カーネーションとスキップ
わたしは配架する手を止めて、顔を上げた。
児童書コーナーには、赤、ピンク、白のランドセル。小さな利用者さんたちは、時折こそこそおしゃべりしては——誰かが「しー」と指を立ててを繰り返している。
わたしはくすりと笑って、文庫の棚へ本をそっと戻した。レースのカーテンには、秋の日暮れの薄青色が透けている。十二月にめくられてしばらくのカレンダーと、とうとうついたストーブ。わたしはやわらかく握った左手を、そっと胸の前へ運んだ。
カウンターには、薫子さんとカナデ先生。小さな声で談笑しては、女の子たちに手を振っている。あの子たちはきっと、ピアノ教室の生徒さんなのだろう。わたしも少し混じりたくなって、書架からくるりと方向を変えた。セーラー服の白いスカートが、ふわりと空気を含む。プリーツ先がさざなみのように絨毯を隠して、それから元に戻った。
ふと、二週間前のことを思い出す。薫子さんにおさげにしてもらった日。エリーゼ。わたしは母に、あの子のことを。けれど。
——「エリーゼ? お母さんは知らないわね、なにかの小説の登場人物かしら」
母はそう言って、なにごともなかったかのようにたまごを割った。わたしがぼんやりしている間に、ダイニングテーブルには料理が並べられていく。そうして母とわたしと書斎から降りてきた父は食卓についた。
母はお箸を取りながら、「ああ、そういえば」と口をひらく。
——「あなた小さいころ、よくピアノに向かってエリーゼエリーゼって……『エリーゼのために』、お気に入りだったわね。ピアノは自動演奏じゃないのにって、お義母さんとよくお話ししてたわ」
空気を逃したスカートは、しぼんであるべきプリーツの形をとる。ストーブの動く音が低く鳴る。灰色のメリージェーンはうつむくわたしの影を落とされてつやを失っていた——母はエリーゼのことに、心当たりはないようだった。
わたしと同じように忘れてしまったのかもしれないし、初めから母は知らなかったのかもしれない。エリーゼを思い出す手がかりは、あとどのくらい残っているのだろうか。
わたしは歩き出しながら、目線を隅へ追いやった。その先——わたしの左手の中には、栞。緑のリボンが人差し指をそっと撫でた。少しだけくすぐったくて、心がじくりと痛む。——透明なラミネートに阻まれて、さらさらしてもろいカーネーションが、こちらを見つめていた。
◇
あの日、五歳のわたしは小走りしていた。やわらかな風の吹く、五月の九日。勝手口のサンダルを突っ掛けて、小さなポシェットを握りしめて。不安とわくわくを抱えながら、家の方を振り返った。
肩紐が、首を擦れる。その淡い紫色をしたポシェットの中には、父に手渡された少しのお金。けれどもその金額は、幼いわたしには大きすぎるものだった。
サンダルの硬さが足の甲をつついた。行き先の花屋さんまで、歩いて十五分。それまでに、母がわたしのいないことに気づいてしまうかもしれない。父がうっかり、この作戦のことを言ってしまうかもしれない。けれど、もしもわたしが父と約束した通りお花を買ってこられれば、今日はきっと素敵な母の日になる。 わたしはにっこりして、とうとう駆け出した——そのとき、つっかえたのだ。サンダルのつま先が、固いコンクリートに。
「——きゃっ」
わたしは放り出される。髪が背中を離れて、ふわりと宙に舞った。ぎゅっと目を瞑る、足からサンダルが飛んでいく。その軽さが少し怖かった——それと同時に、体に強い衝撃が走る。
二秒、三秒が経って、わたしはやっと目を開いた。
「ねえ、あなた! 大丈夫?」
ふと、声が降ってくる。まるで花びらがはらりと落ちるような、華奢な声だった。心の底にミルククラウンができるみたいな、そんな気分。わたしは弾かれるように体を起こして、地面にぺたんと座った。
「だい、じょうぶ。えっと——」
言いながら、ゆっくり顔を上げる。そこにいたのは、そのころのわたしと同じくらいの女の子だった。ゆるやかにカールした茶髪に、まつ毛の長いぱっちりした目、やわらかいピンク色の吊りスカートをひらひらさせた——あの子。
「瑠々っていうんでしょ。あたし、知ってるわっ」
エリーゼと名のつく前の、まっさらなあの子。花びらみたいな爪の幼い指が、わたしの腕をぐいと引っ張った。決して力は強くないのに、わたしはすんなり立ち上がる。まるでなにかに包まれているみたいに、痛いところはひとつもなかった。
「どうして?」
