すずらんとロンド
小さく音を立てて、ガラス戸を押す。するとわたしの傍を、小さな背丈がふたり、秋の風の中へ駆けていった。
ハロウィーンの飾りはすっかりなくなって、白い壁がすっきりとしている。本のなくなったあの日から二週間が経つけれど、わたしと薫子さんは未だそれを見つけられないでいた。
——少し、早く着きすぎちゃった。
心の中で、エリーゼを呼ぶみたいに呟いてみる。今日は授業が少し、早く終わった。ガラス戸の外は、まだほんのりオレンジ色を帯びている。
図書館へと足を向けると、わたしの灰色をしたメリージェーンがこつんといった。
それとは別にも、とん、とんと、小さな足音が聞こえる。二階とを繋ぐ階段を見上げてみると、ピンク色の手さげを下げた女の子が降りてきていた。カナデ先生のピアノ教室から、いつも最後に帰る子。その子が最後の段を踏んだとき、聞き慣れた音階が流れた。鍵盤の具合を確かめるみたいに。
それから椅子を引く音がして、旋律が流れ始める。わたしは足を止めて、くるりと体ごと後ろを向く。甘いメロディにつられるように、わたしは階段を上り始めた。
曲名は、「エリーゼのために」。カナデ先生の白くて、けれども角張った手は、踊るように動いた。優しい色をした調べが、凛として奏でられる。
そうして曲が終わると、細く長い指が空を切った。わたしは通学鞄を置いて、拍手をする。ぱちぱち、と、静かな会館に音が吸い込まれていく。
「やあ、瑠々ちゃん。ありがとう」
廊下の大きくなったような、小さなホール。大きな窓から差し込む夕日を手に、カナデ先生は微笑んだ。
こうして聴きにお邪魔するのは、もう何度目か。今の時間、カナデ先生はいつもここへ座っている。ちょうど低学年の生徒さんと、高学年の生徒さんが入れかわる時間だかららしかった。
「とっても、素敵でした」
わたしは脳の裏側に、エリーゼの姿を思い浮かべたまま言った。うれしいねと、先生は席を立ちながら返す。
「——今日これを弾いていたら、君が聴きに来てくれる気がしたんだ」
窓際へ歩きながら、くすくすと楽しそうに笑う。少し伸びたカナデ先生の髪が、橙色に照らされて柔らかな色をしていた。
「瑠々ちゃんは好きなんだね、『エリーゼのために』」
「あら、ばれちゃった。——こうして聴かせていただくとき、いつもうれしいんです。ありがとうございます」
ふふ、こちらこそだよと、カナデ先生はわたしの方を向いて目を合わせた。窓の傍に置かれた小さな袋を、先ほどまで踊っていた手がそっと取る。
「よかったら、持っていって」
透明な袋が、オレンジ色の光を跳ね返す。こつんこつんとローファーが鳴って、カナデ先生はわたしの前で止まった。金色のテープで止められたそれが、ゆっくり差し出される。
「チョコレート、ですか」
「そう」
受け取ると、つるつるした袋が軽い音を立てた。中には、小さなカップに入れられたチョコレート。三角の耳のついた、ねこの形だ。
「来週末の発表会が終わったら配ろうと思って、試作をね。みんな、一生懸命だから」
「生徒さんたち、きっとよろこばれますね。——だけど、わたしまでもらってしまっていいんですか。ハロウィーンにもいただいたのに」
わたしは、カナデ先生の顔を見上げた。前髪のかかった目が、ちょっぴり細くなる。
「いいんだよ。——妹が好きだったんだ、チョコレート。あの子が君くらいの歳になっても、毎年行事ごとに作らされて。溶かして固めるだけなのにね」
カナデ先生の視線が、なめらかに落下する。袋の中では、つやりとチョコレートが光っていた。一匹のねこの耳を、わたしは袋越しに撫でる。
「この間瑠々ちゃんを見ていたら、思い出したんだ。アイディア料だよ」
カナデ先生は眉根を下げて、こっそりと言った。薄橙の空気のせいか、なんだか切なげに見える。シャツのポケットからのぞくねこの刺繍が、じっとわたしを見ていた。
「ふふ、そうだったんですね。では、うれしくいただきます。ありがとうございます」
彼はああ、とうなずいた。頬に、光が落ちている。目線が一瞬遠くへ放られて——まばたきと共に元に戻る。空の向こうが少し、青色を帯びていた。
それからふと、カナデ先生は思い出したようにカーディガンの内ポケットを探る。
