百十一頁は桜色
「あら」
わたしはメリージェーンの動きを止めて、そっとテーブルを撫でる。夕暮れの図書館、重く清らかな静けさの中に、本が一冊置かれていた。
「どなたか、しまい忘れてしまったのかしら」
分厚い辞書のような、その本を手に取ってみる。
マーガレットとすずらんの栞には、まだ持ち主さんは現れていない。ゆったりとまた、すずらんの日からも二週間が過ぎ去っていた。
甘い緑の表紙をなぞりながら、頭の上で揺れるリボンの端に触れる。あれから二日間見つからなくて、せっかくのおそろいを失くしてしまった、と心細かった。栞の持ち主の方も、きっとこんな気持ちかしら、なんて。
けれども三日目、自室の机の上で何事もなかったみたいに見つかったのだから、ほっとしながらも拍子抜け。小さく笑って、わたしは本をぱらぱらとめくった。
ふと、つっかえる。百十一。ページ番号から目を離し、本全体へ視線を動かした。クリーム色のページ、わたしの手、明朝体の文字、インク溜まり——それから、栞。
わたしはぱちんとまばたきした。
そこに挟まれていたのは、透明なラミネートと緑のリボン。円い花びらをつけた、薄紅色の桜の押し花。横を向いて、扇のように乾かされている。なんだか触れれば、ぽろぽろ崩れてしまいそうに儚かった。
人差し指で花びらの形をゆっくりとなぞる。わたしの爪は、桜の花と似た色をしていた。——そっと、息を吸う。
桜並木の甘い匂いが、する気がしたから。心の底から緊張が、蘇ってくる気がしたから。目を閉じれば、あっという間にあの日へ戻れてしまう気がした。——エリーゼは、あの日も。
◇
わたしはあの子の腕を抱きしめて、足を止めた。
「エリーゼ」
桜の舞い落ちる中、知らない顔ばかりがわたしたちを追い越して行く。わたしたちを気に留める子はいなくて、ふたりとか三人とか、楽しそうにかたまって。思い思いのデザインのランドセルが、全部知らない色みたいに見えた。
小学五年生の四月、わたしは今住んでいるこの町へ引っ越してきた。最初の登校は、始業式。お腹の底から冷えていくような緊張を抱えて、このとき、春の寒さを知った。
「こわいの、帰りたい」
けれどもわたしは、どこか甘やかな気分をしてもいた。会う回数の少なくなってきたエリーゼが、この日は傍にいてくれたから。甘くて苦い心の中で、わたしはまっすぐ前にあるあの子の目を見つめる。チョコレートみたいな色をしたエリーゼの瞳は、三日月みたいにふわりと笑った。
「大丈夫、きっと楽しいことがたくさん待ってるわ。瑠々はあたしのたからものなんだもの、きっとみんな瑠々を好きになる」
あの子はわたしの髪を、撫でる。まだ幼い質感だったそれは、その日だけゆるやかにカールしていた。前の日眠る前にエリーゼがおさげに結って、癖をつけてくれたのだ。エリーゼの手から、毛束がさらさらとこぼれる——あの子によく似たわたしの髪は、春の寒さをいくらも防いでくれた。
「あたし、見てるから! 瑠々を傷つけるような子がいたら、いつだって駆けつけるわ。——だから安心して、楽しんできて」
わかった、と、わたしは答えた。エリーゼはわたしを褒めるみたいに、いっぱいに笑った。その顔は満開の桜よりも、風よりも、新学期の匂いよりも、春めいていた。わたしの手はエリーゼの腕を滑って、その先にある手のひらをそっと握る。そうしてわたしたちは、目を合わせて笑い合った。
「そうだ、瑠々っ。新しい図書室で、本を借りてきて! あたし、読みたいのがあるの!」
あの子が駆け出す。背中には吊りスカートの、ばってん。白い頬に、桜の花びらが舞い落ちた。春の風を切る。わたしと、エリーゼで。
◇
わたしは開いていた本から顔を上げ、栞を持ち上げた。あの子のスカートみたいに開いた花びら。けれどもぺたんと潰れて、あの日みたいにふわふわ揺れていない。きっと、口に入れたら苦いだろう。
ぎゅっと、噛み締める。呼吸が苦しくなった。
エリーゼは、あの日だって傍にいてくれた。引っ越してきたあとだって、わたしを想って。そんなあの子の気持ちを、わたしはどうして忘れてしまったんだろう。
頭の中をメリーゴーランドのようにぐるぐると、思考が回っていく。
引っ越しで離れ離れになったのでないのなら、わたしたちは今、どうして。ひどいけんかをしたのかもしれない。父や母が引き離したのかもしれない。エリーゼに何かあったのかもしれない。誰かに尋ねられればいいのに、そのことが底知れなく怖かった。
明るい蛍光灯が、わたしの手元に影を落とす。もう、仕事に戻らなくちゃ。けれど体は動かなくて、視線と脳の裏だけが活動的だった。
エリーゼの悲しむ顔、透明な涙、かすれた呼吸の音。それらはきっと、わたしの勝手な想像だ。けれど——もしかしたらあの子との別れ際を、思い出したものかもしれない。そんな考えが浮かんで、喉の奥が焼け付くような感じがした。四月より十一月の方が、ずっとずっと寒い。
「——瑠々ちゃん、河津桜ね。懐かしいわ」
ふいに、柔らかな声がする。セーラー服越しに、優しく手が置かれる感覚。わたしは弾かれるようにまばたきをして、振り返った。