わたしが尋ねると、あの子は「当たり前のこと」と答える。いっぱいに笑った眩しい顔が、ひどく大人に見えた。——あの子は初めから、わたしを知っていたのだ。
「ねえ、お花屋さん、一緒に行ってもいい?」
エリーゼは手を後ろで組んで、こてんと首をかたむけた。そのかわいらしさに、わたしは思わずうなずく。お絵かきの世界から出てきたみたい、そう思った。
それじゃ、決まりねと、あの子はわたしの脱げたサンダルを手渡してくれる。受け取って履いて、つま先をとんと鳴らした。
「瑠々は、なんのお花を買うの?」
待ちきれないように、あの子が尋ねる。その瞳は朝露のようにきらきら輝いていた。あの子の手に触れる、ぎゅっと握る。わたしは駆け出しながら、顔いっぱいに笑った。
「ピンクの、カーネーション!」
わたしたちは一歩一歩を、スキップするみたいに。そよ風に背中を押されて、わたしはエリーゼに触れたのだ。
——その日の夜は、ありがとうと微笑んでくれたお母さんの笑顔と、フリルみたいなカーネーションが星のようにまたたいていた。
エリーゼとこの瞬間を半分こしたい、なんて、初めてそんなことを思った。
◇
——「あたしにいつか、名前をちょうだい」
エリーゼの薄ピンク色の唇が最初にそう言ったのは、その次の日のことだった気がする。
「——カナデ先生、こんにちは」
わたしは足を止めて、貸し出しカウンターを覗いた。手をつくと、飴色の木目はひんやり冷たい。円形の反対側、検索機械のあたりに彼が。カウンターを隔てたところに薫子さんが微笑んでいる。
「こんにちは、お邪魔してるよ」
カナデ先生はにこりとして、ひらひらと手を振った。
「瑠々ちゃんもいらっしゃい」
薫子さんもわたしを振り返って、ふわっと手招きをする。
わたしは円にそって回って、内側へ入った。ちょっと早足に、薫子さんの近くへ椅子を運ぶ。背もたれにかけた毛布の端が、ふわりと宙を泳いだ。
「そうそう、カナデくん。生徒さんたちの発表会、どうだったの」
わたしが腰掛けるのを見ながら、彼女は声をほころばせた。女の子たちがくすくすと笑い合う声が聞こえる。
「ええ、みんな頑張ってくれましたよ。ほら、あそこの赤いランドセルの子。あの子は練習で弾けなかったところまで、上手に弾いてみせてくれました」
長い指をした手が児童書コーナーの方を示した。カウンターに正確な形をした影が映る。赤いランドセルの女の子は、ほかのふたりの本をちらちらと覗き見ていた。わたしたちは三人一緒に笑いをこぼす。
「ふふ、すごいのねえ」
「大成功ですね。きっとお菓子も、みなさんよろこばれたでしょう」
わたしは座った足を片方引いて、メリージェーンのつま先を立てた。
「お菓子?」
「発表会のおしまいに、みんなに配ったんですよ。瑠々ちゃんには試食もしてもらったね」
「あらあ、そうなの。いいわねえ」
わたしに目配せするカナデ先生。薫子さんはわたしの頬をつんとつつく。
「はい、とっても」
わたしは少し笑いをこぼしながら返した。カナデ先生がくすくすとすると、シャツの刺繍の黒猫が小さく上下する。それはよかった、と笑みをたたえた声が言った。
「そろそろクリスマスも近いですし、そっちもなにか考えないと。——それにクリスマスは、瑠々ちゃんのお誕生日だからね」
彼のまつ毛の長い目が、すっと細まる。白い蛍光灯の光に当てられて、茶色い瞳は透き通るような風合いに見えた。
「あら」
素敵ねえ、と薫子さん。ゆっくりうなずく仕草に、黒いリボンがついていった。
「おふたりとも、覚えていてくださったんですね」
わたしは口元に手を運んで、尋ねる。ああ、ええ、と、ふたりぶんの肯定が、内緒話のようにささやかに聞こえた。わたしの誕生日なんて、自分で忘れていたくらいなのに。ちょっぴり驚いて、背筋が伸びる。セーラーの襟が、ふらりとするのを感じた。
「ありがとうございます。いただいてばっかりで、申し訳ないくらい」
わたしが言うと、カナデ先生はいやあ、と目を伏せて笑う。
「僕のほうこそ。——僕がご両親だったら心配するから。自分が知らない人間から、いつも食べ物をもらってくるだなんて」
眉尻を下げる彼を、薫子さんはちょっぴりおかしそうに見ていた。わたしが首を振る。するとカナデ先生は、ふと遠くを見るように微笑を浮かべた。ありがとうと、優しい声が音階をなぞる。
「——瑠々ちゃんを見ていると、すごく懐かしい気持ちになるんだ。妹にそっくりなんだよ、ずっと前、高校生だったころの妹にね。だから、つい」
