で「よっ、元気?」とでも言わんばかりに存在を主張していた
よし、まずは状況を整理しよう。
二十六年間、クソみたいな社会人生活で培った数少ないスキル——「感情を殺して現状を把握する癖」が、システムエンジニアのデバッグ作業みたいに自動で発動した
【現状チェックリスト】
・身体:動く。痛みなし。ただし、スペックは運動不足の二十六歳男性。
・服装:村人Aが着てそうなボロい麻布。オシャレ度はマイナス。
・所持品:財布なし、スマホなし、自宅の鍵なし、希望なし。……おい、全ロスじゃねーか
「所持品、ゼロ。食料、ゼロ。水、ゼロ。武器、ゼロ。土地勘、ゼロ」
おまけに頼れるのは、胸の中に埋まった正体不明の「罰」が一つだけ。
俺は思わず額を押さえた。笑えない。絶望的すぎて、逆に「まあ、俺の人生ならこうなるわな」と納得している自分がいる。
感情が死んでいるのか、それとも元々こういう欠陥人間なのか。たぶん後者だ。だからこそ、二十六年間も無味乾燥な日々を淡々と消化してこれたのだ
「……ま、座っててもデリバリーが来るわけじゃないしな」
とりあえず、俺は重い腰を上げて歩き始めた
———
歩き始めて三時間が経過した。
俺は、さっきまでの「なんとかなるだろ」という甘い見通しを、森の奥深くに全力で不法投棄することに決めた。
まず、水がない。
森なんだから川の一本くらいあるだろと高を括っていたが、現実は非情である。水の音を頼りに歩けば行き止まりの茂みに突っ込み、斜面で転びかけて膝をすりむく。喉はカラカラで、足元はガタガタだ
食料? ああ、いくつか木の実を見つけたよ。
でもな、色が「食べてはいけない色」をしていた。ネオンサインかよってくらい鮮やかなそいつらを前に、俺の生存本能が全力でブレーキを踏んだ。ここは異世界だ。地球の常識で「美味しそう」なものが、こっちでは「即死トラップ」のトリガーかもしれない
結局、何も口にできないまま、俺はただの動く死体のように歩き続けた。
日が傾き始めると、精神の削れ方が加速した。
疲労なんてレベルじゃない。音だ。風が葉を揺らす音、正体不明の生物の鳴き声、どこかでパキッと枝が折れる音。
一つ一つは些細なことなのに、積み重なると俺の貧弱な神経をガリガリと削っていく。
暗くなったらどうなる? 何が出てくる? そもそも、俺はどこに向かっている?
「分からない」という不確定要素が、毒のように体力を奪っていく。
ふと、頭の隅で甘い考えがよぎった。
(……これ、いっそ死んだら楽になれるのか?)
だが、すぐにアガナエルの顔が浮かんでその考えを打ち消した。
あいつは言った。「死んでも戻ってくる」と。
それが本当なら、死は出口ですらない。ただの再起動だ。
でも待てよ。もしあれが全部夢で、今ここで死んだら普通に終われるとしたら?
答えは出ない。出るはずもない。流石に1日の間にそう何度も死の体験などしたくない。俺はただ、重い足を引きずって歩くしかなかった 。
そして、異変は「その時」に起きた。
日が完全に沈みかけ、森が不気味な橙色に染まった頃。
ガサッ
草むらが揺れた。風じゃない。一点だけが、明確な殺意を持って動いた 。
俺の足が止まる。
現れたのは、犬に似た「何か」だった。
体格は中型犬ほどだが、目が四つある。縦に並んだ二対の瞳。鼻先は異様に細く、剥き出しの牙が夕日に光っている 。
「……うそだろ。異世界での第一村人が魔物とか、難易度調整ミスってないか?」
逃げなきゃ、と思うより先に、足が勝手に後ずさりしていた。
「目を離すな」「背中を見せるな」——どっかのサバイバル本で読んだ知識が脳内で点滅するが、足元は最悪のコンディションだ 。
三歩下がったところで、踵が突き出した木の根に引っかかった。
「——っ、しまっ——!」
情けないことに、俺はそのまま背中から地面に叩きつけられた。肺から空気が強制排出される。
その隙を、四つ目が逃すはずもなかった。
速い。
反応する暇なんて一瞬もなかった。
肩にズシリとくる重み。直後に、焼けるような激痛。
牙が肉を裂き、骨にまで達する嫌な感触が伝わってくる。
「あああああがぁぁっ!!」
悲鳴なのか叫びなのかも分からない声が口から漏れる。
振り払おうとしても、腕に力が入らない。獲物を押さえ込んだ四つ目が、トドメを刺そうと次の狙いを定めているのが分かった 。
死ぬ。今度こそ、本当に死ぬ。