「……これ、きっと図書館の利用者さんのものだと思うんだ。入り口あたりに落ちていたのを、生徒の子が見つけてきてくれてね」
薄く血管の透けた手には、一枚の栞。
「持ち主が見つかったら、返しておいてくれると助かるな」
微笑んだカナデ先生。わたしは受け取ったそれをじっと見つめた。透明なラミネートに、緑色のリボン。細長い、乾燥した葉。青くなり始めた空気に染まってしまいそうな、うつむいた白い花びら。——すずらんの、押し花の栞。はっと、わたしは薄く息を吸った。
「これ——」
カナデ先生は、ちょっと首を傾げる。ときどき図書館へ遊びに来てくださるから、きっと薫子さんからうつったのだ。
「きっかり二週間前、似た栞の忘れものがあったんです。……同じ持ち主さんのものかもしれません」
きっかり、とカナデ先生は繰り返した。顎へ手をやって、少し考えるような素振りをする。そうして、唇の端をきゅっと上げた。
「持ち主、見つかるといいね」
「——はい」
わたしも真似をして、きゅっとして言った。
一階の方から、熊鈴とおしゃべりの声が聞こえる。高学年の生徒さんたちだ。
「それじゃあ、そろそろ失礼します。素敵なものをありがとうございました、カナデ先生」
おじぎをして、床に置いたままだった通学鞄を取る。彼はにっこり笑った。
「僕のほうこそ。またね、瑠々ちゃん」
わたしはカナデ先生に手を振って、階段の方へと曲がる。
そうしてふわりと伸ばされた小指の先が見えなくなったとき、小さな音が降ってきた。
わたしは足を止めて、振り返る。空耳だとわかっているのに。カナデ先生のものよりずっと拙くて、触れればぽろぽろと崩れていくような——あれはエリーゼが、ピアノを弾く音。
◇
あの日、わたしはぼんやり窓の外を見ていた。ピアノの椅子に座って、鍵盤蓋に寄りかかっていた。緑の葉が若々しく茂って、空はまっすぐに青くて、花瓶の花は小さく揺れて。ゆっくりと連休が終わっていく、すごく憂鬱な日曜日だった。
せっかくエリーゼがいてくれたのだから、もっと大切に過ごしていればよかった、なんて今になって思う。
「るーる」
あの子はわたしを呼んで、床へなにかを置いた。それから背けていた顔の方へ、ぐるりと回り込む。あのころはまだ髪を下ろしていたから——首筋や頬に張り付いた一本一本の感覚が、気持ちの悪さを長続きさせていた。そんな生気のない目を覗き込んで、あの子はにこっと目を細める。
「そこ、代わって」
腕が優しく引っ張られる。わたしが動かないでいたら、今度はぎゅっとされた。振り返ると、さっき音がした方に椅子。あの子はこれを持ってきてくれたのだ。わたしは顔を上げて、うなずいた。
木製のつやつやした椅子に座ったわたしと、黒い皮を張られた椅子に腰掛けるあの子。わたしは手を、膝の上で握り合わせる。吊りスカートの肩紐のばってんや、鍵盤に指を合わせる小さな手を見ていた。
あの子が息を吸う音が聞こえて、吐く音がする——そうして、演奏は始まった。
辿々しく、迷いながら、ピンク色の爪が鍵盤を押さえる。ふらふらと蝶のように、いたいけで頼りない旋律。
けれどその幼い肩があまりに一生懸命だったから、わたしは息も忘れてあの子を見つめていた。窓からそよ風が入って、ゆるりとカールした茶髪が揺れる。わたしときっかり同じ大きさをしたその手からは、間違いなく音楽が演奏されていた。
「もうだめ、疲れた!」
いくらか弾いたところで、あの子は声を上げた。首をこてんと上へ向けると、長い髪がもっと長く見える。
わたしは握り合わせていた手をほどいて、持ち上げ、拍手をした。わたしの手と手を合わせる音は、びっくりするくらい響かない。それでもあの子は、うれしそうに椅子から立った。ぱちぱちと動く手を勢いよく包んで、満面に笑みを作る。
「ありがとうっ」
うん、こちらこそとわたしはうなずいた。心の奥底がきらきらとまたたくような、そんな気分で。
「あのね、あたし、いっぱい練習したのよ! 先月音楽の授業で、いい曲を聴いたっていうから」
エリーゼのために、と、あの子の唇がなめらかに動く。淡いピンク色をした唇が、演目を言い終えるときゅっと笑みを作った。
「元気、でた?」
「うん、ありがとうっ」
わたしはあの子の手に頬を当てて、目を閉じる。あたたかい、なんて思ってくすりと笑った。