視線をわたしに戻した彼は、照れたように髪を耳へかけた。さらりと流れる毛束がひとつ、どこか哀愁を漂わせて、揺れた。薫子さんは目を三日月みたいににこりとさせて、小首をかしげている。
カナデ先生が先生をされているきっかけも妹さんだったな、と、わたしはこくんとうなずいた。
「ふふ、そうですか。——それじゃ、妹さん、猫がお好きなんですか」
わたしは彼の胸ポケットの刺繍や、クッキーや、チョコレートを思って口角を上げた。カナデ先生は少し、驚いたように目を見開く。それから、わたしと目を合わせてふっと破顔した。
「うん、好きだった——好きだったよ」
瞳の奥が、薄青色をしていた。ゆっくりとまたたくまぶたが、頬にまつ毛の影を落とす。白い蛍光灯の当たった髪は、やわらかな茶色をしていた。悲しみと、愛おしさをたたえて。
ふと、会館の入り口の方からガラス戸の開く音がする。鈴の音と小さなスニーカーの足音が聞こえた。おや、と彼が目をぱちんとする。
「もう教室の時間だ。——それじゃ、僕はここで。あの子たちをお願いします」
カナデ先生は会釈して、にこりと席を立った。ランドセルの女の子たちに手を振り、すっと椅子を閉める。
「薫子さん、お邪魔しました。またね——瑠々ちゃん」
そう言って彼は、ひらりと踵を返していった。やわらかな色をした髪の先が図書館を出ていくと同時に、「先生、先生」と呼ぶ声がいくつも聞こえる。
「ふふふ、カナデくん、慕われてるのね」
薫子さんが内緒話をするように、口元に手を当て言う。ええ、ほんとに、なんて返しながら、ここには優しい方ばかりだと考えた。パイプ椅子に張られた布のざらざらまでもがどうしてかうれしく思える。
——エリーゼは薫子さんやカナデ先生と出会ったら、なんと言うかしら。
ふと、そんなことが脳の裏を過ぎった。
それから、あれ、と思う。わたしは元の位置へ椅子を戻しながら、薄く息を飲み込んだ。
エリーゼがほかの誰かと話していたことなんて、あっただろうか。
——「エリーゼ? お母さんは知らないわね、なにかの小説の登場人物かしら」
もしないのなら、連休の終わるあの日、エリーゼはどうやって家へ上がってきたのだろう。祖母が選んだという、ぴんと華奢な音のインターフォン。それが鳴ったとき、玄関を開けるのは、父か母か祖母だったはずなのに。
薫子さんのチェック柄のショールが、かすんで赤一色に見えた。視界がはっきりしなくて、わたしはわたしの脳の裏を見ている気分になる。強くまばたきをしても、ちっともかわらない。
息が上手くできなくなりそうで、生唾を飲み込んだ。
始業式のあの日、エリーゼの背中には、吊りスカートのばってん。
ランドセルも背負わないで、どうしてエリーゼは通学路にいたのだろうか。それにわたしは、引っ越してきていたのに。
図書館へ誰かが入ってくる、靴音がする。それは夢の中の出来事のように、遠く聞こえた。
——「瑠々っていうんでしょ。あたし、知ってるわっ」
五歳の母の日、あの子の笑顔。どうしてエリーゼは、わたしの名前を知っていたのだろう。どうして名前をちょうだい、なんて言ったのだろう。白い肌が、花びらのようなピンク色に染まっていたのを思い出す。ご両親からもらった名前を、あの子だって持っていたはずなのに。
靴音が近づいてくる。薫子さんがこんにちは、と挨拶をした。やわらかなはずの声音なのに、冷めたハーブティーのように遠く感じた。
——「あなた小さいころ、よくピアノに向かってエリーゼエリーゼって……ピアノは自動演奏じゃないのにって、お義母さんとよくお話ししてたわ」
母の声が、頭の中を反響する。食卓、白い手が小豆色のお箸をそろえていた。
喉の辺りが、つかえる。硬くて生あたたかい、溶けきっていない飴玉を飲み込んでしまったような感覚。まだ甘さに浸っていられたのに、自分から飲み込んで、苦しむなんていけない、と思った。
エリーゼ。わたしは心の中で、その名前を繰り返す。エリーゼ、だって、あなたは。
ぎゅっと、膝の上で手を握り合わせる。少し伸びた爪が、手のひらに痛かった。
ふと、その爪と目の前のカウンターに影が落ちる。
「すみません」
男の人の声だった。
「返却、お願いしたいのですが」
わたしははっとする。顔を上げて、男性の顔を見た。それから、置かれた一冊の本へ視線を落とす。白い表紙は、硬く冷たそうだった。
その本の表題は——「イマジナリーフレンドと小児について」。




