変わらぬあなたとローズマリー
エリーゼの赤い指先。淡雪色のマグカップ。半透明な湯気。ハーブティーの匂い。文庫本に、本屋さんのカバー。
あの子と私はもたれあって、自室のベッドへ腰掛けていた。雪のしんしんと降り続く夜だった。あの日は、わたしが十一歳になった日。
エリーゼがお茶をふうふうとして、その隣でわたしは文庫本のページをめくる。百十一ページ。文字列に視線を伝わせて、わたしはエリーゼの顔へ目を上げた。
髪のゆるやかなカールに、白い光がオーナメントのようにのっかっている。——しばらく見つめていると、あの子はわたしの目に気がついてにっこりと笑った。
「小説、おもしろい?」
「うん、とっても!」
わたしもあの子に微笑み返す。
たしか、古本屋さんで買った文庫本だったと思う。難しい本で、当時のわたしには中身はあまりわからなかった。けれども甘やかな言葉の端々が好きで、学校に旅行に、どこへでも持っていった。
「ありがとう、エリーゼ」
「いいの……あたしはプレゼント、用意できないから」
あの子はちょっとさみしそうに笑って、両手で包んだマグカップに視線を落とす。ほんのりしたピンク色のハーブティーが、エリーゼの顔を映した。
わたしはクリーム色のページをそっと撫でる。長らく失くしていたあの本を、わたしの誕生日のあの夜、エリーゼが見つけてきてくれたのだった。もうきっと見つからないものだと思っていたのに。
「そんな顔しないで」
わたしはあの子の手の腕を、ぎゅっと抱いた。ぱっちりとした目がこちらを見る。くるんとカールしたまつ毛を、少しだけ震わせながら。
「わたし、本当にうれしかったのよ。エリーゼはいつも、わたしのことばかり心配してくれるのね——だけどね、わたしエリーゼがいてくれたら、それでいいのっ」
エリーゼの方へ、ぶつかるみたいに身を寄せた。あの子の手の中で、ローズマリーの香りがちゃぷんと跳ねる。
「……だめよ。瑠々は、あたしのたからものなんだもの。たからものは、ちゃんと大切にしたいわ。あたしは、わがままなの」
エリーゼもわたしに身を寄せ、目を閉じた。笑みをたたえた白い顔が、悲しく弱々しく思えた。
「うれしいわがまま。……全部、口に出して言ってくれればいいのに」
このごろエリーゼが、わたしの前に現れてくれないこと。それはあの子だって望んでいないということ。わたしはそれとなく感じて、わかっていた。
エリーゼの目が伏しがちに開いて、まばたきする。それからゆっくりと瞳が動いて、わたしを見た。
「ほんとうに、いいの?」
しおらしくて、叱られたあとの小さな子どものようだった。部屋でひとり泣いていたところへ大人が来て、お菓子でも食べないかと言われたときみたいな。
「エリーゼだって、わたしのたからものなのよ」
わたしは物悲しくなりながら、答えた。
外は静かで、カーテンを開けてもなんにもないんじゃないかしらとさえ思える夜だった。
「……じゃあ、言う」
エリーゼはゆっくりと体の向きを変えた。あの子の腕に絡めた手が、するりと離れる。
向き合ったわたしたちは、おたがいの目を見つめていた。約束よ、と花びらのような唇が小さく動く。
「もし、あたしを———」
◇
imaginary
「想像上の」「架空の」「実在しない」
単語帳の、ゴシック体の文字が脳の裏をかすめる。青みがかった印刷のそれは、ひどくひどく単調で冷めていた。一時間前カウンターに置かれた、白い表紙のように。
エリーゼ、エリーゼ。エリーゼ。
わたしは本を抱えて歩いていた。逃げ出したい思いを、胃の中へ押し込めて。
——エリーゼは、存在しなかった。
外はとっくに紺色に染まっていた。レースのカーテン越しに、暗い冬の夜がのぞいている。なにかから隠れているような、追い立てられているような気分になった。心細い、そう思うと同時に震えが大きくなる。わたしはしゃっとカーテンを閉めた。
喉元まで込み上げてくる痛みを飲み込んで、薄く息を吐く。
もし、あたしを——。