断頭台の時は一瞬だったが、今回は違う。痛みがある。恐怖がある。死がこちらに向かって全力疾走してくるのが見える。
視界が激しく揺れ、呼吸が乱れ、それでも意識のどこか一箇所だけが「あ、これでもう人生二度目の閉店ガラガラだな」と冷徹に理解していた 。
その時。
胸の、奥。
**「じくり」**という違和感が、強烈な**「拍動」**に変わった。
何かが内側から引っ張られる感覚。俺の意識が、反射的にその「何か」を認識した。
「そこにある」という確信。
出せ。こいつを外に出して、目の前の絶望をぶち壊せ。
明確な意思というより、本能に近い渇望だった 。
だが——。
「……出、ない……」
何も起きなかった。
魔剣は俺の胸の中で沈黙したまま。
次に俺が感じたのは、喉元に迫る四つ目の牙の感触だった 。
———
気づいたら、また空が明るかった。
背中に地面の感触。指先には土。肺は、また勝手に空気を吸い込んでいる 。
肩を触ってみたが、痛みはない。
俺はゆっくりと起き上がり、周囲を見渡した。木。草。土。光。
清々しいほどの、静かな森の朝だった 。
「……戻った。マジで戻りやがった」
頭がクラクラする。
確かに死んだはずだ。あの激痛も、食い込む牙の感覚も、視界がブラックアウトした瞬間も、全部覚えている。
なのに今、俺は無傷でここにいる。服に血の一滴すらついていない。まるで、最初から何もなかったかのようにリセットされている 。
「死んでも、戻ってくる。何度でも」
アガナエルの声が、呪いのように脳内で再生された 。
「……本当だったのかよ。冗談きついぜ……」
声に出した瞬間、ドロリとした現実感が胃の底に溜まった。
死んでも戻ってくる。それはつまり、「何度死んでも、この地獄から上がらせてもらえない」ということだ。
さっきの、あの、心臓が跳ね上がるような恐怖と激痛を、俺はこれからも無限に繰り返す可能性がある。
……やってられるか。
じわりと、どす黒い嫌悪が胸に広がる。
「罰」だと、あいつは言った。確かにこれは罰だ。
死という唯一の救済すら奪われ、生という名の強制労働に縫い付けられている。それがこの「憂鬱の魔剣」の正体なんだ 。
しばらくの間、俺は立ち上がることもできず、ただ草の上に座り込んでいた。
だが、それでも。
俺は、結局立ち上がった。
座っていてもリセットボタンは押せない。それだけは痛いほど理解していた。
皮肉な話だが、「死んでも戻ってくる」ということは、この世界で死ぬことはもはや致命的な失敗ではないということだ。死がゴールでもない。
死ぬのが怖いことに変わりはないが、その恐怖すら「罰」の一部として飲み込んで動くしかない 。
今度は、あの四つ目が出た方向を徹底的に避けた。
草むらの小さな揺れ、風の匂い、あらゆることに神経を尖らせて歩く。
一度体験した恐怖は、二度目には少しだけ対処可能なデータに変わる。それが俺のような凡人に残された、唯一の攻略法だ [6]。
一時間ほど歩いた頃、不意に足を取られて転んだ。
ただの転倒だ。窪みに足を取られて、咄嗟に手をついた。手のひらに小石が食い込み、皮膚が薄く裂ける。
普段なら「痛ってぇな」で済む、些細な傷だ [6]。
だが、その瞬間。
胸の奥が、これまでにない反応を見せた。
「ぞくり」と。
引っ張られる感覚ではなく、共鳴するような感触。
俺は自分の手のひらを眺めた。じわりと滲む赤い血。
そして、その傷口の端から、ほんのわずかに——。
「……なんだ、これ」
血に混じって、黒に近い青みがかった「何か」が滲み出していた。
それは、まばたきをする間もなく、跡形もなく消えてしまった。見間違いか? いや、確かに見えた 。
胸の中の魔剣が、俺の傷に反応している。
まだ確信はない。だが、この「罰」がただ俺を生かしているだけではないという、得体の知れない予感があった 。
再び立ち上がり、歩き続ける。
ふと気づくと、木々の密度が少しずつ薄くなっていた。
光の入り方が変わり、風が運んでくる匂いに変化が混じる。
草の匂いではない——もっと乾燥した、何かが燃えたような。
「……煙?」
木々の切れ間から、遠くに細い煙が立ち上っているのが見えた。
人がいる。あるいは、文明がある。
それだけで、今の俺には十分すぎる希望だった 。
俺は煙の方角をじっと見据え、一歩を踏み出した。
罰はまだ続いている。だが、このクソみたいなループの中にあっても、俺は少しずつ前に進んでいる。