「……薫子、さん」
怖い夢から覚めたみたい。そう思って、あわてて否定する。保護カバーのかかった表紙が、ざらざらと冷たかった。あの子は怖いものじゃない。悪いのは、きっとわたしだ。
「若いころ通っていた神社に、よく咲いていた桜だわ。——その栞、また忘れもの?」
またぐるぐると考えてしまいそうになって、けれどなんとか顔を上げる。薫子さんは、いつも通りに小首を傾げて微笑んでいた。
「はい……ここへ置きっぱなしだった本に、挟んであったんです」
「そう、また……」
困ったように眉尻を下げて、わたしの手元へ視線を向ける。それから少し間を置いて、赤い紅を引かれた唇がにっこりと開いた。
「そうだわ、瑠々ちゃん。貸出表を見てみたら、栞の持ち主さんがわかるかもしれないわね」
「そう、ですね。見てみましょう」
目を細めて、笑みの形を作る。
震えそうになる指先に力を入れて、本をひっくり返す。背表紙を持ち上げて、見返しに貼り付けられた白をそっと撫でた。いっぱいに刻まれた日付を、目で追いかける——けれど、いちばん新しいものも半年以上前だった。
「そう簡単にはいかないのねえ」
眉を八の字にして、彼女は困ったように笑う。
「そうですね——この本、この机へ置きっぱなしでしたから、借りないでちょっと読むだけのつもりだったのかもしれません。栞を挟んだのも、すっかり忘れてしまったとか」
なるほど、そうかもしれないわと言って、薫子さんは少し考えるように小首をかしげた。細いリボンが宙ぶらりんになる。つやつやした生地を、真っ黒な影が滑っていく。
「——ねえ、この栞、ほんとうに瑠々ちゃんのものじゃないの?」
薫子さんはわたしの目を、まっすぐ捉えていた。驚いて、本が手から落ちそうになる。けれども、わたしは栞を持つ手を緩めていなかった。
「どうして、そう思われるんですか」
「この栞を見ている瑠々ちゃんがね、とっても幸せそうに見えたから。それなのに、どこかつらそうで——まるで、お別れをしているみたいだって。そう思ったのよ」
お別れ。その言葉にずきりとなりそうで、唾を飲んだ。
エリーゼのことを思い出せるきっかけだから。わたしが手を離さなかったのは、きっとただそれだけの理由だ。わたしよりもっと、大切に思っている人がいるはずなのに。目下に見える机の木目は、歪な円を描いていた。
「……だけど、ちがうのよね。ごめんなさいね、おかしなことを言って」
「いえ、いいんです。わたしのほうこそ……」
薫子さんはにこりとして、それから少し、目を伏せる。綺麗にお化粧された目元は、少しの寂しさと笑みをたたえていた。
「私ね、瑠々ちゃんのこと、ときどき娘のように思うのよ。本当だったらもうおばあちゃんになる年齢なのに、娘がいたら、こんな風に楽しかったのかしらって」
優しいしわの刻まれた熱が、わたしの栞を持つ手を包んだ。骨ばっているのに、どうしてかやわらかい。わたしはゆっくりと、まばたきを繰り返した。
薫子さんは目を開いて、わたしの顔を見る。にっこりと口角を持ち上げた。うれしいのよ、と。その言葉は「私はお母さんになれなかったから」と続いた。
「——だからね、私、瑠々ちゃんにお礼がしたいの。カナデくんみたいにおいしいお菓子はつくれないけれど……最近の瑠々ちゃん、あまり元気がないように見えるから」
わたしを映した瞳が、奥深くに憂いを覗かせた。その色は、わたしを想うあたたかな色。エリーゼへの物悲しさも、恋しさも——心の中にしまい込めていると思っていた。
薫子さんとおそろいのリボンは、わたしの首筋をそっと撫でてゆらめく。
こんなに心配をかけていたんだ、なんて考えて——少し、肩の力が抜ける。申し訳なさとか、心配への感謝とか、ごめんなさいとか。別に考えるべきことはたくさんあるはずだった。
薫子さんの赤い唇や、わたしの爪の先を、蛍光灯の灯りがそっと光らせる。必要な言葉を言うより先に、わたしの手が震えを止めた。わたしのメリージェーンの下には、黄緑色の絨毯がしっかりそこにある。
「——うれしい」
わたしはエリーゼを、もう一度ゆっくり思い描いた。ゆるやかにカールした髪、ぱっちりした目。やわらかな白い肌。まばたきする度揺れる、くるんと長いまつ毛。あの日の前の夜、わたしの髪を編んでくれた手つき。
ひとりでにくすり、と笑みがこぼれる。
「それじゃあ、ひとつわがままを叶えてください」
わたしは顔を上げて、目を細めた。ゆっくり息を吸う。
「——わたしの髪を、おさげにしていただけませんか。ずっと前、お友達にしてもらったこと、思い出していたんです」
言い終えて、ふわり、と唇を閉じた。薫子さんは「もちろんよ」とほころぶ。
——そういえばエリーゼは、図書館で本を借りるのを恥ずかしがっていた。カウンターへ持って行けないから、盗むみたいになっちゃう。瑠々が代わりに行ってきて、なんて。
そんなことを思い出している間に、黒いリボンは、編み込みはほどかれていく。
今日帰ったら母にも、エリーゼのことを訊いてみよう。そう心の中で呟いて、わたしは目を閉じた。