エリーゼの真剣な瞳が蘇る。ガラス玉みたいなそれは、小さく揺らぎながらもまっすぐにわたしを捉えていた。
あの雪の夜はきっと、最後にエリーゼと会えた夜。ぐらぐらする頭の中で、わたしはエリーゼを探した。雑踏の中でたったひとりの声を見つけるみたいに。ポプリの中に紛れた、一枚の花びらを見つけるみたいに。
寒さが足にまとわりつく。一冊本を書架へ押し込んで、また立ち上がった。エリーゼと結んだ約束は。消えてしまったあの子は。ここまで思い出せたのにと、呼吸が浅くなる。少しだって記憶が戻ったことをよろこべない自分にもまた腹が立った。ストーブの消えかけた図書館に、心が腐っていく匂いがする。
わたしは何度目かの深呼吸をした。吸うばかりで、上手く吐けない。それでもじりじりする心根から目を背けて、できるだけ吐いた。時計の秒針がかちかちと鳴っていた。
もう、考えるのはよそう。
高い位置に手を伸ばす。本をまた一冊、棚へ戻した。ブックトラックにもわたしの手の中にも、本はあと一冊。今日の配架はこれで最後だ。図書館は閉館へ近づいていく。このあとひとりになって、わたしはどうするのだろう。カウンターで作業をする薫子さんへ目をやって、ぼんやりと思った。
どうするもこうするもない。心のどこかで、小さく。
——エリーゼなんて、初めから存在しなかったんだ。
そう思ってしまえば、どこか腑に落ちた。わたしの想像上の、架空の、存在しないお友だち。あの子がいなくなったのは、わたしが大人になったから。ほんとうに飴玉を飲み込んだみたい。そう思った。
わたしは最後の一冊を両手にかがみ込んだ。請求記号を確かめる。分厚い単行本の並んだ書架の隅に、本を差し込んだ。
ふと、背表紙が目に入る。クリーム色のハードカバーに、ピンク色の表題。「辞典」と言う字が目をかすめた。
辞典はもっと遠くの棚のはずだ。けれど、場所は合っている。わたしはもう一度引き出して、その本を見つめた。
——花言葉辞典。
表紙には甘やかに、色とりどりの花が描かれていた。右下の角には、白いマーガレット。ざわつきのなくならない心で、ふいに栞のことを思い出した。
親指でそっと花びらの端を撫でる。わたしはゆっくりと、硬い表紙を開いた。
五十音順もぐちゃぐちゃに、わたしは索引を見つめる。初めに目についたのは、カーネーション。わたしは撫でるようにページをめくった。お腹の底のざらざらした感覚から目を背けて。
感謝、温かい心、あなたを決して忘れません。
ぎゅっと、歯を噛み締めた。わたしは忘れてしまった。ページに落ちたわたしの影が、文字を読み取る邪魔をする。
マーガレット。
心に秘めた愛、誠実、信頼。
あの秋の終わり、エリーゼの小さかった手が蘇る。あの子と抱き合ったとき、確かにやわらかな香りがしたはずなのに。
すずらん。
再び幸せが訪れる、純粋な愛、高潔な美徳。
美徳なんかじゃなかった。ストーブの音が消える。わたしが縋っていたのは、なにもない虚空だった。
桜。
思いを託します、精神の美、純潔。
エリーゼはどうして、約束だなんて言ったのだろう。目の奥が焼け付くように熱かった。
きっとあの栞の持ち主は、幸せなひとだ。こんなにも綺麗な言葉を持つ押し花を、プレゼントされたひとなのだから。毛の短い絨毯についた片膝が、じりりと痛む。
わたしは本を閉じた。詰まりそうになる呼吸を、なんとか進める。秒針に追い立てられるように、わたしは立ち上がった。
この本は、借りていこう。両手で厚いそれをぎゅっと抱く。もしかしたらエリーゼのことを、もっと思い出せるかもしれない。もしかしたらエリーゼが架空でない証拠だって。きっと。
書架から通路へ向き直り、一歩足を前へ出す。そのとき、どんと重い衝撃を受けた。わたしの体になにかがぶつかった。手から辞典が離れる。——胸の辺りに丸い感覚。子どもだ、とわかった。いつの間に入ってきていたのだろう。ピアノ教室を終えた生徒さんだろうか。ほんの一瞬の間に、考える。
「——ごめんなさい、大丈夫?」