「ねえ、ひとつだけわがまま、言ってもいい?」
「ふふ、なあに」
笑顔に満ちた声で、優しく優しくうなずく。あの子もわたしの頬に、手をぎゅっとした。
「あなたのこと——エリーゼって、呼びたい」
髪が流れて、あの子の手と反対の頬をかすめる。部屋の秒針がかちりと鳴って、一回、二回、三回。わたしが不安になって目を開けたころ、頭に柔らかい感覚が落ちた。
「やっと、名前をくれた」
エリーゼのふんわりしたほっぺが、頭を撫でる。幼く甘い声は、わたしの耳のすぐ傍だった。わたしはもう一度、目を閉じる。
「瑠々、あたし、うれしい」
その日の、窓際には——レースのカーテンに撫でられながら、一輪のすずらん。
◇
「……そうだ」
こぼれ出た声が骨を伝って、耳に入る。空気にすらかき消されそうなそれは、凍えるみたいに震えていた。結びかけたエプロンの紐を、ぎゅっと握る。
エリーゼのために、をいつも弾いてくれたから、エリーゼ。これはわたしたちだけに伝わる、合言葉に似た愛称だった。
けれどエリーゼのほんとうの名前を、わたしは知らない。「エリーゼ」は、あの子がずっとほしがっていた名前のプレゼントだったから。
心臓が寒さに縮こまるように、ぎゅっとなる。わたしは、知らない、思い出せない。あの子のほんとうの名前も、一緒だったはずの時間も、幸せをもらった回数も——今、どうしているのかも。あの子は、まだあの花でいっぱいの町にいるのだろうか。あそこから引っ越さなかったら、まだ、わたしは——。
喉の奥に痛みが滲んで、呼吸が縮んでいく。足元がふらりとした。後ろの壁に、強く背中をぶつける。
その瞬間空気が頬をかすめて、頭の奥に重たく響く音がした。咄嗟に、ぎゅっと目をつむる。
「瑠々ちゃんっ! 平気っ?」
扉の方から、声。おそるおそる目を開けると、眉根を下げた薫子さんが立っていた。
床には書類の束や、ファイルの青い表紙が散らばっていた。ぶつかった拍子に落ちてしまった、らしい。
「まあ、雪崩れてきちゃったのね。大丈夫よ、一緒に元に戻しましょう」
「あ……ありがとうございます。ごめんなさい、ふらっとしちゃって」
笑って言うと、薫子さんはわたしの背に手を当てた。苦しいところはないか、と訊かれて、はい、と答える。わたしはゆっくりしゃがんで、ファイルの一冊を手に取った。
「あら、瑠々ちゃん、それは?」
顔を上げて、薫子さんが示す先を追う。わたしのロッカーの端に、すずらんの栞が乗せてあった。
「……さっき、カナデ先生からお預かりしたんです。図書館の利用者さんのものだろうって。きっとマーガレットの栞と、持ち主さんは同じだと思うのですけど——」
「そう……心配ね。今日も、マーガレットの持ち主さんは見つからなかったわ。大切な栞なら、ご不安でしょうから」
薫子さんは書類の一枚ずつを集めながら、困ったように笑った。わたしもうなずいて、青いファイルを抱え直す。デザインを見るに、きっと手作りだろうから、大切なひとからのプレゼントかもしれない。そうなら、さみしいだろう。
「——そうだ、瑠々ちゃん。今日はいいニュースもあるのよ」
薫子さんはわたしを見て、にっこりとした。口元に人差し指を当て、小首をかしげる。
「ハロウィーンの日になくなった本ね……今日、返ってきたの!」
「わあっ」
思わず目を見開いて、視界がぱっとなる。よかった、とため息がこぼれた。
「ええ、ほんとうに。やっぱり瑠々ちゃんの言う通り、おばけのいたずらだったんだわ」
ファイルの角を揃えるわたしに、いたずらっ子みたいな笑みが向けられる。
「ふふ、薫子さんったら」
なんだかほっとして、わたしは次のファイルに手を伸ばした。白い床が少し、現れる。
「——そういえば瑠々ちゃん、今日はリボンをつけていないのね」
微笑みをはらんだ声が、穏やかに耳に入る。けれど数秒理解できなくて、わたしは「え」と発した。
そうっと、頭に手をやる。
編み込まれた髪に触れるだけで、しゅるしゅるとした布の感覚はない。少しだって。
「う、うそっ」
わたしが声を上げて、薫子さんがくすりと笑った。無数のページに吸い込まれながら、「うっかりさんね」となめらかな声。
床は少しずつすっきりを取り戻して、時間は一息ずつ過ぎていく。誰もいない図書館は今日も、ゆったりと紺色へ近づいていった。