少し屈んで、声をかけた。けれどもそこには、黄緑色の絨毯とわたしの影がただあるだけだった。咄嗟にあたりを見回しても、誰もいない。足音だってしない。わたしは目を見開いたまま、しばらく立っていた。
秒針が円を描いていく音に気がついて、やっと我に返る。わたしは膝を折って、落とした本へと手を伸ばした。
ふと、視界の端を鮮やかな緑色がかすめる。目をやると、透明のラミネートがきらきら光っていた。それでいて落とし物のように、そこでじっとしている。わたしははっと息をのむ。伸ばした手を一度握って、それをそっと拾い上げた。
蛍光灯の光に当てられて押されているのは、小さなピンク色の花だった。少しむらさきがかった花弁たちは、寄り添い合ってふたつの花を形作っている。乾燥して、触れれば壊れてしまいそうなそれは、ラミネートの中で綺麗なままに守られていた。
——「約束よ」
サイドテーブルにマグカップを置いて、エリーゼはわたしの手を取った。あのしんと静まり返った、雪の日の夜に。
——「もし、あたしを忘れても」
ガラス玉のような目は、白い肌は、あたたかな手は、わたしを離さなかった。
——「瑠々はどうか、幸せでいて」
祈るようなささやきだった。エリーゼの瞳が涙に濡れて、きらりと輝く。それは頬を伝って、ベッドのシーツにこぼれ落ちた。ミルククラウンができるより、ずっと静かに。
わたしは握られた手をほどいて、エリーゼをぎゅっと抱きしめる。わたしときっかり同じ背の、か細い体を。ゆるやかなカーブを描いた髪が、つやりとした感覚で頬に当たった。
わかった。わたしはそのとき、そう言った。エリーゼ。名前を呼ぶ。
——「ローズマリーはね、守護の象徴なんだって。お母さんが言ってた、わたしたちを守ってくれるの。だから」
ばってんの描かれた華奢な背中を、優しく撫でた。たからものに触れるように、そっと。
——「エリーゼの想いだって、きっと守ってくれるわ。そうじゃなくても、わたしがちゃんと守るから」
うん、とエリーゼは言った。かすかに涙をはらんだ声が、冬の空気を震わせる。
——「エリーゼ、大好きよ」
あたしも、大好き。
エリーゼはわたしの腕の中で、大きくうなずいた。パジャマの肩を、あたたかいものが濡らす。スノードームに閉じ込めたいような、あれはそんな夜だった——。
栞の端が、少し重くなって跳ねた。透明の粒がラミネートに、ローズマリーの上に落ちて、きらりと輝いている。わたしは濡れた頬に、そっと指で触れた。
わたしはひとつ、ふたつ、大きく呼吸をする。喉は震えたけれど、少し前よりずっと長く空気を吐けた。
ふっと、目を動かす。視界が広くなったように思えて、少し笑った。本を拾い忘れていたことだって思い出して、わたしはもう一度膝を折る。
頭の上で、細いリボンがゆらめいた。そうだ、エリーゼは、探し物が得意な子。
花言葉辞典は、床へ放られて見開かれていた。ローズマリー。セピアのような色をしたインクの文字が、わたしの目に留まる。本を閉じないまま、そっと拾い上げた。
ローズマリー。
花言葉は追憶、変わらぬ愛、あなたは私を蘇らせる——。
もう一度、わたしは栞へ目を落とした。
緑色のリボンは、透明のラミネートは、押し花は、二週間ごとにわたしの前へ現れた。それ毎に、持ち主の方も図書館へいらしていることになる。それならきっと、忘れものいれにだって気がついたのではないかしら。
二週間後は、クリスマス、わたしの誕生日——さっきぶつかった誰かさんは、十一歳のわたしくらいの背丈だった。わたしは涙を、もう一度ぬぐった。
あの子は今年も、プレゼントを持ってきてくれたのだ。きっと。
——エリーゼは、わたしのために。
わたしは本を棚へ戻し、カーテンを開けた。紺色の空気の中に白い雪が、降り始めている。
エリーゼ。わたしは小さく呟いた。
静かで、スノードームの中へ閉じ込めておくには悲しすぎる今日だった。夜がすぐそこまで、やってきている。わたしは今日、十七になった。
——わたしは。
二階からは甘やかに、蝶々のように。ピアノの奏でる、あの曲の調べが聞こえた。




